内部監査3課は、30階建てのグラード財団本部ビルの最上階――30階にあった。 3課と資料室を除くコンプライアンス統括部の他の部署が7階にあることを考えると、やはり そこが特別な部署であることは疑いようがない。 30階にあるのは、総帥室と秘書室、資料室と会議室が幾つか、そして内部監査3課だけだった。 内部監査3課への異動初日。 グラード財団に在籍するようになって3年が経つが、氷河は その日初めて、本部ビルの最上階に足を踏み入れたのである。 総帥室のあるフロアだけあって、30階は 他のフロアとは造りが違っていた。 他の階はエレベーターを降りると、そこから廊下が左右にのび、各オフィスに行けるようになっているのだが、30階はエレベーターを降りると、そこはホール――まさにエレベーターホールが広がっていた。 床に敷かれているものも、他の階のタイルカーペットとは異なり 毛足の長い濃緑色の絨毯である。 受付が無人なのは、総帥が不在だからなのだろう。 辺りに人影は一つもなく、人間の代わりに 受付脇の壁にフロア案内用のタッチパネルがあった。 内部監査3課のボタンを押すと、画面に30階フロアの図面が表示され、ある部屋に赤いランプが灯って、そこが3課のオフィスなのだということを、氷河に知らせてくれた。 既に就業時間に入っているというのに人気が全くなく しんと静まりかえっている廊下を歩いて、氷河は彼の新しい職場に向かったのである。 内部監査3課のオフィスは、30階東フロアの端にある比較的小さな部屋で、室内にはデスクが3つ置かれていた。 2つが向かい合い、その2つから離れたところに もう一つ、一回り大きなデスクがある。 おそらくは離れているデスクが課長席、残りの2つが経営職でない課員のためのもの――なのだろう。 「あ、今日から3課に配属になった方ですか」 同僚がいるのなら、その同僚は さぞかし陰鬱な表情でお仲間を迎えてくれるのだろうと思っていたのに、そこで氷河を迎えてくれた人物の声と表情は 意外なほど明るいものだった。 だが、『人材の墓場』で明るい笑顔を浮かべていられる人間が、普通の人間であるはずがない。 墓場で明るく笑っている人間がいたら、その人間はTPOをわきまえていない不作法者、もしくは 場の空気に頓着しない(良くない意味での)超越者であるに違いない。 要するに、その感性に 何らかの問題を抱えた人間である。 氷河に明るい声を投げかけてきた人物は、実際、どう見ても“普通の人間”ではなかった。 何よりもまず見た目が普通ではない。 身に着けているものは紺色のスーツで、それは一人の社会人としても 企業の一員としても 完全に許容範囲内、極めて常識的なものだった。 そこまでは普通だった。 しかし、一人の人間を評価する際に重要なのは――より重要なのは――皮にすぎない衣服ではなく、その中身である。 皮の中身が問題なのだ。 性別不詳。 年齢不詳。 内部監査3課のオフィスで氷河を出迎えてくれた その人物は恐ろしく可愛らしい顔立ちをした10代の高校生に見えた。それも女子高生に。 しかし、グラード財団は特殊な中途採用の場合を除いて大卒院卒しか採用せず、かつ、このビル内では内勤の女子は制服着用を義務付けられていた。 つまり、15、6歳の女子高生にしか見えない この人物は成人した男子だということになる。 グラード財団の これほど得体の知れない人間を見るのは、氷河はこれが初めてだった。 「はじめまして。僕、瞬です、よろしく」 その得体の知れない人物は、それがここの流儀なのか、苗字を名乗らなかった。 得体の知れないもののすることなので、何となく それも“あり”なのだろうと、氷河も彼(?)に 「氷河だ」 それは社会人としては極めて非常識な自己紹介だったのだが、“瞬”は同僚に――あるいは、3課在籍者に――常識を求めてこなかった。 やはり、内部監査3課は社会人としての常識を求められる部署ではないらしい。 気を悪くした様子も見せず、瞬は、彼が使っていたデスクの向かいのデスクを右の手で指し示した。 「こちらが、氷河さんの席になります。今日は とりあえず異動初日ですので、場所と雰囲気に慣れてくださいね」 「……」 場所と雰囲気に慣れるには、まず この場所がどういうところなのかということを知らなければならない。 異動初日、氷河は当然、(名目だけにしろ)3課の業務内容の説明やオリエンテーションの類が行われるものと思っていたのだが、瞬は そういうものを始める気配を全く見せなかった。 パソコンの設定を済ませると、他にすることもない。 業務を指示するメールも来ていない。 氷河は、自席で 到底ビジネス書には見えない本のページを繰っている瞬に、 「で、俺はここで何をすればいいんだ」 と尋ねてみたのである。 瞬からは、 「あ、今、この部署、暇なんです。大きなプロジェクトが入ると、半月くらい海外出張なんてこともありますから、暇な時は その時間を自分の好きなように使っていた方がいいですよ。お茶は自販機もポットもありますから、お好きなものを。紅茶でよければ、僕、いれますけど、氷河さんはコーヒー党? 紅茶党?」 という、およそどうでもいいような答えと質問が返ってきた。 どうやら瞬は、今日から この部署に配属になった新入りに 業務の指示を出す気はなく、その権利も有していないらしい。 まるで緊張感のない瞬の態度や言葉から察するに、どうやら そのようだった。 「どっちもいけるが――俺の上司は?」 「はい?」 決して仕事が好きなわけではない。 だが、仕事をすべき場所で仕事を与えられない居心地の悪さは格別である。 これが自発的退職に追い込む手なのだとしたら、確かにそれは有効的なやり方であるように、氷河には思われた。 しかし、氷河は、それを有効なやり方だと思う一方で、どうにも腑に落ちなかったのである。 もし瞬が いわゆるリストラ勧告の任を帯びて氷河の前に現れたのだとしたら、瞬の目には邪気も他意もなさすぎる。 ついでにいうなら、普通は そういうことは人事部の中堅どころの仕事だろう。 逆に、瞬がリストラを迫られる側の人間として ここにいるのだとしたら、彼は あまりに明るすぎる。 その明るさも、自分が置かれている立場に自棄になって得た明るさには見えず、鈍さのせいで自分の立場を自覚できていないようにも見えない。 瞬は、仕事のない状態を、いかなる気負いもなく自然に受け入れている普通の社員(?)に見えた。 というより、教師が急病で授業が自習になったことを、よくあることと普通に受け入れている女子高生に見えた。 「君のボスはどこだ。仕事に出ているのか」 「僕のボス……?」 さほど変なことを訊いたつもりはなかったのだが、そう問われた瞬は何やら考え込む素振りを見せた。 僅かに首をかしげたまま、瞬が氷河に反問してくる。 「この部署は、あなたを含めて課員2名と聞いていませんでした?」 「聞いてはいたが――だから、ボスはどこだと」 言いながら、氷河は視線で課長席を示してみせたのである。 それで瞬は 氷河の誤解――誤解だったらしい――を理解したようだった。 「ああ、その席は普段は誰も使っていないんです。形だけの上司席で……時々、他部署の人が ここに遊びに来た時に使うだけ」 「形だけの上司席……? なら、仕事は誰が指示するんだ。もしかして、おまえが――君が俺の上司ということになるのか?」 「いいえ、まさか。僕は、この部署におけるあなたの先輩なだけで、上司というのではありません。僕とあなたは社員等級も同じですし。むしろ、あなたの方が僕より年上でしょう」 「しかし、俺たちの管理監督の責任者がいるはずだろう」 「まあ……ここも一応 企業という組織の一部ですから いることはいますけど、あまり気にする必要は――」 自分たちの上司が何者なのかを 気にする必要はない――と、瞬は言おうとしたようだった。 企業の一員であるサラリーマンに対して。 どこぞの情報部の秘匿工作員なら、自身のボスの正体を詮索することは御法度ということもあるだろうが、グラード財団 及び その傘下の企業は ごく普通の利潤追求団体である。 それはないだろうと、氷河は瞬に食い下がろうとした。 瞬も『それはない』と思ったらしい。 そしてまた、それは 特段 秘密にしておかなければならないことでもなかったようで、瞬は ためらう様子もなく 氷河に内部監査3課の管理監督責任者の正体を教えてくれたのだった。 「グラード財団総帥の正式な肩書はご存じですか? グラード財団総帥 兼 コンプライアンス統括部内部監査3課統括課長 兼 同部資料室室長」 「なに?」 自分のボスの正体を知らされた氷河は、突然、『目が点になる』という古いフレーズを思い出したのである。 彼は まさにそういう気分になった。 グラード財団及び その傘下のグループ会社所属員 約3万人を統括することを生業としている財団総帥が、課員2名の この課の課長を兼ねている――と、瞬は言ったのだ。 真顔で。 「それは……もしかして俺は 出張経費精算の承認依頼も総帥に提出することになるのか?」 「ボールペン1本購入するのにも、沙織さんに――総帥に承認をお願いすることになります。あ、でも、そういうことは社内LANの承認システムで機械的に処理しますから、総帥室に自分で書類を持っていって『承認印 お願いします』なんて言う必要はないですよ」 「……」 瞬の声と表情は、どこまでも明るかった。 自分が『人材の墓場』と呼ばれる部署の所属員である事実を、全く 特別なことだと認識していないように。 だが、氷河はそうはいかなかったのである。 自分は 財団総帥の直接監視下に置かれるほどまずいことをしたのかと、氷河は落ち込まないわけにはいかなかった。 無論、“まずいこと”をした自覚はあった。 財団に1億2千万の損失を被らせたのだ。 それがまずいことでないはずがない。 それは むしろ財団に 背任行為で訴えられても仕方がないくらいのことなのだが、財団がそうしないのは、それを認識ある過失ではないと判断し、未必の故意ともいえないと認めたから。 氷河の行為は過失でもなく悪意でもないと認めざるを得なかったからなのだと――裁判で争っても氷河に勝てないと判断したからなのだと――氷河は思っていた。 事実もそうなのだろう。 が、だからといって、社にとんでもない損失を被らせた男を 何事もなかったように組織の中に在籍させておくわけにはいかない。 そう考えたゆえの『人材の墓場』への異動。 そういうことのようだった。 それが財団の希望なのだ。 |