――その凍気がマイナス100度に達したのかどうかは、氷河には判断がつかなかった。
しかし、時速20ノットほどのスピードで進んでいた船の航行が、氷河の作り出した巨大な氷の塊の付着によって ほぼ不可能になったところを見ると、船底に開いた穴を巨大な氷の栓で塞ぐことはできたらしい。
動きが徐々に遅くなり、結局停船してしまった船の甲板で、精も根も尽き果てた氷河は 大の字になって その場に仰向けに倒れ込んだ。
内部監査3課の業務が これほどハードなものだとは。
それは氷河には完全に想定外のことだった。


「なあんだ。僕が鍛えるまでもないじゃない。氷河、マイナス200度は出せてるよ。冷却系の力を使える聖闘士は稀少なんだ。氷河ってばすごい。本当にすごいよ」
甲板に倒れ込んだ氷河の上に、瞬の弾んだ声が降ってくる。
閉じていた目を開けると、そこには、青い空を背景にした瞬の嬉しそうな笑顔があった。
瞬が何を言っているのかは わからない。
だが、氷河は、瞬がやたらと嬉しそうなので、なぜか彼自身も訳がわからないまま嬉しい気分になってしまったのである。
自分が これまで必死になって隠し続けてきた あの妙な力のことを、瞬は知っているらしい。
知っていて、不気味なものとは思っていないらしい。
氷河は、長く大きな吐息を洩らした。

「氷河、怒らないでね。あの黒い液体は原油じゃなく、超高濃度のイカスミだよ。自然に流しても害のないもの。星矢が大量のイカスミの入ったタンクと一緒に船の底で待機してたんだ。爆音は録音しておいたもの。煙は黒い煙が出るように細工した発煙筒」
「……星矢まで ぐるなのか。何のために――」
何のために、瞬は そんな小細工――小細工というには大掛かりすぎる小細工――をしたのか。
その訳が、氷河には わかるようでわからなかった。

「氷河に小宇宙コスモを発動させてもらうためだよ」
「コスモ?」
「氷河の秘められた力。わかっているでしょう?」
「……」
自分に奇妙な力が備わっていることは、幼い時から気付いていた――知っていた。
だが氷河は、それが小宇宙コスモと呼ばれる力だということは知らなかった。
「あの力はいったい――」

あの力は いったい何なのか。
何のために、誰が授けたものなのか。
そして、その力を備えている自分は いったい何者なのか。
幼い頃からの謎の答えを、ついに自分は知ることができるのだ――。
上体を起こし、少し心身を緊張させて、氷河は瞬の答えを待ったのである。
が、そこに闖入者が一人。
ずぶ濡れで海から甲板によじ登ってきたのは、ここより はるか東の国にあるグラード財団本部ビルの資料室で暇を持て余しているはずの星矢だった。
それなりに長い時間 海中にいたのだろうに、彼は 呆れたことにアクアラングもつけていなかった。

「星矢、お疲れ様」
「ああ、思いっきり疲れたぜ。誰だよ、こんな無茶な作戦立てたのは。俺はイカスミのパスタより、タラコスパゲティの方が好きなの。瞬、おまえだって知ってるだろ」
「そんな嫌味 言わないで。氷河の特訓のために、まさか本物の原油を海に流すわけにはいかないでしょう」
「そりゃ そうだけどさぁ。ああ、氷河、すげーじゃん。俺まで凍らされるかと思ったぜ」
本音を言えば、氷河は、よく凍らずにいられたものだと、星矢を褒めてやりたい気分だった。
氷河が作った氷の栓は、容量にして10コース50メートルプールの3倍分はある。
氷の栓を作るのに要した時間は20秒あまり。
船尾でイカスミタンクと待機していたというのなら、よほど素早く――最低でも50メートルを20秒レベルで泳ぐか潜るかしなければ、星矢は氷の栓の中の住人になっていたはずだった。
波のないプールでならともかく、海でその速さで泳ぐのは競泳自由形の世界記録保持者にも不可能だろう。
それはつまり、星矢もまた“秘められた力”“妙な力”を持っているということなのか。
そういえば、瞬の操る鎖も完全に物理法則を無視した動きを見せていた。
あの鎖を操る力も もしかしたら――。
氷河がその件を瞬たちに確かめようとした時、4人目の左遷仲間が その場に姿を現した。

「うまくいったようだな。俺の爆音はちょうどいいタイミングだったろう」
「なに言ってやがる。俺ひとりにこんなことさせやがって。水の扱いは おまえの方が専門じゃないか」
「仕方がないだろう。海水は髪を傷めるんだ」
流出した黒い水は星矢の小細工、そして爆音は紫龍の小細工だったらしい。
紫龍にその事実を知らされてしまったせいで、氷河は質問の変更を余儀なくされてしまったのである。
「まさか……このシージャック自体が狂言だったのか」
左遷仲間に不審の目を向けることになった氷河に、瞬は首を横に振ってみせた。

「海賊は本物。タンカーもタンカーの乗組員も本物。偽物は、流出した原油と爆音だけだよ。人材の墓場の昇格試験のために、タンカーを動かしたり、エキストラを70人も雇う予算は組めないもの。各国の領空を侵犯するヘリを飛ばすのと、大量の濃縮イカスミの準備だけで1億近く かかってるの」
「ちょうどいいとこに、ちょうどいい騒ぎが起こってくれたよな。行きがけの駄賃で、海賊も20人捕まえられたし、これで少しは この海域の船の航行が安全になってくれればいいんだけど」
「そうだね。そうなるといいね」
「1億……」
仕事らしい仕事をしていない課に数億の予算が組まれていることを訝ってはいたが、こんな業務が年に2、3度も起きたら、数億の予算はすぐに消化されてしまうだろう。
自分が1億を超える損失を出したせいで3課に左遷されられたのだと思っていた氷河は、瞬の予算消化報告に 少々複雑な思いを抱くことになった。
そんな氷河に、瞬が唇だけで作った微笑を向けてくる。

「氷河の3課への異動理由って、パプアニューギニアへの出張拒否じゃなくて、オレンジを凍らせちゃったせいなんでしょう? 氷河が担当した業務の関係で、検査のために たまたま乗船した船に積まれていたオレンジを。太平洋の真ん中で、その船の冷蔵装置が故障して――コンテナの温度が上がって荷物が腐ってしまったら、大型船1隻分のオレンジが大量廃棄になってしまう。だから、氷河は こっそり自分の力を使った。でも、その温度をうまく加減できなくて、冷蔵するつもりのオレンジを冷凍してしまった。氷河は冷蔵装置の操作を 誤って自分が故障させてしまったと報告したけど、冷蔵装置入れ替えの稟議書の添付資料を読んだ限りでは、それは温度が下がりすぎるような故障じゃなかったから、報告書を読んだ沙織さんが変だって気付いたんだ。あれ、船の修理代が1億を超えていてよかったよ。超えていなかったら、稟議書が沙織さんのところまで まわっていかなかったもの。沙織さんは その場で すぐに、氷河の3課への異動を命じたんだ」
「……」

瞬が『沙織さん』と呼んでいるのは、グラード財団総帥にして、コンプライアンス統括部内部監査3課統括課長 兼 同部資料室室長のことだろう。
ではグラード財団総帥は、普通の人間には持ち得ない“妙な力”のことを知っている――ということになる。
いったいグラード財団総帥は、そして、瞬と星矢と紫龍は何者で、何を企んでいるのか。
氷河は、視線で瞬に問うたのである。
言葉では、どういう言葉を用いて尋ねればいいのかが わからなかったから。
瞬が、その言葉を継ぐ。

「氷河みたいな力を持つ人のことを聖闘士というの。聖闘士というのは、沙織さん――女神アテナのもと、地上の平和と安寧を守るために戦う、いってみれば正義の味方のことで、僕や星矢や紫龍もそうだよ。地上の平和と安寧を乱す邪神の復活が近いらしくて、氷河みたいな小宇宙――特殊能力を持った人間が、今 まるでアテナの力に引き寄せられるように集まってきているの」
出来の悪い一介のサラリーマンが正義の味方とは、まるでスーパーマンの世界である。
瞬の言葉を、氷河は一笑に付したかった。
そうしていただろう。
あの力――出来の悪い一介のサラリーマンに備わっている“あの力”のことさえなかったら。

「あの力は超能力の類なのか」
幼い頃に あの力を使えることに気付き、それが普通のことではないことを知り、力を懸命に隠してきた。
なぜ そんな力が自分に与えられたのかがわからず、だが誰にも言えず、ひとり苦悩してきた。
その力が自分一人だけに備わっているものではない――かもしれないのだ。
それが何なのか、氷河は知りたかった。
これまでのように不安と恐怖だけでなく、少し期待も混じった気持ちで。

「超能力とは違うと思うよ。本来は誰もが持っている力で、訓練次第で誰にでも いろんなことができるようになるの。もちろん、得意不得意や向き不向きはあるけど。たとえば、僕は風を操ることができる。その気になれば気流や嵐も起こせるよ。紫龍は水を操れるの。例の中止になったダム建設の水量調査の件も、普通の人には見付けられずにいた水源を紫龍が小宇宙の力で見付けてしまったのが きっかけだったんだ。星矢は、何ていうか、あらゆることの速さが普通じゃなくて、国土交通省の政策局長への暴行事件の件も――ううん、あれは本当は暗殺未遂事件だったの。局長に向かって発射されたスナイパーの銃弾を、長官を守るために つい素手で掴んでしまったせいで、星矢はあらぬ疑いをかけられてしまったんだ」
「おまえは?」
「え?」
「おまえの本当の左遷理由は?」
「……」

それまで流暢に仲間たちの力について語っていた瞬が、氷河に そう問われた途端に 顔を強張らせる。
星矢が瞬の機嫌をとるように、とってつけたような笑顔を 自分の顔に貼りつけた。
「氷河。おまえ、武士の情けで、それは訊いてやるなよ」
「瞬は、本当に、『気が散って仕事にならない』という経営企画部 若手男性社員35名の嘆願書によって、隔離されることになったんだ。いったいどんなオトコのコが それほどの力を持っているのかと見物にいった沙織さんが、瞬の力に気付いた」
「紫龍、余計なこと言わないで! 僕を本気で怒らせて、息ができなくなっても知らないよ!」
本気で怒るどころか、半分泣いているような顔で、瞬が紫龍を脅迫する。
紫龍がすぐに口をつぐんだところを見ると、瞬の力は相当のものらしかった。
視線で紫龍を制しながら、瞬が説明を続ける。

「もちろん、アテナの聖闘士として戦えるようになるには、能力を制御できるようにするための修行が必要で、氷河には これからその修行を受けてもらうことになる。それぞれの力の性質に合った聖衣も与えられるよ」
「クロスというのは?」
「聖闘士が戦う時に身につける鎧みたいなものだよ。氷河には多分 白鳥座の聖衣が与えられる。そして、氷河は もうすぐ財団本部から海外法人に出向になるよ」

自分の人生に 何か大きな転機がきていることはわかっていた。
瞬に出会った時から、氷河の中には その予感があった。
それは構わないのである。
これまでのように、自分に備わった妙な力の意味がわからないまま――自分に課せられた使命が何なのか わからないまま――“普通の人間たち”の中に紛れ隠れることだけを意識して生きていることに比べれば、自身の力を“不自然で よくないもの”と思わずに生きていられるだけでも気が楽になる。
氷河はただ、とにかく瞬と離れることだけは嫌だったのである。
おいしいお茶、綺麗な瞳、ただものではない判断力と行動力。
瞬と離れるくらいなら、瞬の力で“息ができないもの”にされてしまう方が 余程 つらくないとさえ、氷河は思った。

「俺だけか?」
「空位の聖衣はこれで全部 埋まったから、もう新たな聖闘士は現れないと思う。内部監査3課自体が、もう用済みかな。僕たち4人全員が一緒にギリシャに左遷になるよ。あと一人、僕の兄さんがいるんだけど、兄さんは先に聖域に行ってるんだ。生活がまるで変ってしまうけど……氷河、大丈夫?」
氷河は、“生活”のことなど、心底から どうでもよかったのである。
どうせ天涯孤独の身、生きる場所が日本だろうとギリシャだろうと極地だろうと、氷河は構わなかった。
瞬と毎日 会っていられる状況を維持したい。
今の氷河の望みはそれだけだった。
その望みが叶えられさえすれば、生きる場所は月でも火星でも構わない。

「一緒にいられるんだな。その聖闘士というのになれば、俺は おまえと これからも」
「え? う……うん、そういうことになるね」
「なら聖闘士というものになってもいい。おまえと一緒にいられるのなら」
「氷河……あの……」
一般的な正義の味方に課せられた使命が 地上の平和と安寧を守ることなのであれば、氷河が掲げた“聖闘士になってもいい条件”は、異端なものだったのかもしれない。
普通の人間としても異端、聖闘士としても異端。
それでも それは、氷河にとっては決して外せない条件だったのだ。

「俺の――俺に天が与えた使命は 地上の平和を守ることではなく、おまえを守ることだと思う」
「ぼ……僕?」
「守るというのはおこがましいか。おまえに褒めてもらえるようなことをすることが、天が俺に課した――いや、俺が自分で選んだ俺の使命だ。俺は世界の平和なんかのためには戦えない。大切な誰かのためでないと――おまえのためでないと」
瞬に そう告げながら、『そうだったのだ』と、氷河は思っていた。
自分が これまで生きることを楽しめずにいたのは、己れに備わっている妙な力への不安のせいではなく、大切な人、守りたい人、愛する人、愛してほしい人がいなかったからなのだと。
“大切な人”が存在するか否かという問題に比べれば、“力”の有無など、駆けっこが早いか遅いか程度の意味しかない。

「氷河……」
瞬は、氷河の言葉に戸惑っているようだった。
普通の人間なら、“誰かのために生きる”というのは、ごく一般的な“使命”だろう。
だが聖闘士としては――聖闘士に、その“使命”は許されるのかと。
戸惑い、考え、迷い、だが結局 瞬は、氷河の使命を認め受け入れることにしたようだった。
「それが氷河の使命で、その使命があれば 氷河が生きる意欲を持てるっていうのなら」

人に課せられた“使命”とは、人が生きていくための力を生むもの。
人を絶望や諦めに向かわせない力でありそえすれば、その内容はどんなものでもいいのだ。
瞬は、そういう結論に達したのだろう。
実際、笑顔の瞬に そう言われた氷河は、その瞬間に、瞬よりも明るく生気に満ちた表情を持つ男になったのである。
生きる希望に満ち満ちた子供のように、氷河は その瞳を輝かせた。


「そういうの、フツー、使命っていうか? 瞬に褒めてもらいたいなんて、思いっきり欲望じゃん」
「まあ、使命も欲望も 内実は似たようなものだろう。同じものを違う方向から見ているだけだ。問題は、その内容ではなく、見方の方なんだ」
自由を奪われ 猿ぐつわをかまされ甲板に転がっている海賊たちの目を気にした様子もなく、瞬から 瞬のために生きる許可を得た氷河は幸せいっぱい夢いっぱい。
氷河と瞬の間にある妖しく春めいた空気は、日本語がわからない海賊たちにも感じ取れていただろう。

「見よう、考えようで、人生はどうにでもなるということだ。人生は、いつでも、どんな状況にあっても、考え方次第で楽しいものに変えることができるんだ。一介のサラリーマンでも、今は お先真っ暗な海賊でも」
国連海洋法条約に従い、これから遠く 日本まで連行され、見知らぬ国で裁かれることになる気の毒な(?)海賊たちのために、紫龍は英語で そう言ってやったのだった。






Fin.






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