「空が秋の色になってきたね」 少し前まで かなり濃い水色をしていた空は、いつのまにか空全体が薄く白い幕で覆われたかのような淡い色に変わっている。 城戸邸のラウンジの窓の向こうに見える空には、いかにも秋めいた絹積雲が浮かんでいた。 「よかった。秋になれば、きっと氷河も元気になってくれるよね。暑さで ぐったりしてる氷河を見てるのは ちょっと つらかったから、嬉しい」 そう言ってから 瞬は、ラウンジのソファに腰をおろしている氷河を振り返り、僅かに首を横に傾けた。 秋の気配の到来を氷河もまた喜んでいるだろうことを確かめるように。 「ああ、地獄の日々がやっと終わる」 氷河が首肯する。 瞬は、水面に落ちた一粒の小さな雫が 大きな波紋を描くように、その顔を微笑でいっぱいにした。 そんな二人のやりとりを見ながら、星矢は、 『氷河は おまえに心配してもらいたくて、わざとぐったりしてみせてるだけだろ』 という言葉を、瞬のために喉の奥に押しやり、紫龍は紫龍で、 『氷河は、母親の気を引くために仮病を使う子供と同じだ』 という見解を、瞬のために言葉にせずに済ませたのである。 仲間たちの気遣いを知ってか知らずか、瞬は、氷河が元気になる季節を 心から歓迎し、手放しで喜んでいるようだった。 「あ、桔梗の花が咲いてる。僕、取ってくるね。部屋の中にも秋の風情があったら、氷河、もっと元気になるよ、きっと」 『これ以上、氷河を元気にしてどうするのだ』という素朴な疑問を発することも、星矢と紫龍は 瞬のために自制した。 その幸せの原因が何であれ、今 現に幸せでいる人間に余計なことを言って、その幸せに水を差すようなことを、彼等はしたくなかったのだ。 それが瞬なら、なおさら。 そうして。 秋の風情を求めて瞬がラウンジを出ていくと、星矢と紫龍は やっと言いたいことを言えるようになったのである。 彼等は、瞬に対するような気遣いや遠慮を、氷河に対してまで示すような奇特な人間ではなかった。 もっとも、彼等は、せっかく言いたいことを言える状況になったというのに、彼等がぜひとも言いたいと思っていたことを一言も口にすることはできなかったのだが。 星矢たちの発言を妨げたのは、他でもない、白鳥座の聖闘士キグナス氷河の声。 瞬の姿を飲み込んでしまったラウンジのドアを名残惜しげに見詰めていた氷河が、突然、 「瞬はどうして俺 などと、あまりに彼らしくないことを言い出したせいだった。 「なに?」 氷河は急に何を言い出したのか。 眉をしかめた星矢の前で、氷河が真顔で 訳のわからないことを言い募る。 「まあ、俺は確かに かなりいい男だし、瞬を満足させてやれるだけの体力もある。なにより、俺は瞬が好きだ。しかし、俺には それ以外に 取りえらしい取りえはない。俺は瞬に助けられてばかり、迷惑をかけるばかりで、瞬のためにしてやれることは何もない。その上、我儘だし、視野狭窄の気もあるし――」 「しかも、マザコンだしな」 人は、自分の欠点を羅列するのが自分自身なら構わないが、他人に言われると不快を感じるようにできている生き物なのかもしれない。 あるいは、『俺なんか』と言葉の上では卑下してみせながら 「おまえは、自分では へりくだっているつもりなのかもしれないが、ちっとも そう聞こえないぞ。のろけを言いたいだけなのなら、庭に穴でも掘って、その穴に向かって 好きなだけ わめき散らすことだな。もちろん、周囲に人がいない時に」 全く謙虚でない氷河に、紫龍が助言を与える。 しかし、氷河が求めている助言は、そういう助言ではなかったようだった。 「俺は真剣に悩んでいるんだ。瞬が俺のどこを好きでいてくれるのかを正しく把握していないと、俺は いつか瞬を失望させてしまうかもしれない。たとえば、瞬が 俺の謙虚で控えめで大人しいところが好きなんだとしたら、俺が積極的で能動的な人間になろうと努めることは、百害あって一利なしの行為ということになる」 「誰が謙虚で控えめで大人しいだとっ !? 」 例えにしても、あまりに斬新、かつ あまりにも現実に即していない例えである。 が、恐ろしいことに氷河は例え話をしたつもりはないらしかった。 「もちろん、俺だ。謙虚で控えめで大人しいだろう。俺のどこが好きなのか、瞬に直接 訊けないあたり小心と言っていいくらいだ」 「……」 『謙虚』の意味も『控えめ』の意味も、人それぞれ――なのかもしれない。 用いる言語が違いすぎる人間と会話することの困難に、星矢は思い切り顔を歪めることになった。 「瞬のあれは、単におまえの呪いが解けてないせいだろ」 「呪い?」 この爽やかな秋の日の午後に、なぜ そんな不吉な単語が出てくるのか。 あまりの不自然、あまの脈絡のなさに、氷河は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。 星矢が、自分の推察に絶対の自信を抱いている顔つきで、氷河に大きく頷いてくる。 「おまえがガキの頃に瞬にかけた呪いだよ。ずっと おまえだけを好きでいろって、ガキの頃、おまえ、瞬に命令したじゃん。あれが まだ有効なんだよ」 「なんだ、それは。俺がいつ――」 「なんだ それは――って……」 問い返した氷河に、星矢のみならず紫龍までが、 「おまえ、憶えてないのか?」 と、非難めいた口調で確認を入れてくる。 「……」 その通りだった氷河が黙り込むと、それでなくても氷河の“控えめ”に呆れていた星矢の声は、その ほとんどが軽蔑でできたそれに変わった。 「我儘で視野狭窄でマザコンの上に、無責任かよ。人類史上 稀に見る最低男だな、おまえ」 「――」 そんなことを言われても憶えていないものは憶えていないのだ。 瞬と自分に関わりのあることを、どうやら自分だけが憶えていないらしいことが、氷河の居心地を悪くする。 「確か、あれはさあ――」 我儘で視野狭窄の無責任男でも、仲間は仲間。 はたして星矢が そう考えたのかどうかは 氷河にはわからなかったが、ともかく星矢は、氷河が記憶に留めていない“呪い”がどんなものであったのかを、氷河に語ってくれたのだった。 |