ロシアからやってきた新入りが 面白い芸の一つも見せてくれないらしいことを察すると、彼の前に集合させられていた子供たちは、それぞれに元の場所に戻り始めていた。
ある者はマットの上に、ある者はスタンディング・バッグの前に、ある者はランニングマシンの許に。
そんな仲間たちの流れに逆らって、瞬は ちょこちょこと、自分とは全く違う色でできている子供の側に近寄っていったのである。
そして、ここが どういう場所で、何のために自分がここに連れてこられたのかも知らされていないらしい新入りに、
「こんにちは」
と、日本語で挨拶をした。
が、返事はない。
返事どころか――瞬に何事かを言われたことは 認識しているはずなのに、彼は瞬に いかなる反応も示してこなかった。
ここでは彼こそが異質な者であるにもかかわらず、異質な者を見るような目を瞬に向けているばかりで。

普段の瞬なら、それだけで 彼の非友好的な態度に怯えて、彼の前から逃げ出してしまっていただろう。
しかし、今の瞬には、『彼の不安を取り除き、彼を一人ぽっちの子供でないものにしなければならない』という使命感の後押しがあった。
だから、瞬は、彼の無反応や無言にめげることなく、言葉を重ねることができたのである。
彼を怯えさせないために、とびきり優しい笑顔で。
「君、日本語、喋れるの」
瞬の笑顔が功を奏したのか、あるいは、その質問に答えないことで自分が被る不利益や誤解を防ぎたかったのか、異質な子供は ここに連れてこられて初めて声を発した。
「少し」
どんなに短くても ぶっきらぼうでも、それは紛う方なき日本語である。
瞬は ぱっと瞳を輝かせた。

「ほんと? じゃ、僕の言ってること、わかるんだね。よかった。僕、瞬だよ。友だちになろうね」
「と……もだち?」
「そうだよ。友だち。んーと、ロシア語では何て言うのかな」
言葉が通じるなら、生まれ育った国の違いや姿の違いは簡単に乗り越えられる障害である。
なにしろ、言葉が通じるなら、『不安がらなくてもいいんだよ』と言ってやることも『君は一人ぽっちじゃないんだよ』と言ってやることもできるのだ。
瞬は すっかり浮かれていた。
満面の笑みを浮かべ、弾んだ声で氷河を指差して、尋ねる。
「何て言うの?」
嬉しくて たまらないと言わんばかりに明るい瞬の笑顔に目を細め、金髪の異邦人は、
「氷河」
と答えてきた。

「ヒョウガ? へえ……ヒョウガって言うんだ。じゃ、こっちにおいでよ」
紫龍に指示された課題をクリアできたことで すっかり気が大きくなってしまった瞬が、そう言って氷河の手を取り、握りしめる。
泣き虫の瞬が いつになく大胆なことをしていると驚いている仲間たちの視線に気付きもせず、瞬は氷河の手を引っ張って、彼を兄たちのところに連れていった。

「兄さん、星矢、紫龍! この子、日本語、ちょっとだけ喋れるんだって。僕のヒョウガになってくれるって!」
瞬の兄 一輝と、星矢と紫龍。
その三人は、ここに集められた子供たちの中で三指・・に入る実力者と目されている者たちだった。
氷河は、だが、自分が紹介された三巨頭になど目もくれず、ここではビリから一番目の瞬だけを見詰めていたのである。
それでなくても人目を引く姿。
その上、瞬の笑顔は明るすぎた。
漆黒の闇の中で 輝く光を見付けたなら、人は その光だけを見詰め続けるものだろう。
今の氷河がそうだった。
「ねっ、僕のヒョウガになってくれるんだよね!」
「……」

何が『ねっ』なのかは わからないが、瞬がにっこり笑って同意を求めるので、氷河は瞬に大きく頷き返した。
突然 連れてこられた見知らぬ国、見知らぬ場所。
ここに来て瞬に会うまで、氷河は、横柄で横暴な大人の日本人としか接していなかった。
異国の地で初めて会った、親しみやすく、温かく、優しく、しかも可愛らしい人間。
瞬の言う『僕のヒョウガになる』という日本語の意味が よく理解できないという事実は、その時の氷河には全く重要なことではなかったのである。
そして、日本語に堪能な(はずの)ネイティブ・ジャパニーズたる瞬の仲間たちも、瞬の“ロシア語”が変だということに、その時には気付いていなかった。

『ヒョウガ』という名詞が気に入ったらしい瞬は、その日以降、ロシアからやってきた新しい仲間を『僕のヒョウガ』『僕のヒョウガ』と呼び続けた。






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