その翌朝。 氷河と瞬は、自分が呪いをかけたことも 呪いをかけられたことも、すっかり忘れてしまっているようだった。 氷河に至っては、昨日 瞬に呪い返しを食らったせいで、幼い自分が瞬に呪いをかけた記憶を再び失ってしまったかのように晴れやかな表情をしている。 ただ、『自分は、ずっと瞬をいちばん好きでいる』という呪いは、記憶が失われても有効で 確然たる力をもって氷河を支配しているらしく、氷河の瞳には、おそらく彼自身も意識していないのだろう強く深い恭順の色が たたえられていた。 それが、“昨日の出来事を知っている第三者に、そう見えるだけ”ではないことを、星矢が確認できたのは その日の午後。 沙織への届け物を手にした氷河が、ラウンジに登場した時だった。 「瞬。沙織さんのところに、お菓子の届け物があったそうだ。俺たちで食っていいと言われた」 「わあ、すごい。食べるのがもったいないくらい綺麗なお菓子だね。これゼリーなの?」 「琥珀羹という名の和菓子らしい。果物を寒天や葛餅で包んだものだそうだ」 そう説明しながら、氷河がラウンジのセンターテーブルに置いたトレイの上には幾種類もの果物を氷漬けにしたような色とりどりのお菓子。 いつもは 午後のおやつを運んでくるのは城戸邸のメイドの仕事なのだが、今日に限って氷河が それを運んできたのは、瞬への恭順の証を示したい氷河が、メイドの仕事を横取りしたため――と察せられた。 つまり、それは、氷河にとって あくまでも瞬への捧げ物、瞬への恭順の証であり、それ以外の何かではなかったのである。 であればこそ、彼は、 「おーっ、うまそ〜!」 と歓声をあげながら 菓子の載った皿を取ろうとした星矢の手を 情け容赦なく氷漬けにしたに違いなかった。 「まず、瞬が選んでからだ。図々しい奴だな」 氷河は、星矢の不敬な振舞いに対して自分が下した罰を過酷に過ぎるものとは思ってはいないのだろう。 彼は、ごく普通に(?)不愉快そうな顔をして 星矢を叱責した。 「だ……だからって、仲間の手を凍らすかっ !? 」 度外れの厳罰を、星矢が厳重抗議する。 が、当の氷河は、そんな星矢を ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるガチョウ程度にしか認識していないようだった。 「手は凍らせていない。周囲の空気を凍らせただけだ。絶対零度というわけでもないしな。おまえなら、1時間も もがいていれば その程度の氷塊は簡単に壊せるだろう」 「そういう問題かっ !? 」 星矢の抗議は、氷河の耳には、おそらく 人権を有する一人の人間の発言として聞こえていない。 氷河が星矢を一個の人間として知覚しているのかどうかも怪しいものだった。 氷河は、彼にとって唯一の人間――むしろ神に等しいもの――が、彼の捧げ物を気に入ってくれればいいと、それだけを気にしている。 絶対の力を持つ神の機嫌が右に向かうか左に向かうか、固唾を呑んで見守っているような氷河の視線に脅されて(?)、瞬は恐る恐るトレイの上の菓子の一つを指差した。 「あ、じゃあ、僕、このイチゴの」 「一つだけでなくていいぞ。星矢は大人しく順番を待ってるし、遠慮しなくていい」 「あ、うん。じゃあ、このメロンのも」 「いくらでも。全部おまえのものにしてもいいんだ。星矢にやる必要はない」 「いくら僕が甘いもの好きでも、全部は食べられないよ。ありがとう、氷河。でも……」 いくら瞬が甘いもの好きでも、手に氷のグローブを装着させられて悔しそうに宝石のような菓子を見詰めている星矢の前で舌鼓を打つことは なかなかできることではない。 瞬は、氷河に遠慮して ちらりと一瞬だけ 星矢の手許に視線を投げ、氷河は、そんな瞬の星矢への気遣いと気後れを不要のものと断じた。 「おまえが星矢のことを気にする必要はない。ああ、お茶が遅いな。ちょっと催促してくる」 「あ、僕が行くよ」 「いや。おまえは、そこで、その意地汚い馬鹿野郎が おまえのお菓子を横取りしないよう、見張っていろ」 「え……? あ、うん……」 声も言葉も表情も態度も 昨日までと変わらず 横柄の極みなのだが、氷河のしていることは、正しく瞬への奉仕活動だった。 氷河は、瞬に仕えることのできる現在の自分の立場を、素晴らしい幸運にして幸福だと感じているのだ。 瞬のために、氷河がいそいそとラウンジを出ていく。 そんな氷河を見送ってから、瞬はゆっくりと星矢の方を振り返った。 「ねえ、星矢」 「なんだよっ!」 利き手の自由を奪われて、それでなくても平常心でいられないところなのに、自分の名を呼ぶ瞬の声に なぜか手負いの仲間を案じる響きがないことが、星矢の声と気持ちを荒立たせる。 今の瞬は、だが、仲間の気が立っていることに気付いてもいないようだった。 気付かないまま、(星矢にしてみれば)実に馬鹿げた疑問を呟くように口にする。 「氷河って、どうしてあんなに優しいのかな」 「誰が優しいだとっ !? 」 「僕 「優しいのはおまえに対してだけだろ! 俺の惨状を見てみろよ!」 城戸邸の超高性能防音設備が自信を失い 身の置きどころをなくしてしまいそうなほどの大音声で、星矢は瞬を怒鳴りつけたのだが、瞬には その声が聞こえなかったらしい。 「ほんと、不思議なんだよね……」 氷河の姿を飲み込んだラウンジのドアに、再度 名残惜しげな視線を投げかけてから、瞬が、その言葉通り、不思議そうに独りごちる。 いくら利き手の自由を失うという非常事態の 真っ只中に置かれていても、そう呟く瞬の瞳が嬉しそうに輝いていることに気付かぬほど、星矢は鈍感ではなかった。 瞬の瞳は今、確かに、これ以上ないほど幸せそうに嬉しそうに輝いていた。 氷河と瞬は、気付いていないのだ。 自分たちが互いに呪いをかけ合っていることを。 気付かないまま、自分が恋人に愛されていることを不思議に思い合っている。 おそらく、それは、第三者が『そうなのだ』と教え指摘してやっても、当人たちには理解できないことなのだろう。 二人は、なにしろ、自覚がないのだ。 自分が呪いをかけた自覚も、自分が呪いをかけられた自覚も。 恋の第三者たる星矢としては、恋の外側から、そんな二人を見て溜め息をつくこと以外、できることもなかったのである。 「だが、まあ、恋とは そんなものなのかもしれないぞ」 見苦しい おやつ争奪戦に加わりたくなかったのか、それまで知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた紫龍が、星矢の溜め息の訳を察して苦笑を浮かべる。 「呪いのかけ合いが恋だってのかよ」 星矢は、少々 疲労感の漂う声で、紫龍に問い返した。 おやつの選択には関心がないらしい紫龍は、しかし、言葉の選択には関心がないでもないらしい。 彼は、星矢の言葉の選択に、今日も渋面を作った。 「だから、せめて、暗示とか、強迫観念とか、思い込みとか言ってくれ。呪いなんて非科学的だし、おどろおどろしい」 「おまえも大概、どうでもいいような細かいところに引っかかる奴だな。呪いじゃなくて、思い込み? そんな簡単なものかよ、あれが」 「そうは言うが、思い込みというのは、結構 人間の言動を大きく左右するものだぞ。人の運命を変えてしまいかねないほどの力を持っている」 凍らされたのは右手だけなのだから、おやつは左手で食べればいいだけのことなのに、星矢は そんなことも思いつかないでいるようだった。 これも 一種の思い込みなのかもしれない――と、紫龍は思ったのである。 手が いつも通りではないのだから、自分は いつも通りに おやつを食することはできないのだという思い込み。 そして、恋も、もしかしたら、そんなふうな ただの思い込みにすぎないのかもしれなかった。 だが、死ぬまで思い込んでいられるなら、それで恋人たちが幸せでいられるなら、それで問題は生じない。 恋とは そういうものなのだ。おそらく。 Fin.
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