翌朝、瞬は、いつものように凍れる女神に薔薇の花を捧げるためにやってきた公爵に、冥府の王から与えられた再生の花を手渡した。
「今日は、この花を」
朝露のような瞬の涙を含んだ花。
公爵は、瞬が 漂わせている 悲愴な決意の気配を感じ取ったらしい。
彼が持ってきた薔薇の花に比べると あまりに貧相な その小さな花を無言で受け取った公爵は、その花を彼の女神の胸の上に置いた。
再生の花は、速やかに凍れる女神の身体の中に溶け込み、そして、凍りついていた彼女の心臓に 最初の鼓動を促した。

「これは――」
凍りつき動けずにいた彼女の心臓が、熱い血を その全身に送り出し始める。
シベリアの海を固く閉ざす氷より冷たく冷え切っていた肌は熱を帯び、その唇には血の色が戻った。
頬が薔薇色に染まり、瞼が小さく震え、そうして 彼女は 最後に その目を開いた。

「氷河……?」
甦った彼女が最初に口にしたのは、公爵の名前。
「あ……」
驚く公爵を見て、彼女は その美しい貌の上に ゆっくりと微笑を広げていった。
「まあ、氷河。しばらく見ないうちに随分と――」
「随分と何なんだ! 俺がいつ、あなたの命を犠牲にしてまで生きていたいと言った!」
「あら、だって、それは当然の――」
「少しも当然じゃない!」
ついに甦った美しい人を怒鳴りつけ、公爵が彼女を抱きしめる。

一人の女性が その命を取り戻しただけのことなのに――それだけで、公爵は 昨日までの彼とは別人のように“騒がしい”男に変わってしまっていた。
大嫌いだった大声をあげ、全身を歓喜に震わせ――彼女を抱きしめている今は おそらく涙を流している。
本来 彼はこういう人間だったのだろう。
感情豊かで、表情も豊か。
誰よりも生き生きと、その命を生きている人。
愛する人の命が甦ったことで、公爵もまた、たった今 生き返ったのだ。
それは瞬にはできなかったこと。
彼女だから――公爵に愛されている人にだけできたこと。
それこそ もう永遠に離すものかと言わんばかりに強く彼女を抱きしめている公爵の後ろ姿を、瞬は悲しく見詰めた。
そして、自分は ここにいてはいけない人間だということに気付き、部屋を出ていこうとする。

「誰が私を甦らせてくれたの。その人に会いたいわ」
凍れる女神から 公爵に愛される幸福な人間に変化した女性が そう言ったのは、公爵の聖域の扉に 瞬が手を掛けた時だった。
「あ……ああ。あなたからも礼を言ってくれ。瞬、こちらに」
公爵に呼ばれてしまっては 従わないわけにはいかない。
二人の再会の喜びに水を差すようなことだけはすまいと、瞬は熱を帯び始めていた目を伏せたまま、幸福な女性の前に戻った。
長く彼女の寝台だった祭壇を、今は椅子にしている その人が、瞬の頬に手をのばし、瞬の顔と瞳を じっと見詰めてくる。
彼女は、瞬が隠そうとしていたものを――今にも涙があふれ出てしまいそうな瞳を――特に鋭く強い眼差しで見詰めてきた。
やがて、満足したように長い吐息を洩らし、やわらかく微笑する。

「とても美しい瞳だわ。あなたが私の氷河に真実の愛を与えてくれたのね。氷河は果報者だこと」
「それは……どういうことだ」
花の品評でもするかのように瞬を見詰めている元女神と瞬を 緊張した面持ちで見守っていた公爵が、彼女の言葉に反応し、二人の間に割り込んでくる。
彼女は そんな公爵を見やり、降り注ぐ春の陽光を喜び 胸を弾ませている少女のように軽やかな声で、冥府の王が忌々しげに告げたものと同じ言葉を口にした。
「私の死の呪いは、私か あなた以外の人間が、私か あなたへの真実の愛を示すことでしか解けない呪いだったのよ。私は死んだも同然の状態だったから、誰かの真実の愛を得ることができるのは あなたしかいない。私が甦れるかどうかは、つまり あなたがもてるかどうかにかかっていたわけ」
「俺はそんなことは聞かされていなかったぞ!」
「そんなの常識でしょ。せっかく手に入れた命を手放す可能性を増やすような真似をするほど、冥府の王が親切なわけはないし」

『そんなにも軽々しく残酷に、あなたは なぜ その“親切なこと”をしてくれるのだ!』と、瞬は叫んでしまいたかったのである。
知らずにいた方が公爵は幸福でいられ、知られずにいた方が、公爵を愛する哀れな人間は 自身の分不相応な思いに苦しまずに済むというのに、
瞬は、事実を知った公爵が何も言わずに済むように、急いで彼に別れの言葉を告げた。
「よかったですね、公爵様。どうか 幸せになってください」
「瞬。事実か」
「僕は このお城を出ます。これまでどうもありがとうございました。――さようなら」
美しく幸福な二人に 深く腰を折って、瞬は彼等に背を向けた――向けようとした。
そんな瞬の手を、公爵が素早く掴みとる。

「なぜ おまえが この城を出ていくんだ」
「なぜ?」
『なぜ』などという言葉を、それこそ なぜ公爵は言葉にできるのか。
愛する人と愛し合えるという幸運に恵まれた人は、愛されない者の悲しみや苦しみを察することすらできないのか――。
それでも公爵を憎むことはできないから――公爵の言葉に、瞬の胸は傷付いた。

「僕は公爵様に幸せになってほしい。でも、幸せな公爵様を見ているのはつらいんです」
「だから、なぜ」
幸福な公爵は、残酷な『なぜ』を繰り返す。
今 ここで涙を流し、彼の幸福に影を落とすわけにはいかない。
瞬は、持てる力のすべてを使って、懸命に微笑を作った。
「公爵様が幸福に笑う姿を見たかった。でも、それが僕以外の人に向けられるのが寂しい――悲しい。羨ましい。だから、お別れします。僕は、そこまで強くなかったみたい。このまま公爵様の側にい続けたたら、僕は公爵様の幸福を喜べない人間になってしまう」
「俺が一人の人にしか 笑いかけないと思うのか」
「そうは言いません。公爵様は、僕にも笑いかけてくれるようになるかもしれない。でも、それはあの方が甦ったからで――それは、僕が欲しい笑顔とは違うの。僕は――僕の力では公爵様を微笑ませることはできなかった」
「わからん。こうして俺を幸福にしてくれたのは おまえだろう。俺がマーマに向ける笑顔を、おまえに向けて どんな不都合が生じるというんだ。俺がおまえに向ける笑顔は、確かに俺がマーマに向けるそれとは違うものかもしれないが、笑顔は笑顔だろう」
「――」

昨日までの彼からは想像もできないほど熱心に情熱的に、その上 真剣そのものの目をして、公爵は瞬に訴えてくる。
公爵が いったい何を そんなにも熱く言い募っているのか、瞬には わからなかった――今は考えられなかった。
今 彼は、彼の甦った女神を何と呼んだか。
両親を知らない瞬は その言葉を使ったことはなかったが、それが母親を呼ぶ際に使う言葉であることくらいは、瞬も知っていた。

「マーマ?」
「? ……ああ」
「そんな……。だ……だって、こんなに若くて綺麗で、花の女神のように綺麗で――公爵様と大して歳も違わない……」
「ま」
震える唇で瞬が告げた言葉に、公爵より“花の女神のように綺麗”な人の方が先に反応する。
彼女は、それこそ 鮮やかな薔薇の花が咲くように、その口許をほころばせた。
「彼女が俺の命を救うために その命を冥府の王に差し出したのは、俺が10歳の時だ。それから10年以上眠り続けた彼女は歳もとっていない。俺はその間 成長した」
「あ……え……だって、そんな――」
確かに、言われてみれば、二人が母子でも何の不思議もない。
陽光のように輝く金髪、晴れた夏空の それのように青い瞳。
確かに 二人は似ていた。
だが、瞬は これまで、二人の類似を 美しいものは似るもので、美しいものが美しいものに惹かれた結果なのだと思っていたのだ。

急に瞳をきょときょとさせ、視線に落ち着きがなくなった瞬の混乱振りを見て、公爵は すべてを悟ったようだった。
「おまえは、彼女を俺の恋人だとでも思っていたのか」
「だ……だって、とっても若くて、とっても綺麗で――」
「おまえの方が ずっと綺麗だ。俺に恋人がいたら、おまえは悲しいのか?」
「ぼ……僕は――」
戸惑い 答えに窮した瞬を見て、公爵は――昨日までの彼なら考えられないことだったが――楽しそうに嬉しそうに笑った。
自分が公爵に からかわれていることに気付き、瞬はますます何と答えればいいのかが わからなくなってしまったのである。

「ぼ……僕が心を込めて お仕えしてきた公爵様は、いつも優しくて静かで、そんな意地悪を言ったりしなかった」
「俺は 意地悪な男なんだ。知らなかったのか」
「し……知りませんでした」
こんなことではなく、もっと別のことを言いたい。
もっと違う言葉を聞きたい。
瞬は 憎まれ口を叩いている自分に焦れ悶えているのに――それが見てとれずにいるわけでもないのだろうに――公爵は瞬をからかい続けた。
「で、おまえは意地悪な男は嫌いなのか」
「僕は――」

本当に その言葉を言ってしまっていいのか――言うことが許されるのか。
別れという絶望を覚悟していた瞬には、今の この状況が信じられなくて、言葉の代わりに涙を零すことしかできなかった。
瞬の涙を見た公爵が 慌てた様子で――だが、花びらの散りやすい花に触れるように そっと、瞬をその胸の中に抱き寄せる。
「いじめるつもりはないんだ。おまえが俺以外の者に笑いかけているのを見てから、俺はずっと気が立っていて――。どうやら俺は かなり嫉妬深い男だったらしい。許してくれ」
「ま……まさか、公爵様が妬くなんて……」
「何が まさかなんだ。そもそも俺は、おまえに初めて会った時から――」

「氷河」
自分は 何か 途轍もなく嬉しい言葉――だが聞いてはいけない言葉――を聞くことになるのではないかという瞬の予感を、公爵の若い母君が遮ってくる。
とはいえ、彼女は決して息子の恋路を邪魔しようとしたわけではないようだった。
「もしかして、私は席を外した方がいいかしら」
「ああ、そうしてくれると助かる」
「公爵様、いくら何でも それは――」
10数年振りに再会 叶った母親に あっさり退場を要求する公爵に、瞬は慌てた。
公爵の母君が気を悪くするようなことがあってはならないと、公爵の腕から逃れようとする。
そんな瞬を押しとどめたのは、公爵ではなく、復活成った彼の母親だった。

「ああ、気を遣わなくていいのよ。その時々で いちばん大切なものは何なのか、最も優先させるべきことは何なのか、その判断を間違えないようにと、氷河に厳しく教え込んだのは私だから。氷河の判断は正しいと思うわ。あなたのおかげで、私はこれからはずっと氷河の側にいられるけれど、今 掴まえておかないと、氷河は あなたに逃げられてしまうかもしれないんですもの」
「え……」
「自分にとって いちばん大切なものは何なのか、的確に判断すること。それが幸福になるコツよ」
「自分にとって いちばん大切なものは何なのか、的確に判断すること……」

その判断に従って、彼女は息子の命を救うため 我が身に呪いを受け、公爵は 他のどんなことよりも 彼の美しい母を見守り続けることを選んだのだろうか。
ならば 自分も逃げずに選んでみようと、瞬は思ったのである。
たとえ その選択が、結果的に間違ったもの、不幸を招くものであっても、逃げずに自分で選んだ道なのであれば、その選択が悔いを生むことはないはずだから。


そうして 瞬は、氷の城に残ることを選び、その選択と決意を実行したのである。
もっとも、母君が生き返り、その上 恋を手にしたことで すっかり能天気になってしまった公爵の城は――もとい、母君が生き返り、その上 恋を手にしたことで すっかり活動的になってしまった公爵の城は――今では 氷の城と呼ばれることはなくなってしまったが。






Fin.






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