人は恋のみにて






うんざりするほど暑かった夏が終わり、やっと気候が秋めいてきたと思ったのは つい先日のこと。
ついに訪れた秋は、極めて静かに ひそやかに、だが 恐るべき したたかさと激しさで夏を駆逐し、世界を秋の色一色に塗り替えてしまった。
城戸邸の庭の落葉樹の中には既に その葉を赤や黄色に染め始めたものもある。
彼等は実に計画的に、かつ着実に、来たるべき冬を迎える準備に取りかかっていた。
そんな秋の ある日のこと。

氷河がラウンジに入っていくと、そこには星矢と瞬がいた。
それ自体は、特段 珍しいことでも奇妙なことでもない。
同い年ということもあって、いつも 一緒に子犬のように じゃれ合っている二人。
何事にも大雑把で積極的な星矢と、神経細やかで万事控えめな瞬は、互いの欠けている部分が きっちり噛み合うようにできているらしく、非常に仲のいい親友同士だったのだ。
しかし、そんな二人のいる場所が、今日は平生とは著しく異なっていたのである。

東西に約8メートル、南北に約8メートル、面積は およそ64平方メートル、畳に換算して約40枚分。
それなりの広さのあるラウンジの、瞬は 庭に面した窓側の右角、星矢は廊下側の壁際の左角――つまり部屋の対角線の端と端に、二人は それぞれ立っていた。
直線距離にして11メートル強。
普通に会話をする距離としても離れすぎている。
普段、パーソナルスペースなる概念など知らぬげに 気安く瞬と肩を組むこともある星矢と、それを特に不快に感じている気配も見せない瞬にしては、それは異常な距離だった。
もっとも、常日頃から 瞬に対する星矢の図々しい接近振りを快く思っていなかった氷河にしてみれば、二人が 互いの間に相当の距離を置いていること自体は、実に喜ばしいことではあったのだが。

瞬は部屋の隅で 困ったような顔をし、もじもじしている。
星矢は、口を への字に曲げて、瞬を睨んで(?)いる。
どれほど星矢が短気で喧嘩っ早くても、相手が瞬では、まず喧嘩は成り立たない。
何より、星矢は、本気になった時の瞬の強さを知っている。
二人の間に いったい何が起きたのかと、氷河が訝ったのは至極当然のことだった。
「どうしたんだ、おまえら。何かあったのか」
決して 星矢と瞬に くっついていてほしいわけではないのだが、あまりに平生と違う様子の二人には違和感を禁じ得ない。
氷河が尋ねると、星矢は への字に結んでいた唇をとがらせて、自分と瞬の間にある11メートル強の距離の理由を、苛立った声で答えてきた。

「よく わかんねーんだけど、瞬が俺の側にいると具合いが悪くなるって言うんだよ!」
「具合いが悪くなる?」
それはいったいどういうことなのか。
軽く眉をひそめてから、ひとりドアの前に突っ立っているのも きまりが悪いと考えて、とりあえず氷河はラウンジのほぼ中央に置かれている応接セットのソファに向かった。
――のだが。

「む……」
室内に足を踏み入れて2歩も進まないうちに、何か ひどく不快な気配を感じて、氷河は急遽 目的地の変更を余儀なくされたのである。
すなわち、センターテーブルの脇にある肘掛け椅子から、瞬のいる庭に面した窓側の右角へ――つまり、星矢との距離を最大に保てる場所に。
「な……なんだ、これは!」
自慢にはならないが、氷河は、感受性もしくは繊細さといった要素や特質を、瞬の100分の1も持ち合わせていないと自負していた。
とはいえ、それは 基本的に、氷河が自分の見たいもの、聞きたいもの、触れたいものにしか注意を払わない男であるせいで、彼の五感の力が 余人に劣るというわけではない。
だが、とにかく彼は自分が見たいものしか見ず、聞きたい音しか聞かない男。
自分の意識の外にあるものには極めて鈍感な男だった。
その氷河が、彼自身は意識を向けていない何か、知覚もしていない何かのために、吐きそうなほどの不快感に襲われてしまったのである。

聖闘士の生存能力は人一倍。
我が身を守るために、氷河は ほぼ音速のスピードで 瞬が非難している場所に移動した。
氷河が瞬のいるところに辿り着いた ちょうど その時、今度は紫龍がラウンジのドアを開ける。
「なんだ、おまえたち。なぜ そんな隅に――む……?」
瞬と氷河が部屋の隅にいるのを認めた彼は、数秒前の氷河が抱いたものと同じ疑念を抱いたのだろう。
そして、彼もまた、氷河と同じように 間髪を置かずに 瞬のいる場所に移動した。
「おまえらもかよ!」
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちの その反応には、大雑把・無神経が身上の星矢も さすがに心穏やかではいられなかったのだろう。
三人の仲間に向かって発せられた星矢の声は、彼らしくなく ひどく情けなく、悲鳴じみてさえいた。

「なんだ、これは。妙な気配……いや、変な匂いが――」
「……そうなの。星矢から変な匂いがするの。ほんの数秒 側にいるだけで、胸がむかむかして――」
紫龍の低い呻き声に、瞬が苦しげに頷く。
「星矢。おまえ、ちゃんと風呂に入っているのか」
星矢を なじるように氷河はそう言ったのだが、彼は これが そういう問題でないことはわかっていた。
彼が――おそらく瞬も紫龍も――星矢に感じている匂いは、決して悪臭に分類されるようなものではなかったのだ。

「でも、悪い匂いじゃないよ。いい匂いなのに近付けないの。これ、何かの花の匂いだよ」
いくら何でも そういう疑いをかけるのは気の毒と思ったのか、瞬が自分の具合いを悪くしている匂いを弁護し、
「花? 花って、まさか……」
瞬の弁護を聞いた星矢が、ぎょっとした顔になる。
それから星矢は、廊下側の壁際の左角から庭に面した窓側の右角に向かって――部屋の対角線の向こう側にいる瞬に向かって――声を張り上げた。
「それって、あれか。ここんちの庭の西の方にあって、オレンジ色の小さな花をいっぱいつける木の花」
「庭の西側にあるオレンジ色の花をつける木って――あ、そうだ。これ、金木犀の花の匂いだよ」
「やっぱり、そういうことか……」
星矢は その花の姿は知っていても、花の名は知らなかったらしい。
そして、こうなった原因に、星矢は心当たりがあるらしい。
希望の闘士にあるまじき絶望的な表情を浮かべ、星矢は がくりと両の肩を落とした。






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