1週間振りにラウンジのセンターテーブルを囲むソファに4人で座り、声を張り上げなくても会話が成立することの意義深さを 身をもって知った瞬が、翌日 ラウンジのドアを開けた時。
瞬は、再び そこで、 二度と見ずに済むと思っていた光景の目撃者になってしまったのである。
すなわち、瞬の仲間たちが二手に別れ、一方は 庭に面した窓側の右角、もう一方は 廊下側の壁際の左角――つまり部屋の対角線の端と端の壁に へばりつくように立っている光景の。
ただし、その組み合わせは、昨日までの『星矢と星矢以外』から『氷河と氷河以外』に変化していたが。

ラウンジの扉の前で、瞬は当惑した。
氷河と氷河以外に別れている仲間たち。
だが、瞬は、そのどちらの陣営にも、星矢の時のような不快感を覚えることがなかったのである。
「ど……どうしたの、みんな」
どちらの陣営に行くかを迷い――結局 瞬はドアの前から動かずに 仲間たちに尋ねた。
紫龍が呆れたような声で、
「氷河が星矢より馬鹿だったことが判明したんだ」
と答えてくる。

「氷河が?」
紫龍の訳のわからない説明を聞いた瞬が、庭に面した窓側の右角に立つ氷河の方に目を向ける。
その途端――氷河と視線が合った途端、瞬の足は 我知らず ふらふらと氷河のいる方に向かって移動を始めていた。
紫龍と星矢が、そんな瞬の後ろ姿を 気の毒そうに見詰める。
氷河が容易に瞬の身体に触れられる場所まで 瞬が移動し終えた時、紫龍は頭痛をこらえるように顔を歪め、廊下側の壁際の左角から瞬に向かって声を張り上げた。

「瞬。氷河は夕べ、例の金木犀の木を脅迫したんだ。氷漬けにされたくなかったら、地上で最も清らかな人間だけが氷河に近付き、それ以外の人間は氷河に近付けないようにしろと」
「え……」
「つまり、今 おまえ以外の人間は氷河の半径10メートル圏内に入れない――ということだ」
氷河に肩を抱かれた瞬が、紫龍のその言葉を聞いて ぽかんとする。
いったい氷河は なぜ、自らを苦境に追い込むような そんな願いを、金木犀の木の精に願ったのか。
瞬は、その訳を氷河に尋ねようとしたのである。
あいにく、瞬はそうすることはできなかったが。
瞬が口を開くより一瞬早く、星矢の怒声が流星拳のごとく 氷河への攻撃を始めてしまったせいで。

「氷河、おまえ、俺のドジで何も学習しなかったのかよ! バトルはどうするんだ。敵も味方も おまえに近付けない。おまえはアテナの聖闘士として やっていけなくなるんだぞ!」
敵に敵と認めてもらえない屈辱と空しさを 我が身・我が心で経験したばかりの星矢の言葉には 実感がこもっている。
しかし、氷河は、ずしりと重みのある星矢の その言葉を鼻で笑った。

「何の問題もない。俺が瞬に近付くことはできるんだからな。そして、俺が瞬の側に行けば、敵は俺を避ける。つまり、俺と一緒にいる瞬から遠ざかる。そこにいるだけで、俺は瞬を守ることができるんだ。かくして、俺は最強の瞬のボディガードになれるというわけだ」
「で……でも、それじゃ、敵と戦うのが俺と紫龍だけになっちまうじゃないか。瞬がピンチに陥らなきゃ、一輝の参戦は期待できねーし……」
「せいぜい頑張ってくれ。俺は、瞬を守ることさえできれば、それで満足だ」
「氷河……」
なぜ氷河は そこまでアンドロメダ座の聖闘士の身の安全にこだわるのか。
その理由を知らないのは、その場にいる者たちの中では瞬一人だけだった。
この人だけは傷付くことなくいてほしい、この人にだけは何があっても生き延びてほしい――。
瞬にとって、そういう思いは、アテナに向けられる場合にのみ理解得心できる望みだった。
わかっていない・・・・・・・瞬を、氷河が切なげに見おろし、見詰める。

「俺は これから、すべての人間に避けられることになる。俺には おまえしかいなくなる。瞬、まさか おまえ、俺を見捨てたりはしないな?」
「それはもちろん……氷河は僕の大切な仲間だもの。僕が氷河を見捨てたりするわけないでしょう。で……でも――」
「たとえば、毎日の食事も、俺は皆とは離れて別の部屋で とらなければならなくなる。おまえ、そんな時も俺を一人にしないな? 俺と一緒にいてくれるな?」
「も……もちろんだよ……!」
瞬は元々、この地上から不幸な子供たちをなくしたいの一心で、アテナの聖闘士としての戦いを続けている人間である。
氷河が“不幸な子供”に含まれるかどうかという問題はさておいて、自分にしか救えない人がいるとなったら、瞬は当然 命がけで その人を守ろうとする。
氷河の魂胆は見え透いていた。

「氷河の奴、せこい手、使いやがって……。そんなに瞬が好きなら、当たって砕ける覚悟で、堂々と真正面から 好きだって言えばいいだけのことなのに、何やってやがるんだよ、あの馬鹿は!」
「ある意味、これは背水の陣と言えるな。瞬を手に入れるか、すべてを失うか。奴に逃げ場はない。ここまで見事な背水の陣は、漢の大将軍韓信にも思いつかないだろう。まさに捨て身だ」
「感心してる場合かよ!」
「感心しているわけではない。氷河は、瞬しか見ていないせいで、完全に間違った方向に突き進んでいる」
そう言いながら ラウンジの廊下側の壁際の左角から、紫龍が 捨て身の戦法に出た氷河を、呆れたように見やる。
氷河は、『戦いより愛を選んで何が悪い』という気になっているのだろうが、それは大いに“悪いこと”なのだ。
氷河は、自分で自分の首を絞めている。
ここまで決死の覚悟を決めている氷河を追いつめるのは忍びなかったが、紫龍は心を鬼にして、ラウンジの庭に面した窓側の右角にいる氷河に向かい、再び声を張り上げた。

「氷河。おまえは本当に馬鹿だ。戦場で瞬の身を守るのは結構なことだが、そうやって自分が戦わずに済む状況に瞬が甘んじると思うのか? 瞬は、おまえを振り切って敵中に飛び込んでいくだろう」
「む……」
紫龍の的確な指摘に、氷河が ぎくりと顔を強張らせる。
恐る恐る瞬の瞳を覗き込むと、瞬の瞳は『紫龍の言う通りだ』と告げていた。
「しかも、瞬は戦場だけで生きているわけではない。瞬はケーキ屋巡りも好きだぞ。桜や紅葉を見にいくのも好きだ。今の季節なら、リンゴ狩りにブドウ狩り。去年は、おまえ、ほいほい喜んで瞬のお供をしていたが、今年はできそうにないな。人が大勢いる場所におまえが行くと、瞬以外の人間は皆 ばたばたと倒れて、とんでもないことになるだろうから」
「……」
紫龍に そこまで言われてやっと、氷河は自分が願った願いの無謀に気付いたらしい。
彼の顔は蒼白だった。

「俺は……」
紫龍の作戦に気付いた星矢が、氷河に向かって わざとらしいほど明るい声を投げかける。
「ああ、安心してていいぞ。瞬の お出掛けになら、俺が付き合ってやるから。今の俺は いくらでも瞬に近付けるし、それで他の奴等に迷惑かけることもねーし。これまでは、おまえの立場を考えて、大人しく ここで土産の到着を持ってたけど、瞬と一緒に出掛けてる方がずっと楽しいもんなー」
「氷河……今年は、僕と一緒にブドウ狩りに行ってくれないの……」
星矢の挑発より、瞬の しょんぼりした声と言葉が決定打だった。

自分の都合ばかりを考え、瞬ばかりを見、世界を見ていなかった自身の愚行を悟った氷河が、瞬をその場に残し、脱兎の勢いで庭に飛び出ていく。
その5秒後には、氷河は くだんの金木犀の木に向かって、怒声じみた声を張り上げていた。
「おい、じじい! 凍らされたくなかったら、出て来い! 夕べの要求を撤回する。今すぐ俺を元に戻せ!」

高く遠くなった秋の早朝の空と澄んだ空気。
氷河の脅しが聞こえていないはずはないのに、金木犀の木の精は姿を現わさなかった。
「おい、じじい! 殺されてもいいのか。出てこいと言っとるだろーが! 頼む、出てきてくれ!」
何度怒鳴りつけても出てこない金木犀の木の精。
氷河の声は、徐々に、凄みのある脅しの声から断末魔の人間のそれに変わっていた。
しかし、それでも老人は出てこない。

「花も葉もみんな落ちちまったみたいだし、じーちゃん、冬眠にでも突入したんじゃねーの?」
氷河に数分遅れて庭に出てきた星矢が、氷河との間に きっちり10メートルの距離をおいたところから、気の毒そうに声をかけてくる。
「なんだとぉーっ !? 」
「まあ、だとしても永遠に眠っているわけではない。春になれば目覚めるだろう。ブドウ狩りやスキーは無理でも、来年の花見は 瞬と一緒に行けるようになるさ。ほんのしばらくの辛抱だ」
紫龍が口にした それは、慰撫の言葉だったのか、それとも 仲間の浅慮を嘲る言葉だったのか。
いずれにしても、その発言は、今の氷河にとっては追い打ちの言葉でしかなかった。

「半年も待てるかーっ !! 」
すいすい のんきに飛んでいた赤トンボに緊急Uターンを余儀なくさせた氷河の絶叫。
それは、深まる秋の晴れ渡った水色の空の中に吸い込まれ、やがて消えていった。


人は 恋のみにて生くる者にあらず。
『あなたさえいればいい』と 人は恋人に言いますが、人は恋人と二人だけでは生きていけません。






Fin.






【menu】