「氷河への あの命令を撤回してください」
逃げ込むなら、星矢や紫龍の許に――仲間の許に逃げ込んでいただろう。
瞬がアテナの許に向かったのは、だから、進むも退くもならぬ この事態を解決するため――逃げずに解決するためだった。
少なくとも瞬自身は そのつもりだった。
アテナの前に立つアンドロメダ座の聖闘士の目が、絶望的な悪夢から かろうじて這い上がってきた者のそれに酷似していたとしても。
地上の平和と安寧を脅かしかねない恋のせいで、暗鬱としか言いようのない表情を浮かべている瞬に 命令の撤回を求められても、アテナは瞬の苦悩の深さに気付いた様子など、かけらほどにも見せてくれなかったが。

瞬の苦悩に気付くどころか。
「氷河以外に、殺されてもいいと思えるほど好きな人ができたの? あなたが そんな浮気性だったなんて意外だわ」
瞬の苦悩に気付くどころか、地上の平和を守護する女神は そんなことを言い、瞬の前で楽しそうな笑い声をあげてくれさえした。
そんなことがあるはずがないと反駁しかけ、そうするのをやめる。
知恵の女神は、無駄な前置きに時間を費やすことなく 速やかに本題に入るために あり得ない冗談を口にしたのだ。
瞬は そう思うことにしたのである。
実際、彼女の軽口のおかげで、瞬は、歯切れよく述べ立てにくいことを――仲間同士、聖闘士同士、同性同士であるアンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の間にあるものが何であるのかということを――彼の女神に説明せずに済んだ。
アテナは、それが恋という扱いの難しいものだということを知ってくれている。
瞬は、アテナの期待に応え(?)前置きなしで本題に入った。

「氷河と一緒にいると、僕は――いいえ、氷河の姿を見ているだけで、僕は 心が軽くなって、朦朧としてしまうんです。ふ……触れ合ったりしたら、朦朧とするどころか、自分の意思を保てなくなる――正気を保っていられなくなる。ハーデスを抑え込んでいなければならない僕の意思と心が氷河に吸い取られて消えていくみたいになって、僕は――」
「ハーデスを抑え込んでいられなくなる?」
「……はい」
おそらく そのせいでハーデスの声を聞いてしまった(ような気がする)とまでは、さすがに瞬は告白できなかった。
あれは恋への罪悪感が生んだ幻聴の類なのだと、まだ瞬は思っていたかったのだ。

頷き俯いた瞬を見やり、アテナが くすくすと笑う。
笑いごとではないのだと、瞬は彼の女神を諫言しようとさえ思ったのだが、アテナにとってはそれは笑いごと以外の何物でもなかったらしい。
「どうせ あなたのことだから、『触れ合ったりしたら』なんて意味ありげな言い回しをしても、せいぜいキス止まりなんでしょ」
「え……」
図星をさされて、我知らず たじろいでしまった瞬を見下ろし、アテナは更に笑いを重ねた。
「でも、確かにそれは困った事態だわね。キスでそれじゃ、その先が危なくて できないじゃないの」
「ぼ……僕、そんなことまでは――」
「多分、氷河は、そんなことまでしたいと思っているわよ」
「……」

ギリシャの神々――というより、一人の始祖が創り出した宗教ではない 自然発生的な宗教の神々は――世の東西を問わず、愛や性というものに対して大らかであることが多い。
しかし、アテナは そんなギリシャの神々の中では 比較的 規律や理性を重んじる神である――そのはずである。
戦いの女神といっても、殺戮より知略、実戦の勝利より 戦いの回避こそを より高次の勝利と考えるアテナのこと、何か考えがあっての その発言なのだろうと、平生の瞬なら考えていたかもしれなかった。
だが、今の瞬は、その可能性に考えを及ばせることもできなかったのである。
おそらく、アテナの言う通りなのだ。
「『触れるな』と言えば触れない」と、氷河は言っていた。
それは、とりもなおさず、「許されるなら触れたい」ということなのだ。

明るく笑いながら、アテナは 自分がどれほど残酷で厳しいことを言っているのか わかっているのだろうか――。
混乱した心で、瞬は そう疑った。
そして、アテナの軽快さのせいで 更に取り乱された心を抱えながら、瞬は彼女の前を辞したのだった。






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