そこは、何もないところだった。 本当に何もない、まさに虚無――陰鬱な虚無。 宇宙の果てでも、遠くに星は見えるだろうに、そこからは何も見えない。 物もなく、人影もなく、果てもなく、重力もないので 上下もない。 そこには、ただ俺だけがいる。 俺の身体は、宙に浮いているようだった。 あるいは、水中を漂っているようだった。 もちろん、上下がないので、自分が仰臥して浮いているのか、伏臥して漂っているのか、俺自身にもわからない。 自分が仰臥していることに 俺が気付いたのは、俺の視界の内に小さな光の点が見えたからだった。 光は天から――上から――降ってくるもの。 光が見えるのは、すなわち 俺が上を向いているから――ということになる。 小さな点だった その光は、少しずつ大きくなっていった――俺の方に近付いてきた。 一粒の砂のようだった それが、遠くに見える星のようになり、宝石になり、野に咲く花の大きさになり、飛翔する鳥になり――最後に それはヒトになった。 天から、虚無の空を舞う白い鳥のように、虚無の海を泳ぐ銀色の魚のように、瞬が近付いてくる。 互いの表情を確かめ合うことができるほどのところまでやってきた瞬は、そこから俺に向かって 手を差しのべてきた。 白く細い手と指。 瞬が その身にまとっているのは、ただ光だけだった。 「氷河、なぜ こんなところにいるの。氷河は こんなところにいちゃ駄目だよ」 それは優しい声だった。 母親の子守歌のように優しく温かい響き。 希望を捨て、戦うことをやめ、生きることを諦めて、従容として死を受け入れようとしていた俺を、優しく鼓舞する瞬の声。 俺は、瞬の声が聞こえなかった振りをして眠り続けていることもできた。 だが、俺はそうしなかった。 俺が そうすることができなかったのは、俺の中に まだ生への未練が残っていたからだったんだろうか。 「一緒に戻ろう。みんなのところに。氷河はまだ戦える。氷河、諦めないで」 瞬は、どこまでも優しい声で、言葉を紡ぎ続ける。 卑怯で弱い俺に、生きることを諦めるなと。 「瞬……だが、俺は――」 だが、俺は、何があっても最後まで戦い続けるという仲間たちとの約束を破り、一度は諦めたんだ。 俺は、何もない この虚無の中で 懐かしい仲間たちの姿をずっと見ていた。 だから、知っている。 巨蟹宮で、紫龍が卑劣な黄金聖闘士と死闘を繰り広げたこと。 獅子宮で、星矢が 一人の男の死に涙したこと。 瞬の兄が、処女宮を守る黄金聖闘士を道連れに次元の彼方に消えていったこと。 力の限りに戦って 敵に敗れたならまだしも、何事かを成し遂げようと力を尽くし 力尽きたのならまだしも、俺は何もしていないのに、何事かを為す前に、すべてを諦めた怯懦な卑怯者。 今更 どの面を下げて仲間たちの許に戻れるというのか。 瞬はなぜ、そんな無理を言うんだ。 俺にも恥を知る心はある。 あるのに――。 「誰だって、弱くなることはあるよ。負けることも、倒れることもある。でも、それは取り返しのつかないことじゃない。悪いことでもない。倒れたら立ち上がればいいだけ。本当に いけないのはね、立ち上がろうとしないことだよ」 「瞬……」 「氷河が一人では立ち上がれないというのなら、僕が手を貸してあげる。氷河がつらいのなら、僕が温めてあげる。だから――みんなのところに戻ろう。そして、一緒に生きていこう」 瞬は優しい。 そして、本当に綺麗だった。 陰鬱な虚無の中の清らかな光。 虚無が支配する この世界で温かく輝き続ける、ただ一つのもの。 俺に『死ねない』と思わせたのは、だが、瞬の優しさでも 清らかさでも 温かさでもなく――呆れたことに、こうして生きることを放棄する以前、俺が瞬を見るたびに覚えていた、あの浅ましい欲望だった。 これほど清らかな光を前にして、改悛の情も 魂の浄化もない。 だが案外――人間が生きるということは、魂を肉体の中に留まらせるということなんだから――人間の生への執着なんて、そんなことで生まれてくるものなのかもしれない。 多分、その時、俺の心は半ば以上 自分の肉体の中に戻りかけていた。 「おまえが、俺の側にいて、いつも俺を温めてくれるのなら」 救ってもらう側の人間だというのに、恥知らずにも、俺は自分が生き返ることに条件をつけた。 「もちろんだよ、氷河」 それでも瞬は、気を悪くした様子も見せず、俺に微笑を向けてくる。 俺に優しく手を差しのべてくる。 だから、俺は、瞬の優しさにすがろうとして、瞬の方に腕をのばした。 優しく微笑みながら、瞬が 卑劣な俺の手を取ろうとする。 際限がないように優しい瞬と、底がないように卑しい俺。 そんな二人の手が触れ合った瞬間――瞬の表情が 引きつるように歪んだ。 まるで、俺に触れたせいで、瞬の清らかさが汚染されてしまったように。 それまで ただただ優しく微笑んで 俺を見詰めていた瞬の喉の奥から、ふいに 間歇的な短い笑い声が漏れてくる。 「瞬?」 それは瞬らしくない笑い声で――まるで古いドイツのおとぎ話に出てくる魔女のそれのような笑い声で――俺は その音に途轍もない違和感を覚えた。 いったい瞬の身に何が起きたのか。 俺は、瞬らしくない瞬の身を案じ、その瞳の中を覗き込もうとした。 途端に、虚無の中から瞬のチェーンが ふいに現われ、俺の身体と喉に絡みつく。 チェーンは、そして、容赦なく俺を締め上げてきた。 そのチェーンの端を瞬が握っていることが――チェーンが瞬の小宇宙によって動いていることが――俺を愕然とさせる。 チェーンを操りながら、瞬は 苛立たしげな声で俺に問い質してきた。 「氷河。どうしてそんなに氷河は卑劣なの。どうすれば そんなに弱くなれるの」 それは、今の俺のありさまを見た者なら、誰もが抱く疑念だったろう。 瞬以外の者に そう問われたのであれば、俺は どんな衝撃も受けなかったに違いない。 だが、俺に そう尋ねてきたのが瞬だったから、俺は動揺し、そして打ちのめされた。 俺の知っている瞬は、人の卑劣や弱さを悲しむことはあっても、責めることはしない人間だった。 仲間が道を誤っても、それを責めず、正しい道に連れ戻すことだけを考えるのが、俺の知っている瞬だった。 その瞬に責められ、なじられたんだ。 俺が衝撃を受けずにいられるわけがない。 その時、俺の心身は尋常でなく弱くなっていて、誰かの温もりが必要だった。 瞬の攻撃を受けなくても、さほどの時を置かず、俺は俺の周囲にある虚無と同化してしまっていただろう。 瞬のチェーンの攻撃は、その時を少し早めようとしているだけ。 それだけのことだった。 瞬の小宇宙が、俺の周囲に空気の渦を作り始める。 「そんなに生きていることが つらいのなら、僕が氷河を殺してあげる。それを愛だと、それを優しさだと思うような人間は、生きていても仕方がないもの」 俺を取り巻いている気流が嵐に変わる。 瞬は本気で俺を殺そうとしていた。 「瞬、なぜだ」 既に声は出せない状態になっていたので、俺は多分 胸中で瞬に そう尋ねた。 改めて問うまでもなく、その答えは瞬が既に言っていたのに。 生きていても仕方がないほど俺が弱いからだと。 それでも仲間を見捨てないのが瞬だと俺は思い込んでいたから、瞬の決然とした、ある意味“諦めのよさ”が、俺には意外に思えたんだ。 誰もが俺を見捨てて当然、すべての人に見捨てられて当然のことを 俺はしたのに、俺は、俺を諦め見捨てる瞬が不思議だった――。 だが――否、だから? ――俺は再び生きることを諦めたんだ。 瞬にまで見捨てられたのでは、本当に俺には生きている価値がない。 素直に そう思えたから。 俺は 俺の中にある すべての未練を放棄して、覚悟を決め、目を閉じた。 「どうして そんなに簡単に諦めるの」 そんな俺を、瞬がまた 苛立った声で なじってくる。 『それは、俺を殺そうとしているのが、他の誰でもない おまえだからだ』 俺は、そう答えようとした。 おまえになら殺されてもいいと思うからだと。 その時には俺はもう何も答えられなくなっていたが。 そうして、俺は瞬に殺された。 |