そうして迎えた翌朝。城戸邸ラウンジ。 いつもは 紫龍とほぼ同じ時刻にラウンジにやってきて、仲間たちに『おはよう』の挨拶を済ませる瞬が、その日に限って なかなか仲間たちの前に姿を現わさない。 その日 瞬が星矢たちの前に姿を見せたのは、平生より2時間以上遅く、9時をまわってからだった。 それだけでも十分に異常なことだったのに。 「あ、やっと起きてきたか。瞬、おはよ。夕べはちゃんと寝れたか? 夕べ、あれから何かあったか?」 それを確かめるために、さりげなく(?)探りを入れた星矢の前で、瞬は実に見事に身体を硬直させた。 ペルセウス座の聖闘士の盾をもってしても、これほど人体を硬直させることはできないだろうと思えるほど見事に、瞬は その身体と表情を強張らせた。 「瞬? どうかしたのか? 夕べ、何かあったんだろ? 氷河と――」 その名を出された途端に、石になっていたはずの瞬の身体が、急に血の気を取り戻す。 幸か不幸か氷河はまだラウンジに下りてきていなかったのだが、ともかく氷河の名を聞いた途端に、瞬の顔は、熱湯の中にぶち込まれたタラバガニのように真っ赤になった。 そして、真っ赤になったカニは、天敵のタコに出会いでもしたかのように、あっというまに その場から姿を消してしまったのである。 名を呼ぶ隙もあらばこそ。 あとに残された星矢は、瞬の突然の逃亡劇のプロデュースをしたのが 知恵と戦いの女神であることを疑いもしなかった。 「沙織さん! あんた、今度は瞬に何をしたんだよ!」 知恵と戦いの女神に向かって、 星矢は ついに『あんた』呼ばわりである。 今の星矢には、ここで敬語を駆使して、『女神アテナにおかれましては、アンドロメダ座の聖闘士であるところの瞬に対して、いったい何をしでかしてくださりやがったのでございましょうか』などと、馬鹿丁寧に訊いている余裕はなかったのだ。 沙織にとっても、瞬の反応は予想外だったらしい。 彼女は首をかしげながら、星矢の質問に答えてきた。 「夢の神に頼んだのよ。氷河と瞬に、二人が仲良くしている夢を見せてやるようにって。それが運命でも願望でも予知夢でも、とにかく二人が仲良くするのが いいことで幸せなことだと感じるような夢を見せるようにと。モルペウス、あなた、いったい氷河と瞬に どんな夢を見せたの?」 沙織が、宙に向かって、どうやら夢の神のものであるらしい名を口にする。 次の瞬間 その場に、それこそ夢のようにぼんやりと現われたのは、某エリシオンの園で青銅聖闘士たちが出会った金銀の神にそっくりな姿をした、一人の若い男だった。 その男が、初対面の人間たちに『こんにちは』も『おはよう』も言わず、アテナの問いに答えを返してくる。 「俺のいちばん得意な夢を見せてやっただけだ。ありがちと言えば ありがち、ありふれた夢といえば ありふれた夢だが」 「ありがちで ありふれてる夢? 何だよ、それは」 「それを訊くとは野暮な人間だな。もちろん、キグナスには、奴がアンドロメダを犯しまくっている夢を見せ、アンドロメダには、キグナスに犯されまくっている夢を見せてやったんだ。特別 濃厚で激しいやつを見せてやったから、二人共満足したと思っていたんだが、俺は失敗したのか? それとも、まさか……」 突然、夢の神モルペウスが、タナトスとヒュプノスに似た顔をしかめる。 そして、彼は、タナトスとヒュプノスなら決して見せないだろう不安顔を、星矢たちに披露してくれた。 「まさか、俺は 受けと攻めを間違えたのか?」 「え? いや、それは間違ってないと思うけどさー……」 それは間違ってはいないだろう。 この場合の彼のミスは、特別 濃厚で激しい淫夢を見せた相手の一方が瞬だった――ということだった。 「氷河なら、いい夢見れて 得したと思ってるだろうし、そんな夢 見たこともないって顔もしてられるだろうけど、瞬はそうはいかないぞ」 「うむ。そんな夢を見せられたのでは、多分 瞬は、これから一ヶ月はまともに氷河の顔を見ることができなくなるだろう。なにしろ、自分の不平不満を夢に見ているのだと、知恵の女神に言われたばかりなんだ。その直後に そんな夢を見せられてしまったのでは――」 紫龍の口調は、当然のごとく、アテナを責めるものになっていた。 知恵の女神が、紫龍に異議を申し立ててくる。 「あら、私のせいにするつもり? それこそが自分の望んでいることなのだと素直に認めて、瞬が大胆かつ濃厚に氷河に迫ればいいだけのことじゃないの」 沙織は、そんなことは大した問題ではないという顔で さらりと言ってのけるが、それは どう考えても大した問題だった。 なにしろ相手は、他の誰でもない、冥府の王に その魂の器として選ばれたこともある、“地上で最も清らか”なアンドロメダ座の聖闘士なのだ。 「あのなー。瞬を誰だと思っているんだ。瞬は、地上で最も清らかな魂の持ち主様だぞ。無欲恬淡・清浄無垢。大胆かつ濃厚に氷河に迫るなんて、そんなこと 瞬にできるわけないだろ」 「できないの? 清らかって、不便ねえ」 「不便とか、不便じゃないとか、そういう問題じゃないんだよ!」 「じゃあ、勇気がないとか、度胸が足りないとか」 「だから、そういう問題じゃないってーの!」 今ここで 自分がしでかした大失策を自覚もせず のほほんとしている女性が 本当に知恵の女神なのかと、星矢は心の底から疑ってしまったのである。 彼女は、知恵の女神にしては、あまりにも知恵が足りなさすぎるのではないかと。 「侘び寂びの日本人には、日本人らしく奥ゆかしい好意の伝え方ってのがあるんだよ! こう、目や仕草で気持ちを伝えるとか、歌や ささやかな贈り物に思いを託すとか、あんまり あからさまでないやり方ってのが。少なくとも瞬は、やられまくった夢を見たからって発奮するタイプじゃねーっての」 「まあ、星矢。仮にも清廉潔白・清浄無垢な処女神の前なのだから、使う言葉を選んでちょうだい。やられまくるだの、やりまくるだの、少し下品に過ぎるのではなくて?」 「うむ。実に下品で露骨の極みだ。しかし、アテナ。これは あなたの躾がなっていないせいなのではないか」 「そうねえ。私は、私の聖闘士たちを少し甘やかしすぎていたのかもしれないわ」 夢の神と 知恵の女神が、自分たちの犯したミスを認めようともせず、好き勝手なことを言い合っている。 星矢は、二柱の神の罪悪感のなさに 思い切り むかついてしまったのである。 「どっちが下品で露骨で躾がなってないんだよ! ギリシャの神様って、こんなんばっかか!」 アテナに足りないのは、知恵ではなく、責任感と恥を知る心である。 おそらく彼女は、どうせ氷河と瞬はいつかはくっつくものと たかをくくり、二人の仲を無責任に引っ掻きまわして楽しんでいるだけなのだ。 人間の問題は人間の力で解決すべきだという、極めて高邁かつ いい加減な信念のもとに。 「神様なんかに期待した俺が馬鹿だったよ……!」 こうなっては、瞬が自分の力で羞恥を乗り越え、立ち直ってくれる日の訪れを ただ待つしか道はない。 俗諺に曰く、『苦しい時の神頼み』。 だが、どれほど 苦しい時にも、自分は決して神の力に頼ることはすまいと、その日、星矢は心に固く誓ったのだった。 Fin.
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