「最初はひと月前よ。氷河に、記憶を一部 消すようなことはできないかと相談されたの」 「記憶を一部消す? あ……じゃあ、やっぱり、氷河には何か忘れたいような つらいことがあったんですか?」 「氷河はつらかったようだけど……」 氷河に一瞥をくれ、そう呟く沙織の声には僅かに当てこすりの響きが含まれている。 肝心の氷河は、自分が なぜ女神に当てこすりを言われなければならないのか、全く わかっていないようだったが。 「瞬を好きで 抑えがきかない。瞬のために、瞬を好きだという気持ちを忘れる方法はないかと 相談されたの。以前と同じように瞬に接していられるよう、瞬を好きだという記憶だけをピンポイントで消してほしいと」 「え……」 「恋には人の死なぬものかは。このままでは 恋で死ぬこともできそうだと、どこかの菊摘みの老人のようなことを言ってね。自分を今のまま放っておくと 瞬に何をするかわからない、地上の平和のため、瞬のためと言われて、立場上、私も放っておけなくなったわけ。で、記憶の女神に頼んで、彼女に 氷河の中にあった 瞬を好きだという記憶を消してもらったのよ」 「そんなことが……」 氷河からは、瞬を好きだという気持ちと共に、記憶の消去を頼んだ記憶も消されているらしい。 彼はアテナの言葉にぽかんとしていた。 もしかしたら、その場でアテナの言葉に最も得心していたのは、彼女に記憶の消去を頼んだ当の氷河ではなく瞬だったのかもしれない。 アンドロメダの聖闘士を好きだという気持ちが氷河の中から消えたから――だから、自分は氷河と目が合うことがなくなっていたのだ――と。 「なのに、なに !? それから一ヶ月も経たないうちに、また瞬を好きになってしまって、自分は瞬に何をするか わからないから記憶を消してくれと言ってきたのよ、氷河は! いくら記憶を消しても、忘れる側から氷河は瞬を好きになる。同じことを言ってくる。この分じゃ、私は 月に1回は氷河の記憶の消去作業をしなければならなくなるじゃないの。知恵の女神に発展性のないルーチン業務を強いるなんて、いったい氷河は何様のつもりなの。私は、そんな馬鹿げた仕事をするために アテナなんて面倒な商売をしているわけではないの。瞬、あなたが 氷河をどうにかしなさい。私はもう知りません!」 「どうにかって……」 『どうにか』とは、つまり どうすることなのか。 アテナの命令には 命を投げ捨てでも従いたかったが、どうすれば“どうにか”できるのかが わからない。 瞬は戸惑い、困惑し、救いを求めるように氷河の瞳を見詰めることになった。 「氷河……あの……」 瞬の視線の先で、氷河が唇を噛みしめ、低く呻くような声を洩らす。 「すまん。俺は あんなことをするつもりはなかったんだ。だが、自分で自分を抑えられなくなって――」 「あら、もう何かしちゃったあとなの」 『私はもう知らない』と言った側から、アテナが口を挟んでくる。 「未遂だ!」 氷河は慌てて、アテナの誤解(?)を否定した。 「自慢にならないわね」 氷河の弁解を、アテナがあっさり切って捨てる。 全く その通りだったので、氷河は沈黙を余儀なくされた。 立つ瀬を失い 進むも退くもならずにいる氷河と、白鳥座の聖闘士に呆れて 彼を叱りつける意欲も失せてしまったらしいアテナ、そして、その二人の間で途方に暮れている瞬を見兼ねて(?)、その場を取り繕うように口を開いたのは、某龍座の聖闘士だった。 「では、氷河の無気力は、瞬を好きだったことを忘れて、生への執着がなくなったせいだったのか」 「たった一つの目標に向かって 脇目もふらず突き進むのが身上の男が、その目標を見失ったら、そりゃ、何のために生きればいいのか わからなくなるよなー」 「ぼ……僕のせい? 僕のせいで、氷河は あんなふうになってたの……?」 仲間たちの指摘を受けて、いたたまれない気持ちになり、瞬が泣きそうな顔になる。 そんな瞬の前で、星矢は ひらひらと右の手を振った。 「おまえのせいじゃないだろ。氷河が馬鹿なだけだ」 星矢のその意見には、アテナも全く同感らしい。 彼女は そういう顔をして、重々しく首肯した。 「記憶を消すなんて、そんなことは逃避以外の何ものでもないと思いはしたけど、氷河が 瞬のためだと真剣な顔で訴えるから、私は氷河の願いを叶えてあげたの。でも この分じゃ、たとえ私が100回 記憶を消してやっても、氷河は101回 瞬を好きになるだけだわ。進歩も発展も成長性もない、同じことの繰り返し。口をきけない犬猫だって――いいえ、庭の木だって 日々成長しているっていうのに、氷河は植物以下。人間失格、哺乳類失格、樹木未満。草花だって、着実に進化を遂げながら その命を繋いでいるのだから、氷河は 道端のペンペン草にも劣る存在だということになるわね」 女神の叱責は、実に仮借なく苛烈。 氷河を道の端のペンペン草にも劣る存在にしてしまった沙織は、最後には、 「いっそ氷河を土に還してやるのも一つの手かもしれないわね。そうすれば、変化成長する草木の一部として、氷河も 少しは発展性を有するものに生まれ変わることができるかもしれないもの」 とまで言い出した。 「確かに、それなら、氷河は 瞬に何をしてしまうかわからない危険物ではなくなりますね。それが、氷河にとっても瞬にとっても最善の策なのかもしれない」 「変化成長が望めないなら、いっそ生まれ変わっちまえばいいってことか。沙織さん、冴えてるじゃん」 アテナのみならず、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちに言いたい放題をされても、氷河は沈黙したまま、彼等に一言も言い返さない。 自分には反駁する権利がないと思っているのか、氷河は 唇を引き結んで宙を見据えてているばかりだった。 瞬は、そんな氷河の姿を それ以上見ていられなかったのである。 氷河がいったい何をしたというのだろう。 彼はただ 仲間のために、自分の心を殺そうとしただけ。 誰に迷惑をかけたわけでもない、ただ それだけのことなのだ。 「沙織さんも星矢も紫龍も ひどい! 氷河が何をしたっていうの! 氷河はただ僕のために――」 「氷河は確かに、おまえのために馬鹿をやらかしただけだけどさあ。いくら何でも馬鹿すぎねーか?」 「うむ。忘れなければ恋で死ぬ。忘れてしまえば、自分に生きる価値を見い出せない。となれば、いずれにしても氷河は死ぬしかないではないか」 「そ……そんなことないよっ! 氷河は生きるための力を持ってるし、生きる価値だってある!」 そんなことは考えるまでもない、当たり前のことである。 そう信じて――疑いもせずに そう信じて、瞬はきっぱりと言い切った。 だというのに――他の誰でもない氷河が、瞬に尋ねてくるのである。 「俺が生きていることには価値があるのか? 本当に?」 と。 瞬は、本気で泣きたくなった。 「氷河……氷河、氷河、氷河、なに言ってるの。どうして そんなこと言うの。言ったでしょう。氷河が生きていてくれないと、氷河が生きようとしてくれてないと、僕は悲しいって」 「だが、それは――その気持ちは恋ではないんだろう」 「氷河……」 だから忘れるしかないと、『おまえのために忘れるしかない』と、氷河は言うのだろうか。 瞬には それは合点のいかないことだった。 瞬は 忘れてほしくなかったのだ。 氷河と視線が合うたび、氷河の視線を感じるたび、こそばゆいほど 嬉しかった、あの気持ち、あの時間。 瞬自身は忘れたくなかったし、瞬は 氷河にも忘れてほしくなかった。 「忘れれば、氷河は楽になれるの。幸せになれるの。死ねば 氷河は幸せに――」 逃げて、幸せになど なれるはずがない。 なれないことを、氷河は十二宮での戦いで知ったはずだった。 『もう一度 生きる。もう一度 戦う』と、あの時 氷河は言ってくれたはずだった。 瞬が何を訴えようとしているのか、氷河はすぐにわかったらしい。 彼は、その顔に自嘲するような笑みを浮かべた。 「忘れても 死んでも幸せになれないことは わかっている。だが、人間が生きようと思うには、そのための力が必要なんだ。そして、俺にその力を与えてくれるのは、おまえしかいない」 「なら、その力を僕があげるよ!」 きっぱりと瞬が告げた言葉の意味を、氷河はすぐにはわからなかった――わかってくれなかったようだった。 もどかしくて――そんな氷河が もどかしすぎて、瞬は我知らず肩を怒らせてしまったのである。 「氷河、身勝手すぎるよ! 僕が氷河を好きじゃないって、どうして氷河は 一人で勝手に決めつけてるの!」 「なに……?」 瞬の訴えを聞いた氷河が、言葉の意味ではなく日本語自体が理解できなくなったような顔になる。 実際、独りよがりな仲間を 瞳に涙をにじませて睨みつけている瞬を見下ろしながら、その時 氷河が懸命に考えていたのは、瞬の発言の意図ではなく、瞬が口にした日本語の意味だったろう。 「しかし、おまえは昨日 俺から逃げたじゃないか」 「あ……当たりまえだよ! ぼ……僕は、氷河が、もっと深刻で重大な 形而上学的な問題や 命の深淵に関わるようなことで悩んでいるんだと思って心配してたんだから! なのに、急にあんなことされたら びっくりするに決まってるでしょう!」 「い……命の深淵……?」 瞬の口から飛び出てきた思いもよらない言葉に驚いて、氷河が2度3度と大きく瞬きをする。 あっけにとられて声を失った氷河の前で、瞬が 突然 自分の大声と大胆さに恥じ入ったように もじもじし始め、おかげで 氷河の混乱は ますます深遠なものになった。 「なあ、それって、瞬も最初っから氷河が好きだったってことか?」 「まあ、恋も 命の深淵に関わる重大な問題といえるかもしれないが……」 瞬を氷河の味方にするために わざと氷河を こき下ろしているつもりでいた星矢と紫龍は、今度こそ本当に 心底から呆れ返ることになったのである。 これはどう考えても、最初に 氷河が瞬に好きだと告げていれば、こんな騒ぎは起こらなかったということ。 だとしたら、氷河は、空前絶後にして未曾有、稀代にして不世出の 正真正銘の馬鹿である。 「僕を好きでいてくれること、忘れるなんて言わないで」 瞬が頬だけでなく目許まで朱の色に染め、蚊の鳴くような声で氷河に告げる。 空前絶後にして未曾有、稀代にして不世出の 正真正銘の馬鹿は、そんなことはあり得ないと、決して手に入れられないと、勝手に信じていたものを、突然 その手に渡されて、その場に棒立ちになっていた。 氷河が正気に戻るのを待っていたら日が暮れると考えたらしいアテナが、さくさくと彼女の仕事を片付け始める。 「あー、本当に馬鹿馬鹿しい落ちだわ。でも、これで めでたし めでたし。ムネモシュネー、氷河の記憶を戻してやって」 「アテナ。あなた、少々 人使いが荒すぎるわよ。これも人間の悪影響なの? なかなか綺麗でドラマチックな記憶を手に入れて、いいコレクションが増えたと喜んでいたところだったのに」 どこからか若い女性の声が響いてくる。 どうやら それは記憶の女神の声だったらしいのだが、星矢たちは 本当にそうなのかをアテナに確かめることはできなかったのである。 「うわあっ」 記憶の女神の声が響き 消えた途端、氷河が悲鳴に似た声をあげ、目を白黒させ、頬を上気させ、あげく、あたふたと両手を無意味に泳がせて、挙動不審な振舞いを始めたせいで。 それは例のダンスに勝るとも劣らないほど奇妙な踊りで、星矢は、氷河が記憶の女神に何か物理的な攻撃を加えられ もがいているのではないかと慌てることになったのである。 「おい、氷河、どうしたんだっ! 沙織さん、記憶の女神って、俺たちの敵なんじゃねーのかっ」 慌てて後ろを振り返った星矢に、沙織が落ち着き払った声で答える。 「ああ、平気よ。心配無用。氷河は 瞬を好きだった以前の記憶が戻って、“瞬を好き”が2倍になったせいで取り乱してるだけだから」 「は……」 沙織に 氷河の挙動不審の訳を知らされた星矢と紫龍が、盛大に顔をしかめる。 これが 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間なのだと思うと、彼等は世を儚みたい気分になった。 「所詮クールにはなれない男だな、氷河は」 「つーか、根っからの馬鹿。瞬、おまえ、ほんとにこんなんでいいのかよ」 根っからの馬鹿でも、仲間は仲間である。 星矢とて、氷河を見捨てる気はなかった。 しかし、それは あくまでも仲間としてのこと。 それが恋人となったら、話はまた違ってくるだろう。 星矢の懸念通り、もちろん話は違っていた。 氷河を思う瞬の心は、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士の友情など足元にも及ばないほど、氷河の踊りも裸足で逃げ出すほど、奇妙奇天烈なものだったのだ。 「僕は、クールじゃなくても、少しくらい おっちょこちょいでも、氷河がいつも一生懸命 生きようとしてくれてたら、それだけですごく嬉しいの」 「少しくらい? これが?」 氷河を好きになるだけあって、瞬の度量の広さ深さはブラックホール並み。 氷河が瞬を好きになるのは当然だと、星矢と紫龍は思ったのである。 氷河のホワイトホール並みの大馬鹿振りを受け入れられる度量を持つ人間は、この地上世界に瞬ただ一人しかいないに決まっていた。 何はともあれ、そんなふうに。 恋も人生も 忘れることでは何も解決しない。 人も植物も 記憶を積み重ねて変化成長し、自らの命の証を刻むのである。 Fin.
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