ほんとうのさいわい






彼女だ……!
その人の姿を通りの向こうに見付けた途端、俺の心臓は強く大きく波打ち始めた。
心臓の音が、窓ガラスと10メートルほどの距離を難無く飛び越えて、通り一つを隔てた場所にいる彼女に聞こえるのではないかと思うくらい。
生まれて初めて好きになった女の子の前で 何を言えばいいのかわからずに ぷいと横を向いてしまった5、6歳のガキみたいに。

俺の部屋の窓の下、通りの向こうの街路樹の横に立ち、彼女は俺のいる部屋の窓を見上げている。
俺は窓を開けて、『そこから動かないでくれ』と彼女に向かって叫びたい衝動にかられた。
そんなことをして彼女を驚かせ、逆に逃げられてしまっては元も子もないから、俺は懸命に その衝動を抑えたが。

この時を何年待っただろう。
最後に会ったのはシュコーラの7年生の秋だったから、俺が13の時。
確か 学校帰り、校門を出てすぐのところだった。
今 俺は18だから、あれから5年待ったことになる。
いつ会えるのか――俺は あの人にまた会えるのか、それとも俺はもう二度とあの人に会うことはできないのかと自問自答しながら過ごした この5年間。
会えるはずだ、会えるはずだと、ともすれば絶望に囚われそうになる自分を必死に励ましながら待ち続けた 5年の日々。
その長かった待ち時間が、俺を慎重にさせ、同時に俺の心を急かす。
東シベリアの小さな町の大通りの端にある小さな一軒家の2階の部屋で、彼女から視線を逸らすことができないまま、俺は迷った。
今すぐ通りに飛び出ていって 彼女を掴まえるべきか、それともここで彼女を待つべきなのかを。

『焦らず静かに待つべきだ』と、俺の理性は俺に言う。
彼女がここに現れた目的は、多分俺だ。
俺に、あの質問を投げかけるため。
だとすれば、俺がここで待っていれば、彼女は俺を求めて この家のチャイムを鳴らしてくれるはず。
俺が通りに走り出ていけば、彼女は逃げていってしまうかもしれない。
そして、俺は彼女を掴まえ損ねるかもしれない。
だが、彼女がこの家の玄関に入ってきてくれれば、十中八九 俺は彼女を逃がさずに済むだろう。
とはいえ、それは、彼女が この家の玄関までやってきてくれた時の話。
彼女が 俺を求めて この家にやってきてくれるのを 手をこまねいて待っていて、もし このまま彼女に立ち去られてしまったら、俺は ただの間抜けだ――いや、空前絶後の大馬鹿者だ。

マーマは、ノヴォシビルスクの知り合いの家で不幸があって、その手伝いで昨日から不在。
帰ってくるのは明後日の予定。
家の中にマーマがいれば、安全だと思って、彼女も あまり怖がらずに この家に入ってきてくれるかもしれないのに、なぜ こんな時に限ってマーマが留守なんだ。
腰を低くして丁重に招いたって、あんな綺麗な女の子が 男一人しかいない家に無防備に入る気になってくれるはずがない。
とすれば、俺はやはり この家を出て彼女の許に行き、カフェなりレストランなり、二人きりにならない開放的で安全な場所に 彼女を誘うべきなんだろうか。
獲物に飛びかかる肉食獣みたいな勢いで突進して行きさえしなければ、彼女は逃げずにいてくれるだろうか。

急く心に鞭打たれながら、それでも俺は彼女の姿を見ていられる窓際から離れることができずにいた。
彼女の目的は俺だ。
俺に会うために、彼女はあそこにいる。
その9割が希望的観測から成る推察が正鵠を射たものかどうか、俺は確かめたかったんだ。
彼女が自分から俺に近付いてきてくれれば、俺は 俺の推測が正しかったことを確かめることができる。

逆に、俺の方が動いて彼女を掴まえるためには、俺は自分の部屋を出て玄関まで下りていかなければならない。
その間――ごく短い時間とはいえ、俺は彼女から目を離すことになる。
その間に、もし彼女の姿が 今いる場所から消えてしまっていたら、俺はどうすればいいのか。
また5年 待たなければならないのか?
それは絶対に嫌だ。
やはり俺は、彼女が消えてしまわないよう、ここで彼女を見詰め続けているべきなんだろうか。

だが――ああ、もっと近くで彼女を見たい。
最後に彼女を見た時から既に5年。
その5年の間に、彼女は どう変わったのか――あるいは何も変わっていないのか。
5年も前に、ほんの二言三言 言葉を交わしただけのガキの記憶が どれほど確かなものなのか、俺はそれを確かめたい。

彼女はロシア人じゃないだろう、多分。
西洋人でもなく――小柄だからアジア系なのかもしれない。
俺自身がロシアと日本のハーフだから人種的偏見はないが、相手が国籍はおろか人種すら判別できない容姿の持ち主となれば、それは気にせずにいられることじゃない。

彼女は――少なくとも、5年前 俺が会った彼女は――すべての人種の――いや、すべての人間の いいとこ取りをしたような 国籍不明の不思議な姿をしていた。
だが、彼女の肌が 素晴らしく肌理きめ細やかで、『触ってみたい』と思ったことは憶えているから、彼女は やはりアジア系なんだろうな
俺を、日本の名で呼ぶし。
そう。彼女は俺の名を知っているのに、俺は彼女の名前すら知らない。
おかげで、この5年間、俺がどれだけ不便を感じていたか。
夢の中で彼女に会えても、俺は彼女の名を知らないから、彼女を呼びとめることすらできなかった。

――彼女が動く。
よかった、通りを渡って、こっちに来る。
彼女は きっと、俺に会わずに帰るわけにはいかないと思ってくれたんだ。
今度こそ逃がさないと心に決め、俺は部屋を飛び出た。
そして、階下に続く階段を三段跳びで駆け下りる。
部屋を出て階段を駆け下り、あってないような数メートルの廊下を駆け抜け、玄関の扉の前に立つまで、俺は10秒以上の時間をかけなかった。
その芸当は、小さな家だからできたこと。
この家は、俺自身は顔も憶えていない祖父が若い頃に建てたものらしい。
古い家だし、この家を出て もう少し町の中心に近い新しいアパートメントにでも引っ越した方がいいんじゃないかと俺は考えていたんだが、こういう時は小さな建物の方がいいな。

最低でも半世紀の歴史を有する古い家の玄関の扉には、縦に長く磨りガラスがはまっていて、扉を開けることなく訪問客の体格くらいは確認できる造りになっている。
扉一枚 隔てた場所に彼女がいる。
その扉の前で、俺は彼女がチャイムを鳴らしてくれるのを待っていたんだが――俺の心臓の音のせいで聞き逃すことがないように息を殺して待っていたんだが、俺の求める音はなかなか俺の許にやってきてくれなかった。
ドアの前には人影が確かにあって――彼女は確かに そこにいる。
俺に会わずに帰ったわけじゃない。

この期に及んで、彼女は迷ってるんだろうか。
招かれたわけでもない家を訪問することを?
俺が 心の中で彼女に出した何十通もの招待状のことも知らずに?
彼女はすぐそこにいる。
この距離なら、まず逃がすことはない。
結局、俺は彼女の決意を待ちきれなかった。
ドアのノブを掴み、深呼吸を一つ。
彼女の代わりに意を決して、俺はそのドアを開けた。
通りに面した古い造りの家。
ドアの前には、通りまで3段の石段がある。
その3段を登り切ったところで、案の定、彼女はチャイムを鳴らすのをためらっていたらしい。
チャイムを鳴らしてもいないのに開いてしまったドアに驚いたように、俺の前で 彼女は大きく目をみはった。



■ シュコーラ(=スクール): ロシアの初等・基本・中等教育機関



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