「よりにもよって、この俺が二股だと! 相手を見て ものを言え、相手を見て!」 『個人の幸福の計が、その社会全体の幸福である』というベンサムの『最大多数の最大幸福』理論が正しいのであれば、氷河以外の関係者全員が幸福になって終わった謎の写真事件は、確かに大団円を迎えたと言っていいだろう。 だが、それで収まりがつかないのは、ただひとり 幸福になり損ねた氷河である。 その日、夜になってもまだ、氷河の立腹は続いていた。 「おまけに何だ、あの宅配便野郎! 俺たちをダシにして、ちゃっかり自分だけ めでたしめでたしで〆やがって!」 大山鳴動して鼠一匹。 その上、この騒ぎの唯一の収穫物といっていい一匹の鼠は、勘違いストーカー一人だけが享受できるものだったのだから、氷河の怒りはわからないでもない。 しかし、瞬は、この結末が嬉しかったのである。 自分の大切な人の幸福だけを重点的かつ情熱的に望み願う氷河と違って、瞬は、それが誰であれ、自分以外の人間の幸福を我が事のように喜べる人間だったので。 「誤解だってわかってもらえたんだし、もう怒るのはやめて。佐川さんは絵梨衣さんのために一生懸命だったんだよ。微笑ましいじゃない」 「どこがだ! 傍迷惑なだけだ!」 「それは否定しないけど……」 氷河の怒りを煽らないよう、瞬は くすくすと笑いながら、やんわりと氷河の意見に賛同した。 それから、氷河のベッドに腰をおろし、少し真顔になる。 「でも……僕、氷河が僕の側にいることを当たりまえのことだと思ってて、あんなふうに悩んだり、馬鹿な勘違いして焼きもち焼いたりしたことなかったな。……ちょっと羨ましい」 氷河に『好きだ』と告白されたのは、どの戦いと どの戦いの狭間だったか。 瞬は、その1分後には、『僕も』と氷河に答えていた。 瞬は、迷い悩んでいる時間が惜しかったのだ。 死が あまりにも自分の身近に感じられるものだったから、瞬は、生きているうちに 少しでも多く、少しでも深く、愛を経験しておきたかった。 「瞬……」 瞬が、冗談ではなく本気で ストーカー配達員のどたばた劇を羨ましく思っていることに気付いたらしい氷河が、速やかに怒りの炎を消し去って、瞬の頬に その手で触れてくる。 そして、気遣わしげな声で、氷河は瞬に提案してきた。 「遠距離恋愛をしてみたいのなら、俺がシベリアに引きこもってやってもいいが」 「それは夏場になってからの方がよくない?」 「……そうだな」 沙織が彼女の聖闘士たちに あれこれと忙しく用事を言いつけてくるのは、戦い以外の様々なことを 今のうちに――青銅聖闘士たちが生きているうちに――少しでも多く経験させてやりたいという考えがあってのことである。 そのたびに文句を言いつつ、結局 その言いつけに従うのは、そんな彼女の気持ちが 氷河にもわかっているからだった。 それほどまでに、“死”はアテナの聖闘士たちの身近にあった――今もある。 「おまえは 当たりまえのことのように言うが――俺は、毎晩 寝る時に おまえの顔を見て、今日も死なずに一緒にいられたと 神に感謝しているぞ」 「ん……。ほんとは僕も――僕は、朝 目覚めて、氷河の顔を見るたび、今日も生きて氷河と一緒にいられるんだって、そのことに感謝するの……」 そして、もう二度とアテナの聖闘士が命をかけなければならないような戦いが起こらなければいいと願うのだ。 これまで 幾度も裏切られ、叶えられることなく消えていった同じ願いを、毎朝毎晩 繰り返し。 「時々、眠るのが恐くなるんだ。もし、明日の朝、僕の隣りに氷河がいなかったらどうしようって」 その時、氷河が、あるいは瞬が いる場所は“隣りのK区”では済まない。 その場所は、本当に、二人が二度と出会うことのできない場所かもしれないのだ。 瞬は、いつも不安でたまらなかった。 その覚悟はできているのに――実際に戦場に立った時には 死など恐れないだろう自分を知っているのに――平和で穏やかな日々の中にいる時には 死が恐い。 そして、だからこそ、せめて自分以外の人たちには 少しでも幸福でいてほしいと願わずにはいられないのだ。 勘違いストーカー氏にも 絵梨衣にも、瞬はできるだけ幸福でいてほしかった。――自分の代わりに。 瞬の頬に押し当てていた手を、氷河が ゆっくりと うなじの方に移動させる。 ベッドに腰掛けている瞬の上に腰を屈め、氷河は瞬の髪に唇で触れてきた。 「それは聖闘士に限ったことではないし、恋する者に限ったことでもない。今は一緒にいられても、人は誰でも――家族でも仲間でも、いつまでも一緒にいられるとは限らないし、いつ死ぬかもわからない。だから――」 家族を、仲間を、師を失ってきた氷河の声と言葉が、ひどく切ない。 自分の不安が氷河を つらい気持ちにさせていることに気付いて、瞬は微かに首を横に振った。 そして、氷河のために、わざと少し拗ねたような微笑を作る。 「だから、二人が生きて一緒にいることを毎日 確かめ合おうっていうんでしょう?」 「よくわかったな」 「わかります」 もちろん、わかる。 氷河は――氷河も、瞬と同じアテナの聖闘士なのだ。 わかることが、瞬は悲しく、同時に嬉しかった。 「うん……でも、そうだね。確かめ合おうか」 そう言って、瞬は両腕を氷河の首に絡めていった。 氷河が嬉しそうに笑い、さほどの時を置かずに、氷河の鼓動が瞬の胸に直接 響いてくる。 氷河の鼓動を確かめていられる今が、瞬は嬉しかった。 「絵梨衣さんも佐川さんも、僕たちも――人と人が出会うのって素敵だよね。何かがちょっと違っていたら、僕たちはこうして 二人が生きていることを氷河と確かめ合うこともできなかったんだ」 そう思うと、これまでに経験してきた すべての試練が――つらかったことも、悲しかったことも――この幸せに辿り着くための かけがえのない経験だったのだと思うことができる。 そして、これから二人が出会うだろう すべての試練が、この幸福を守るための試練なのだと思うこともできる。 「明日も一緒にいられたらいいね」 そう願うことのできる今夜と、 「明日も絶対に一緒にいるぞ」 そう答えてくれる氷河に 感謝して、瞬は氷河の鼓動の中で ゆっくりと目を閉じた。 Fin.
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