「そ……そんな……誤解だよ! 僕は氷河がナルシストだなんて思ったことは一度もない! むしろ、その逆で、あんなに綺麗な顔をしてるのに、どうして氷河は いつもあんなに自分のことに無頓着で無自覚なんだろうって思ってたくらいで――誤解だよ……!」
星矢にとっては幸いなことに、瞬は 極めて内罰的傾向の強い人間で、トラブルの原因や責めを他人に押しつけるタイプの人間ではなかった。
ゆえに瞬は、氷河をナルシストに仕立て上げた星矢を咎めることなく、まず自分の過ちの弁明を始めた。
氷河にとっても、星矢の悪乗りの糾弾に比べれば、瞬の真意を確かめることの方が はるかに重要かつ意義のあることだったのだろう。
彼は、星矢の悪事の仕置きは後回しにすることにしたらしい。
氷河は、他の何よりも スイセンの謎の解明を優先させた。

「なら、なぜスイセンなんだ」
それこそが、すべての発端である。
白鳥座の聖闘士に、瞬はなぜスイセンの花のカードを贈ったのか。
瞬の答えは明快だった。
「スイセンは、別名を雪中花っていうの。雪の中でも花を咲かせて、春の訪れを告げる花だから、希望の象徴とされてるんだよ。ガン患者の支援団体なんかで、キャンペーンに使われてるくらいで――だから、ずっと 僕、氷河に ぴったりの花だなあって思ってたの。カード屋さんに行ったら、ちょうど 雪みたいに真っ白なスイセンのカードがあって、僕、もうこれしかないって思ったんだ」
「雪中花?」

全く自慢になることではないが、氷河は薔薇以外の花の知識皆無の男だった。
薔薇の品種名なら50でも100でも並べ立てられるが、それ以外の花のこととなると、八重桜と染井吉野の区別もつかず、パンジーとスイートピーの違いも わからない。
氷河には、スイセンの別名など知るよしもなかった。
だが、今、彼は その知識を手に入れた。
瞬の真意を知ることができた。
つい数分前までナルシストだった男は、今は希望の象徴となり、そして、彼自身が幸福を極めた男になることができたのである。

「そ……そうだったのか……!」
それまで失意のどん底にいた男の上に 突然 降ってきた大いなる僥倖。
氷河は自分の喜びを隠そうとはしなかった。
喜色満面、欣喜雀躍、それこそ その場で踊り出さないのが不思議に思えるほど、氷河は仲間の前で露骨に歓喜してみせたのである。
氷河の手放しの喜びようは、だが、彼より数段劣る顔の持ち主の癇に障った。
どうやら白鳥座の聖闘士をナルシストに仕立て上げた男が 白鳥座の聖闘士に責め殺されることはなさそうだと安堵したところでもあったので、星矢は、氷河の喜びに水を差すべく、注意喚起のための忠告を一つ、仲間に垂れてやったのである。

「おい、氷河。おまえ、えらく喜んでるけどさ。それって、瞬がおまえをナルシストだと思ってなかったってことが判明しただけで、別に瞬は、おまえのこと特別に好きだとも何とも言ってないんだぜ?」
「何を言う。瞬のあの涙は――」
瞬の涙は既に止まっていたが、それが なぜ瞬の瞳からあふれることになったのかは、(氷河にとっては)改めて考えるまでもないことだった。
白鳥座の聖闘士に好きな人がいると知らされた途端に、瞬の瞳には涙が盛り上がってきたのである。
瞬の涙の訳は、(氷河にとっては)火を見るより明らかなことだった。

だが、その時 氷河は、喜びのあまり、ある重要な事実を見逃していた――気付いていなかったのである。
“ある重要な事実”とは他でもない。
白鳥座の聖闘士は その時点でまだ “自分の好きな人”がアンドロメダ座の聖闘士その人だということを、瞬に告げていなかったのだ。
告げられていなかったことを、もちろん瞬は知らなかった。
「あ……急に泣き出したりして、ごめんね。驚かせちゃったでしょう。ごめんなさい。あれは――氷河には好きな人がいて、氷河は氷河の好きな人のために 自分を顧みずに戦い続けてるんだって思ったら、急に切なくなって……切なくなったの、多分。氷河は そんなに その人のことが好きなんだなあって感動して、きっと、それで涙が出ちゃったんだと思う」

瞬は、自分が急に泣き出してしまった訳を、自分でも よくわかっていないようだった。
あまり自信がなさそうに 自分の涙の説明をしてから、僅かに首をかしげてしまったところを見ると。
「いや、俺の好きな人というのは――」
「氷河って、あんまり周囲に注意を払う方じゃないし、ナルシストとは反対で、自分自身も ろくに見ていないようなところがあるでしょう。僕、時々、氷河は何を見てるんだろう……って、心配になってたんだよ」
「だから、俺が見ているのは――」

こうなってしまったら、氷河と瞬は もはや くっつくしかないだろう――と、星矢は思っていた。
であればこそ星矢は、氷河に やっかみともとれるような野暮な忠告をしてやることができたのである。
しかし、事態は、星矢の予想とは違う方向に動き出していた――違う方向に動き出しているように見えた。
万一 このまま氷河と瞬が くっつくことがなかったら、自分は 幸福を手に入れ損なった男を更に泥沼に沈み込ませようとした人でなしということになってしまう。
この想定外の事態に最も慌てたのは、氷河ではなく星矢その人だった。
だから星矢は、さりげなく氷河へのフォローを入れたのである。
「氷河が見てるのは おまえだろ」
と。
しかし、そのフォローは全く功を奏さなかった。
瞬は、星矢の言う『おまえ』を、“氷河の仲間の一人”と解したのだ。

「氷河って、仲間思いなんだね」
「違う! 俺が見ているのは おまえだけだ! 星矢や紫龍のツラなんか見て何の益があるというんだ!」
氷河が慌てて、星矢のフォローに乗じる。
しかし、結果は変わらなかった。
「やだ。氷河って、意外に照れ屋さんなんだ。大丈夫、僕、氷河の優しい気持ちはわかってるよ」
「……」
そこまで言っても、瞬は、自分が白鳥座の聖闘士に特別な好意を持たれていることに気付いてくれなかった。
氷河は、そんな瞬の前で 言葉を失い、呆然とした。

つい数分前まで天国の一歩手前にいた男が、今は地獄門の前に立っている。
ここに至って、星矢は、今度こそすっかり、氷河に“数段顔の出来の劣る男”と評されたことへの不快感を忘れ去った。
『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』
地獄門の前に呆然と立ち尽くしている氷河に、完全に旧怨を捨て去った星矢が同情の眼差しを向ける。
「氷河……生きてるか……? おい、紫龍、どうにかなんねーのか? つーか、これってどういうことだよ。なんで こうなるんだ?」
「いや……これは……。おそらく瞬は、自分が人に特別に好かれる可能性というものを考えたことがないんだ。そういう、ある種の うぬぼれを、瞬は持ち合わせていない」
「そりゃ、まあ……瞬は、犠牲的精神は過剰なくらい持ち合わせてるけど、自己愛皆無な奴だから……」
「それはそれで大問題なんだが、こればかりは――」

自己愛だけで生きているナルシストも傍迷惑な存在だが、自己愛を全く持ち合わせていない人間は、それに輪をかけて面倒な存在である。
何といっても、自分を愛することをしない人間は、自分が他者に愛される可能性に考えを及ばせることを滅多にしないのだ。
「瞬に比べたら、ナルシストなんて、まるで害のない病人なのかもな。氷河が瞬に自分の気持ちをわかってもらうためには、まず瞬の中に うぬぼれの気持ちを持たせる必要があるわけだ。でも、それってどうすりゃいいんだよ?」
「俺が知っているわけがないだろう」
「そりゃ そーだ」
その方策を知らない人間は、おそらく紫龍だけではないだろう。
否、それは、『その方策を知っている人間は この地上に何人いるのか』というレベルの大問題だった。


雪の中で花を咲かせ、春の訪れを告げるスイセンは、希望の象徴。
地獄門の前で 前進することもできず、かといって後退することもできずにいる氷河に、彼の仲間たちは、ただ憐憫の眼差しを向けることしかできなかったのである。






Fin.






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