それでも、それから数日の間は 城戸邸は平和だった。 夢で好意を自覚したような瞬相手に、即座に恋愛の次なるステージに特進できるはずもなく、氷河は 瞬との間で地道に愛情を育み深めていくしかなかったのだが、それも考えようによっては、今しかできない楽しい作業。 氷河は、腐ることなく、自分と瞬の間にある距離を縮め、やがてはゼロにすべく、日々の精進に務めていたのである。 二人の夢が叶った数日後のある日、星矢が、 「俺、夕べ、すげー嬉しい夢見たー」 と言いながら、氷河のいるラウンジに入ってくるまでは。 「レディース・バイキングでケーキを100個完食した夢でも見たのか」 「なんでわかるんだよ」 「わからいでか」 氷河は、そこで、星矢を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるべきではなかっただろう。 彼は、『命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士だから、おまえの夢がどんなものなのかも すぐにわかる』とか何とか、適当な言葉で星矢を納得させるべきだったのである。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の夢を鼻で笑ってみせたりするから、氷河は 星矢の中に妙な反発心を植えつけてしまったのだった。 「ふん。底の浅い夢で悪かったな。で? 瞬に告白を喜ばれた氷河さんは、いい夢 見てるのかよ?」 「見ていないこともないが……。今は、現実が夢のようだからな。今日は、これから瞬とデートに行くんだ。ヨントリー・アートスペースで、ロシア・北欧の絵本展が開催されているとかで」 「絵本? また、ずいぶんと清く正しいデートだな。おまえの見てる夢って、どーせ、助平な夢なんだろ」 「さあ……。あれが夢なのか、俺の妄想なのか、実は俺自身にも区別がついていないというのが、実際のところだな」 「やっぱ、助平な夢なんだ」 星矢の その決めつけを氷河が即座に否定しなかったのは、何よりもまず、瞬が その場にいなかったから。 第二に、『絶対に そうではない』と言い切れるほど、氷河の夢(もしくは妄想)が清く正しいばかりのものではなかったから。 第三に、瞬と相思相愛関係になったことで浮かれていた氷河が、たった今 自分が星矢の機嫌を損ねてしまったことに気付いていなかったから――だった。 氷河は気付いていなかったが、星矢は 氷河への意趣返しモードに入っていたのだ。 「あー、でも、助平な夢 見てるって、人に言っちまったから、おまえの夢は もう叶わねーか。残念だったな、氷河」 「俺は何も言っとらん」 「言っただろ、今」 「言っとらん!」 たかが夢――ではあるが、されど夢。 今の氷河にとって、“夢”なるものは、彼の長年の恋を実らせてくれた極めて重要で意義深い事象だった。 たかが夢と笑い飛ばすことは 畏れ多くてできないほどに。 氷河が大声を張り上げた ちょうど そのタイミングで、瞬がラウンジに入ってくる。 慌てて口を閉ざした氷河に、当然のことながら、瞬は、 「何を言ってないの?」 と、尋ねてきた。 「どうしても叶えたい氷河の夢の話だよ」 氷河が場をごまかすために何事かを口にする前に、星矢が本当のことを(だが、多少の粉飾を加えて)ばらしてしまう。 “夢”は、瞬にとっても大切なものである。 まして、それが氷河の夢なら、なおのこと。 「氷河の夢? どんな夢なの?」 瞬が瞳を輝かせて 氷河に そう尋ねることになったのは、当然の成り行きだっただろう。 そして、そんな瞬に対する氷河の答えの歯切れが悪くなったのも。 「あ……いや、おまえに言うほど大層な夢ではないんだ」 「そんなこと言わずに、僕に教えてよ。氷河の夢を叶えるために できることがあったら、僕、できる限りのことをしたいから」 「……」 それは おまえにしか叶えられない夢だ――と、正直に言うわけにはいかない。 この段になって氷河は、自分が星矢の策略にはめられてしまったことに気付いたのだが、それは 気付いたから即座に脱出を図れるという類の策略ではなかった。 「人に教えると夢が叶わないと言っていたのは おまえじゃないか」 「僕にも教えられないことなの……」 「そ……そういうわけでは――」 氷河は、『人に話すと、その夢は叶わない』という迷信を信じているわけではなかった。 むしろ、氷河は その迷信を全く信じていなかった。 氷河が瞬に“自分の夢”を語ることができなかったのは、あくまでも その夢の内容を瞬に知らせて、瞬に軽蔑されたり恐がらせたりする事態を避けようとしてのこと。 自分の夢の内容を瞬に知られることによって、瞬に自分との間に距離を置かれるようになっては たまらないという危惧のゆえだった。 かといって、夢の内容を教えないと、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間にも教えられない白鳥座の聖闘士の夢のせいで、瞬がしょんぼりすることになる――というより、既に 瞬は しょんぼりしていた。 そんな瞬を見て、氷河は大いに慌ててしまったのである。 進展スピードは緩やかでも、ここまで順風満帆で進んできた二人の恋。 それが夢一つのことで停滞、へたをすると座礁してしまいかねないのだ。 どうすれば 瞬に 白鳥座の聖闘士の夢を忘れさせることができるのか、対応に苦慮することになった氷河の前に救命ボートを投じてくれたのは、氷河にとっては 命をかけた戦いを共に戦ってきた もう一人の仲間であるところの龍座の聖闘士だった。 「瞬。氷河に夢の内容を教えてもらえなくても、そう がっかりすることはないだろう。氷河がどんなことを喜ぶか、おまえが氷河の夢を察して 叶えてやればいいんだ」 それが本当に仲間を窮地から救うために投じられたボートだったのか、あるいは無責任に投じられた泥舟だったのかは、氷河でなくても 判断に迷うところだったが。 しかし、瞬は、仲間の好意を疑うことなく、肝心の氷河が乗り込む前に、そのボートに飛び乗ってしまったのである。 「そっか……そうだね。うん、考えてみる。僕の次の夢は 氷河の夢を叶えることだね。僕、頑張る!」 瞬の素直で前向きな決意の表明に、氷河は その口許を思い切り引きつらせることになったのである。 紫龍の助け舟によって、自分の恋は命拾いをしたのか、それとも更に危険な荒海に押し流されることになったのか。 氷河には、その判断ができなかった。 夢に終わりはない。 人に“最後の夢”はない。 人間は、一つの夢が叶えば、その脳裏に 次の夢を思い描くようにできている。 絶えることなく夢を見続けるからこそ、人は人であり、人の世界を営々と営み発展させ続けてきたのだ。 ――氷河の夢が叶ったかどうかを知る者はない。 Fin.
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