翌日、氷河は いつもの時刻になっても自室を出てこなかった。
氷河はおそらく 十二宮での戦い以降ずっと、自分の目に瞬が この地上世界に生きている人間の誰よりも美しく見えることの理由をそう・・だと信じていたのだろう。
そうだと信じ切っていた主張を、唐揚げ屋のおばちゃんに覆された衝撃は、彼の心身を完膚なきまでに打ちのめしてしまったのかもしれない。
昼近くになっても仲間の前に姿を現わさない氷河に、星矢はさすがに罪悪感を覚えることになった。

「やっぱ、瞬より 唐揚げ屋のおばちゃんの方が綺麗っつーのは言いすぎだったかな……。氷河の奴、このまま立ち直れないんじゃないだろーな」
「氷河は そこまでナイーブではないと思うが……。瞬、おまえ、氷河の様子を見てきてくれるか」
「え……? あ……あの……」
紫龍に そう言われた瞬が、なぜか ひどく戸惑った様を見せる。
怪訝な顔になった紫龍に、瞬は、一目で 場をごまかすためのものとわかる笑みを向けてきた。

「あ、氷河は多分 大丈夫だよ。星矢の言ったことも、氷河は もう気にしてないと思う。氷河はただ……今はいろいろ不都合があって……」
「不都合? 瞬、おまえ、何か知ってるのか?」
「そ……そういうわけじゃないけど……」
瞬は、妙に歯切れが悪い。
紫龍が瞬に投じた視線は、怪訝のそれから不審のそれに変わることになったのである。
瞬が知っているらしい氷河の“不都合”の内容を 紫龍が問い質そうとした時、タイミングよく氷河が登場。
ラウンジのドアの前に氷河の姿を認めた途端、それまで どこか落ち着きのなかった瞬は、ぱっと明るく瞳を輝かせ、掛けていたソファから立ち上がった。

「氷河、もう大丈夫なの!」
「ああ。まあ、なんとか」
『なんとか(大丈夫)』と言うわりに、氷河の顔は 不自然なほど引きつり 強張っていたのだが、瞬は その言葉を手に入れて 心を安んじることになったようだった。
元の場所には戻らず、
「あ、じゃあ、僕、お茶いれてくるね!」
嬉しそうに そう言って、瞬がラウンジを出ていく。
入れ違いにセンターテーブルを囲むソファの一つに腰をおろした氷河の顔は、間近で見ると なお一層、それこそ顔面神経痛でも患ってしまったのではないかと思えるほど 引きつりまくっていた。

「おい、氷河。どうしたんだよ、その顔」
まさか、仮にもアテナの聖闘士が、唐揚げ屋のおばちゃんのショックで こんなことになってしまったわけではないだろう――そんなことがあるはずがない。
そう思いつつも、心配顔で尋ねた星矢に、氷河から手渡された答えは、
「すまん。ちょっと油断すると顔が緩むんだ。そんな みっともない顔は、できれば瞬には見せたくなかったんで、部屋に閉じこもっていた」
というもの。
「へ?」

氷河の言を信じるなら、氷河の顔の引きつりは、ともすれば緩んでしまう顔を引き締めようと気張っているせい――であるらしい。
いったい なぜ、氷河は そんな症状に(?)悩まされることになったのか。
その訳は、氷河が口許を引きつらせながら告げた、
「瞬が俺と寝てくれたんだ、夕べ。これまでずっと それとなく逃げられていたのに」
という、とんでもない告白によって判明した。
判明はしたのだが、だからといって、星矢は すぐに事情が呑み込めたわけではなかった。
事情が呑み込めず、ぽかんと呆けた顔をさらすことになった星矢が、どうにか事の次第を理解することができたのは、それから3分以上の時間が過ぎてから。
つまり、そういうこと――らしい。
氷河の顔から緊張感が失われるような出来事が、夕べ 氷河と瞬の間で起こったのだ。
そうすることで、瞬は氷河の考えを正してのけたらしい。
氷河の顔の引きつりの訳が理解できた途端、星矢は いまだかつて経験したことのない疲労感に襲われた。

「そりゃ……あれだけ盛大に 堂々と、瞬にイカれた馬鹿振りを見せつけられたら、瞬の気持ちも ぐらつくよな……」
「気持ちが揺れたというより、むしろ 瞬は責任を感じてしまったのではないか。自分が、あんな馬鹿げた主張を自信満々で披露してしまうくらい氷河をおかしくしてしまったのだと」
「俺は、そんなつもりはなかったんだが――」
星矢と紫龍は決して 氷河の宿願の成就を祝福したつもりはなかったのだが、彼等のコメントに応える氷河の声と顔は完全に浮かれきっており、締まりというものが まるでなかった。
そんな自分を、氷河は 自分の意思と力ではどうすることもできないでいるらしい。
となれば、今の氷河を責めても、(氷河の顔の)状況は改善されないということ。
星矢と紫龍は、最初から徒労に終わるとわかっていることに挑もうとはしなかった。
星矢としては、唐揚げ屋のおばちゃんのショックで氷河が再起不能に陥っているのではなければ、それでよかったのである。
「まあ、1時間も演説をぶった甲斐はあったってことか」
本当に馬鹿な心配をしたものである。
今の氷河は、再起不能どころか、星矢の揶揄も通じないほど元気いっぱい夢いっぱい状態でいるようだった。

「やはり瞬は、この地上で いちばん綺麗だ。その上、優しくて、可愛くて、唐揚げ屋の100グラムおばちゃんなんぞ、瞬の足元にも及ばない。瞬が綺麗に見えるのが 俺の目だけでよかったと、俺は心から思うぞ」
氷河の主張は、昨日のそれから 180度の転換を見せていた。
それを きまりの悪いことだと恥じ入ることもできないほど、地上で最も美しい恋人を手に入れた氷河は、今 幸福の絶頂にあるらしい。

虚仮こけの一念、岩をも通す。
断じて行えば、鬼神もこれを避く。
迷いのない人間は強く、周囲の人間の迷惑を顧みず、幸福になれるようにできている。
それが、この世界の在り方のようだった。






Fin.






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