「氷河。あなたに彼女の通訳 兼 世話係を頼みたいのだけど」 「俺に、我儘女の使い走りをしろというのか!」 氷河が憤然として沙織に噛みついていったのは無理からぬことだったろう。 沙織の依頼は、“毒をもって毒を制する”というより、泣きわめくことしかできない赤ん坊の世話を、落ち着きなく走り回ることしかできない幼稚園児に任せるようなもの。 我儘が2倍になる程度で事態が収まれば まだまし、我儘が2乗されるようなことになったなら、事態の収拾がつかなくなる無謀なアイデアだったのだ。 そう思ったのは、自分が我儘な男だということを自覚していないわけではない氷河一人だけではなかったらしい。 決して厄介な仕事を押しつけられようとしている氷河に同情したわけではなく、いつになく冷静に現実を見据えた星矢が、大きく頭を左右に振って 沙織の計画に反対の意思を表明した。 「沙織さん、正気か? 氷河は駄目だろ。氷河くらい、その仕事に向いてない男もいねーぞ。つーか、そういうのは瞬の仕事だろ。瞬なら、我儘な男の世話に慣れてるから 我儘女優の世話も そつなくこなすだろうし、あんみつも一緒に食えるし」 星矢の提案は――星矢の提案こそが――この場合は 最も妥当、かつ適切なものだったろう。 沙織も、それはわかっているようだった。 が、彼女には、最も妥当かつ適切な その方策を採用できない事情があったのだ。 「そうできたら、私もいちばん安心なんだけど、瞬はだめ。スターは、自分より美人や可愛い女の子は大嫌いなんですって。日本側の女性スタッフは、おおむね彼女に気に入られているのよ。引き立て役に最適だと、ご満悦らしいわ」 一応、瞬は正真正銘の男子である。 その厳然たる事実を承知しているはずの星矢は、しかし、その点については何も言わなかった。 むしろ、星矢は、沙織が告げた“事情”に得心したような顔になりさえした。 その上で、沙織が告げた“事情”に顔を歪める。 「なんか、そのスターって、滅茶苦茶 ヤな性格の女じゃね?」 「まあ、多くの人間に尊敬される人格者ではないわね」 星矢のコメントに、沙織は実にクールに賛同した。 そして、少し諦め顔になる。 「大きなトラブルを起こしても、娘の大ファンであるパパが尻拭いをしてくれるし――実は彼女、2年前に好奇心で薬に手を出して、しばらく更生施設に入っていたのよ。『スペードの女王』は、彼女の復帰作。彼女のスクリーン復帰にも パパの力が相当動いたらしいわ。グラードは、そこまでは関与していないけど」 「あー、やだやだ」 星矢は我儘な女性が嫌いなわけではなかった。 そんなことを言っていたら、アテナの聖闘士などという商売はやっていられない。 ただ星矢には、容認できる種類の我儘と容認できない種類の我儘があったのだ。 なりふり構わず我を通すだけなら構わない。 しかし、それを、人を見下して行なうようならNG。 スターの我儘は 明白に、星矢には容認できない種類の我儘だった。 星矢が、その言葉通り、心底から嫌そうな顔をして、大仰に身震いする振りをする。 しかし、どうやら沙織は、最後のスターの我儘を救いようのないものとは考えていないらしく、彼女を弁護するようなことを言い出した。 「ただ、スターはね、役は選ぶのだけど、役に入り込むと、本当に素晴らしい演技をするのよ。彼女の演技の才能は スターと呼ばれるにふさわしいもので――」 「そのスペードの女王の役というのは、彼女には適役なんですか」 紫龍が、星矢ほどには我儘な女性への嫌悪感を見せずに、比較的 穏やかな声で沙織に問う。 残念ながら、沙織は、極めて重要な その問題の正しい答えを持っていないようだった。 「門外漢の私には、それは何とも――。『スペードの女王』のオペラで、アンナ・フェドトブナ伯爵夫人とスペードの女王の2役を演じる女性の役を演じるそうよ。アンナ・フェドトブナ伯爵夫人は60歳の老婦人、スペードの女王は 30歳前後の設定だそうで、その2役を演じる20代の女性の役。相当の演技力が要求される役であることは確かよ」 「ややこしい役なんですね」 瞬が およそ どうでもいいようなコメントを口にするのは、瞬が中立の立場にいるから。 仕事が順調に進まないことに焦慮している沙織の事情もわかるし、意に沿わない仕事を避けたい氷河の気持ちもわかる。 結果として、瞬は どちらの味方にもつけないでいるのだった。今は。 「原作とはかなりストーリーを変えるようだし、『スペードの女王』はあくまでもモチーフということのようね」 どちらの味方にもつけない瞬の心情を察して、沙織は、アテナの味方につかないアテナの聖闘士を責めるようなことはしなかった。 いずれにしても、彼女が説き伏せなければならない相手は、瞬ではなく氷河だった。 「『スペードの女王』のために、日本語と英語のできるロシア人を連れてきたと言ったら、彼女も機嫌を直してくれるのじゃないかと思うの。氷河なら、スターも見栄えが悪いと文句をつけることはないでしょうし、瞬のお供で甘味屋さんにも行き慣れているでしょう」 スペードの女王がスターの適役なのかどうかは さておき、スターの付き人という役は氷河の適役と、沙織は信じているようだった――もとい、そういうことにしてしまいたいようだった。 そういうことにされてしまっては たまらない氷河が、即座に沙織への反論に及ぶ。 「グラード財団総帥ともあろうものが、まともな判断力を誰かにレンタル中ですか。この俺に我儘女の太鼓持ちなんかできるわけがないでしょう! 常識で考えてくれ!」 「我儘な人間に振り回される瞬の気持ちがわかって、瞬への愛が深まるかもしれないわよ。もし引き受けてくれたら、魁夷の『冬華』の絵を購入してあげるわ。もちろん、複製なんかじゃなくオリジナル」 「冬華を……?」 アテナの命令に――否、アテナの聖闘士たちの生活全般に関する経済的負担を負ってくれているグラード財団総帥の命令に――断固として拒否する姿勢を見せていた氷河の表情が 初めて揺らぐ。 沙織が白鳥座の聖闘士の前にちらつかせたエサを、白鳥座の聖闘士が卑劣だと思ったのは明白だった。 魁夷の『冬華』。 それは、版の小さな複製画を買って部屋に飾っておくほど、瞬が好きな絵だったのだ。 沙織の企みに気付いた瞬が、慌てて氷河の味方につこうとする。 だが、その時にはもう氷河は、 「わかった」 と、彼にとって不愉快極まりない命令に従う返事をしてしまっていた。 瞬の献身的な恋人である氷河に、沙織が にっこりと微笑む。 「そう言ってくれると思っていたわ。スターには、特段 へいこらしなくてもいいわよ。あなたらしく自然に お世話してくれれば。スターは綺麗な男には寛大で、むしろ、才能ある綺麗な男は傲岸不遜であるべきだという考えの持ち主らしいから」 沙織の慰撫の言葉は、氷河の心を全く慰撫しなかった。 逆に、ますます不機嫌そうに むっとした顔になった氷河に、瞬はすがるような視線を投げることになったのである。 「氷河……僕のためなら、無理には――」 「氷河が女性の太鼓持ちとは、見物だな」 「一見の価値あり――つーか、金 払ってでも見てみたいよなー」 星矢と紫龍が瞬の言葉を遮ったのは、瞬のために為された氷河の決意に、彼等が感じ入っていたからだったろう。 瞬のために、おそらくは この地上に存在する あらゆる労働の中で最も嫌悪する労働に従事することを決意した氷河の健気と男気に水を差すようなことを、彼等は瞬にさせたくなかったのだ。 「スターの日本滞在は、あと8日。その間、彼女とスタッフはホテルに泊まり込み。氷河もホテルの方に移動してちょうだい。部屋はとってあるわ」 氷河は既に覚悟を決めたらしく、彼は、沙織の その指示に頷きはしなかったが、拒否する素振りも見せなかった。 「あ……」 氷河の決意と 氷河の決意を尊重しようとする仲間たちの態度によって、瞬は、自分がここで氷河の決意を翻させようと働きかけるようなことをすべきではないと感じた――感じさせられた――らしい。 「あの……じゃあ、僕、毎日、差し入れを持って陣中見舞いに行くよ。ハリウッドの女優さんを間近で見る機会なんて、滅多にないだろうし……」 心苦しそうに、そして、いまだに少し迷っているのがわかる表情と口調で、瞬が氷河に告げる。 そんな瞬に、氷河は、かなり無理をして作ったことが一目瞭然の 引きつった微笑を向けた。 困っている人がいると、瞬は手を差しのべずにいられない。 それが、自分より強い力(権力、財力を含む)を持つグラード財団総帥であっても。 それが自分でどうにかできることなら、瞬は その仕事を自分で、もちろん無報酬でしたいと思っている。 スターの対応に苦慮している沙織と、その務めを嫌がっている氷河の間で、瞬が困っていることも、氷河には わかっていた。 だからこそ、氷河は瞬のために『冬華』を手に入れてやりたかったのである。 なぜ瞬が 瞬には似つかわしくない峻厳な冬景色の絵を好きでいるのか、瞬が その絵に誰を重ねて愛好しているのかを知っているから、氷河は、その絵を何としても瞬のものにしてやりたかった。 「まず、一度、顔合わせをしましょう。今すぐ出られる? 彼女のいるホテルに行くわ」 沙織が急ぐのは、彼女の多忙のためというより、スターの気に入った通訳がいないとスターが仕事に取りかからず、スターと共に来日した撮影スタッフたちが困り果てるから。 その状況を一刻も早く打破したいから――である。 氷河は、アメリカから あんみつのために来日した我儘女がますます嫌いになったが、我儘女優に振りまわされている気の毒なスタッフたちと瞬のために――彼は 覚悟を決めて、掛けていたソファから立ち上がった。 そうして2時間後、城戸邸に戻ってきたのは沙織ただ一人だった。 氷河は、そのままホテルに留め置かれたらしい。 「スターは、氷河が気に入ったらしいわよ。卑屈に へいこらして機嫌取りに走らないところがいいらしいわ。いかにも不本意という氷河の態度が、かえって功を奏したみたい」 「そうですか……」 それが氷河にとって幸運なことなのか不運なことなのかは 瞬にはわからなかった。 が、こうなってしまった以上、瞬にできることは、氷河の苦役の負担を少しでも軽くしてやることだけ。 そのために――瞬は沙織に お伺いを立てたのである。 「僕、陣中見舞いに行くって氷河に約束したんですけど、行っても構わないですか……?」 「スタッフの邪魔にならない程度なら構わないわよ。1週間以上もあなたに会えないでいると、スターより先に、氷河が爆発しかねないし。どこにでも出入り自由の関係者カードを用意してあげるわ」 「ありがとうございます」 「まあ、あなたで氷河を釣ったようなものだし……。明日は10時から国立能楽堂で、観世流の能楽師に能の場面転換の約束事やら面の意味やらの説明を受ける予定になっているわ」 敵との戦いよりも つらい任務を氷河に負わせたことは、沙織も自覚しているらしい。 瞬のために――それは氷河のためでもある――どんな便宜も図ってやることを、沙織は瞬に約束してくれた。 |