「春が来て、めでたいのは めでたいけどさ……。俺たち、沙織さんに何て報告すりゃいいんだよ。アテナの聖闘士が失恋のショックで、地球を滅ぼしかけましたって?」
「うむ。これは、ポセイドンやハーデスよりたちが悪いな。少なくとも彼等の人類粛清計画には、汚れ切った人類を滅ぼし 美しい地球を取り戻すという、立派な大義名分があった。だが、氷河の場合は――」
氷河の場合は、立派な大義名分はおろか、自分が地球に何をしているのかを、彼は意識してすらいなかったのだ。
これでは、弁解のしようもない。

「言えねー。ほんとのことなんて言えねー」
「氷河は、邪神に洗脳もしくは憑依されていたということにした方がいいかもしれんな。これは、アテナとアテナの聖闘士と聖域の信用問題にかかわることだ」
地上の平和と安寧を守るために存在するアテナとアテナの聖闘士。
そのアテナの聖闘士が地上を滅亡の危機に陥れた。
こんな矛盾が、この地上世界に生きる人々に認め 受け入れてもらえるものだろうか。
どう考えても、それは無理な話だった。
アテナとアテナの聖闘士と聖域の名誉のため、何より悪意なく地球を滅亡の危機に陥れた男のために、紫龍はそう提案してやったのである。
だというのに、当の“悪意なく地球を滅亡の危機に陥れた男”は、真顔で仲間に反論してきた。

「なぜ 本当のことを言えないんだ。俺は、瞬への思いを、誰に恥じることもなく、世界中の人々に向かって堂々と宣言できるぞ」
「俺たちを、おまえみたいな恥知らずと一緒にすんなよ!」
氷河の恥知らずな言い草は、もちろん即座に彼の仲間によって否定された。
否定却下した星矢が、氷河の相手などするだけ無駄と考えたのか、氷河よりは常識を持ち合わせているはずの瞬の方に向き直る。
「な、瞬、そうしようぜ。氷河は邪神に操られてたんだってことに。そうすりゃ、氷河も沙織さんに叱られずに済む。ドルバルの時も、沙織さんは、悪いのはドルバルだって言って、氷河を怒んなかったじゃん」
「で……でも、嘘をつくのは……」
「嘘も方便って言うだろ。それとも、おまえは、農作物の種の撒きタイミングを逸して困ってる農家のおっちゃんやおばちゃんや、暖房費捻出のために3食インスタントラーメンで命をつないだ非富裕層の皆サンや、寒さのせいで身体に変調起こして乳が出なくなってた牛たちに、実は今回の氷河期もどきは 氷河の勘違い失恋が引き起こした世界的大参事でしたって詫びを入れてまわる気かよ? いや、おっちゃんや牛だけじゃない。地球規模の大飢饉が起こるんじゃないかって 不安に恐れ おののいたのは、誇張じゃなく、この地上に生きている全人類だったんだぞ!」
「アテナがそうしろというのなら、お詫びの行脚くらい、僕は……。たとえ一生かかっても――」
「んなことされたら、アテナが恥かくのっ!」

瞬は、氷河に比べれば 恥というものを知っており、真面目に正直に清らかに 己れの人生を生きているのかもしれなかったが、真面目で正直で清らかな人間が 常識的現実的な人間だとは限らない。
考えようによっては、むしろ瞬の方が、氷河より傍迷惑な人間だった。
氷河は、自分が自分の恋人への誠意を通すことができれば、それで満足するが、瞬は すべての人間に対して誠意を全うしようとするのだ。
だが、そんなことをされて困るのは、地上の平和と安寧を守るために存在する(はずの)アテナとアテナの聖闘士たちなのである。
瞬との幸せな日々を妨げられないために面倒事は できるだけ避けたいと考える氷河を味方につけ、最終的に3:1で、アテナの聖闘士たちの学級会は『この件は、氷河が邪神に利用されていたことにする』という決議に至ったのだった。


「またまた氷河が邪神に洗脳されて、小宇宙を利用されてたんだけど、邪神は俺たちが力を合わせて倒してきましたー」
嘘をつき慣れていない星矢の不自然極まりない丁寧語での報告に、アテナは露骨に不審の目を向けてきたのだが、彼女は、恥を知り 常識を備え、その上“建前”という言葉の意味を知っている、いわゆる“大人”だった。
「まあ、それはよかったわ。アメリカ、ユーラシアの穀倉地帯では、皆が春の到来を喜んで、早速麦の種蒔きや田植えを始めたようよ」
微笑さえ浮かべて そう応じたアテナは、彼女の聖闘士たちに それ以上のことは何も言わなかったのである。
彼女は、実に賢明な統治者だった。

神話の時代から続く長い聖域の歴史の中には、もしかしたら今回の氷河の失恋氷河期騒動に似た事件が 幾度も起こっていたのかもしれない。
一つの組織が数千年の長きに渡って存在し続けるということは、つまり そういうことなのかもしれない。
聖域の歴史の真実は ともかく――白鳥座の聖闘士の勘違いによる失恋のせいで地球が滅亡しかけた事実は、こうして 歴史の闇の中に ひっそりと葬り去られていったのだった。






Fin.






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