「葉桜見物はどうだったの」 その1週間後、話を切り出したのは いつもの通り 沙織さんの方だったが、その言葉は これまで沙織さんが決まり文句のように繰り返していた『その後、何か変わったことはあって? 不都合や不足、不満があるようなら、何でも言ってちょうだい』ではなかった。 不都合も不満も不平もないではなかったが、俺が抱えている不都合、不満、不平は、俺以外の人間には解決できないものだということを、沙織さんは その洞察力と聡明で察していたのかもしれない。 「もちろん、楽しかった。新緑に覆われた桜の木は 媚びがなくて、見ていて実に気持ちがよかった。次の約束を取りつけるのに、また苦労したが」 「あなたが楽しかったのは、ついに巡り会うことのできた理想の人と一緒にいられたからで、葉桜の風情を好ましく思うのも、彼女がそれを好きだと言ったからでしょう」 図星を指されるのも、それが沙織さんになら 気持ちがいい。 そう。俺は、葉桜見物に出掛けていったにもかかわらず、桜の新緑そっちのけで 俺の理想の人の姿をしか見ていなかった。 聖母子の絵の前に立つ彼女も優しげで、端然としていて、見る者の目を引いたが、自然の緑の中にいる彼女は、桜の若々しい緑より 更に みずみずしく 新鮮で、その姿を見ているだけで、俺の気分は晴れ晴れとした。 新緑を吸い取ったような彼女の髪や瞳、それらが陽光の中で輝く様を思い出すだけで、俺は心が浮遊する。 彼女は、その姿が美しいだけでなく、口にする言葉も歯切れがよくて、快くて――機転が利き、聡明だ。 その上、彼女のその小気味のいい言葉の根底に 優しい気持ちがあることもわかる。 花の散った桜を見て、すがすがしくて健気だと、彼女は言っていた。 それは、花が散った途端に人に見向きもされなくなる桜の木への いたわりの気持ちがあるから出てくる言葉だろう。 最初 俺は、彼女が俺の持っている金に興味を示さないから 理想の人だと思ったが、今では それを抜きにして、一人の人間として 理想の人だと思っている。 だが――。 「でも、次の約束の取りつけをするのに苦労したというのは、少々 問題だわね」 俺の不満を、俺に代わって沙織さんが口にする。 そう。そうなんだ。 俺の理想の人には、そういう問題がある。 「彼女は会いたがらないの? お金持ちで、健康で、顔の造作も申し分ないあなたに?」 俺は真剣に悩んでいるのに、沙織さんの口調は まるで、恋に苦悩する俺をからかっているようだ。 ガキみたいな負けん気が 頭をもたげてきて――俺は少し向きになった。 「望みはあると思うんだ。そんなにはっきり喜んでくれるわけではないが、誘えば付き合ってくれるし。葉桜見物の3日後にも もう一度俺に会ってくれた」 それは決して嘘ではなく、歴とした事実だったんだが、沙織さんは俺に疑いの目を向けてきた。 この人は、どうして こう、勘が鋭いんだ。 「まあ……日本に慣れていなくて、知り合いらしい知り合いもいなくて 心細いと、嘘をついて会ってもらったんだが」 「嘘はよくないわ」 「この国は金さえあれば大抵のことは何とかなる国だから、心細さなんて感じたことはないが、俺が日本に慣れていないのは本当のことだ。嘘じゃない。――そうでも言わないと、彼女は どういうわけか俺から逃げようとするんだ。こっちが弱みを見せると、助けようとしてくれるんだが」 俺が彼女の優しさにつけ込み、その優しさを利用していることは わかっている。 だが、彼女は、俺が日本に来る前に、日本女性というものに対して抱いていたイメージそのまま、大人しくて 控えめで――悪く言えば 消極的、受動的。求めなければ応えてくれないんだ。 おかげで、俺は未だに彼女にキスはおろか、手を触れることも、肩を抱くこともできずにいる。 知り合って、2週間と少し。 会ったのは最初の日と、その5日後の葉桜見物の日と、その3日後にもう1回。 俺は 焦りすぎているんだろうか。 日本人の標準的な恋の進展ペースがわからないから、判断ができない。 そこのところがわかれば、俺も もう少し 有効な作戦を立てることができるんだが、こればかりは――まさか沙織さんに『日本人の標準的な恋の進展ペースを教えてくれ』と言うわけにはいかない。 もっとも、“日本人の標準的な恋の進展ペース”なんてものがわかっても、その標準が俺の理想の人にとっても標準でなかったら、そんな情報には何の意味もないんだがな。 俺が知りたいのは、彼女の標準だ。それを沙織さんが知っているはずがない。 かといって、それを彼女に直接 尋ねるわけにもいかず――どうしたものかと嘆息した俺の上に、沙織さんの思いがけない言葉が降ってきた。 「あなたは、それが向こうの手だとは思わないの。あなたの理想の人は、無欲清純を装って、逃げるものを追いかけようとする あなたの追跡本能を利用しているのかもしれないわよ」 それは彼女がどんな人なのかを知っている俺にとっては思いがけない言葉だったが、彼女がどんな人なのかを知らない沙織さんには、当然 考えられる可能性の一つだっただろう。 なるほど。 普通の日本人の女なら――俺が これまでに知り合った女たちの中には――そういう“手”を使いそうな女も たくさんいた。 だが、彼女に限ってそれはないだろう。 いや、絶対にない。 「彼女は本当に、その手の欲はないんだ。お茶も食事も割り勘にさせられた。最初は、本当に俺が嫌いで、俺に恥をかかせようとしているのかと思ったくらいだ。どうやら、俺に借りを作りたくないだけのようだが」 「男性が女性の分の飲食代を出すなんて、日本では既に廃れつつある文化よ。ここ数十年の日本の男性の地位の沈下は激しいの」 「しかし、俺が頼み込んで会ってもらっているんだから、そこは当然俺が払うべきだろう」 「貸しを作って自分を優位な立場に置こうとか、自分の方がお金を持っていて既に優位な立場にあるからとか、そういう考えで 飲食代を出そうとしているのではないことはいいことだわね」 沙織さんが俺を褒めてくれたのは、もしかして これが初めてのことだろうか。 俺にとっては それは、ごく自然で、当然で、それこそ標準的な振舞いなんだが。 まあ、俺の標準が 世界の標準と合致しているとは限らないし、日本の標準と合致しているとも限らないし、彼女の標準と合致しているとも限らないがな。 「でも、そういう人が相手なら、少し強引に出るくらいのことをしてでも、貸しを作っておいた方がいいかもしれないわね。そういうタイプの人は、人に借りを作ってしまったら、その借りを返して綺麗に清算するまでは、人と完全に縁を切ってしまえないところがあるから」 「……確かに、彼女には そういうところがありそうだ。何というか、こう……彼女は 堅苦しくて律儀なんだ。人に甘えるのが嫌いそうだ」 やはり、沙織さんの助言は ためになるな。 実に勉強になる。 日本の標準がわからない上に、彼女の標準もわからないせいで、これまで俺は 「来週は もっと実りのある報告ができるよう、頑張ってみる」 沙織さんの助言に頷いた俺を、世界に冠たるグラード財団の若き総帥は 楽しそうに笑って激励してくれた。 |