「氷河。あなたは知らされていないようだけど、私のお祖父さまは、若い頃、いわゆるシベリア抑留で、数年間 極寒のシベリアで強制労働に従事させられていたの。お祖父様は私にも多くは語らなかったけれど、シベリアでの生活は それは悲惨なものだったらしいわ。毎日 何人もの仲間が死んでいった。でも、その時 お祖父様たちに とても親切にしてくれたロシア兵がいたそうなの。その方自身も決して豊かな物資を与えられていたわけではないのに、お祖父様たちに食べ物や衣料を分けてくださった。モスクワからやってきていた兵だったそうなのだけど、シベリアで知り合った女性と結婚して、そのままシベリアに住むようになって――その方の娘さんが、あなたのお母様」
「なに?」
「数年間の強制労働を耐え抜き日本に生きて帰ってきて、苦労の末に成功を収めた お祖父様は、あなたのお祖父様に会って礼をしたい、感謝の気持ちを伝えたい、旧交を温めたいと願ったのだけど――」

それは無理な話だ。
ロシア――いや、当時はソヴィエトか――は冷戦時代に入っていた。
ああ、それでマーマは日本語を知ってたのか。
城戸翁は、それで俺に――俺が顔も知らない祖父の代わりに、何十年という時間を超えて、感謝の気持ちを伝えようとしたわけだ。
利子がついたにしても、少々多額すぎる遺産を贈ることで。

「瞬のお祖父様はね。私のお祖父様と学友で、同じ山岳同好会に所属していたそうなの。大学を出てからも二人は友人として親しく付き合っていたのよ。シベリアから帰ってきてから、二人の お付き合いも復活した。ちょうど瞬のお祖父様の息子さんが――瞬のお父様ね――生まれた時に、それを最後にするつもりで、私のお祖父さまと一緒に南アルプスに登って、雪崩に合い、瞬のお祖父様は亡くなったの。私のお祖父さまを庇って。もう これ以上 寒いところで苦労はするなと、それが瞬のお祖父様の最後の言葉だったそうよ。ご自分こそが生きたかったのでしょうに……。私のお祖父様は もちろん、残された奥様にできる限りの援助をした。その息子さんが無事に成人されて、ご結婚なさって、子供も生まれて――お祖父様も安堵してらしたの。これで亡くなった親友に 少しは顔向けができると。でも その息子さんがまた、瞬が生まれて まもない頃、視察に行っていた工場の事故で 部下の方を庇って亡くなって――」
「……」

瞬の祖父と父親は、親子して 人のために死んだのか。
貴い行為だと、他人が言葉で言うのは簡単だが、切ない話だ。
いくら金を積まれても――5億が10億でも、10億が100億でも、失われた命は戻らない。
だから、瞬は、生きている人の役に立てるために、城戸翁からの遺産を あっさり手放したんだろう。
転がり込んできた大金を ちゃっかり自分の懐にしまい込み、日本の女は金のことしか頭にないのかと偉そうに放言していた俺より はるかに瞬は潔い。

「私は、そちらの方面では かなり非常識な人間なの。瞬は……お祖父様に似たのか、お父様に似たのか、自分より他人のことを気にかける子で――自分が傷付くことには無頓着なのに、人を傷付けることを極端に恐れる子で――私は以前から心配していたのよ。瞬はいつか、瞬のお祖父様やお父様のように、人のために我が身を投げ出してしまうのじゃないかって。だから、あなたのように、適度に現実的で、適度に俗っぽくて、お金の価値もわかっていて、程よく厚顔で 図太い神経の持ち主が、瞬の側にいて瞬を守っていてくれたら、私も安心できるのだけど」

沙織さんは、非常識な人間というわけではないだろう。
倫理の破壊者というわけでもなく――彼女は ただ、俺が瞬の身辺警護者として適役と認めたから、瞬のために常識を放棄することにしたんだ。
俺にとっては、幸運なことに。
『不都合や不足、不満があるようなら、何でも言ってちょうだい。可能な限り対処するわ』
あの言葉通り、可能なことだから“対処”してくれたわけだ。
そうだな。
沙織さんのレベルに達しているというのなら話は別だが、瞬の身を守るには、女よりは男の方が何かと都合がいいだろう。
俺に異存はない。
嬉しいことに、瞬にも それで異存はないようだった。
瞬が、恥ずかしそうに、可愛い笑顔を俺に向けている。

「お祖父さまは、苦労して一代で財を成した立志伝中の人よ。結婚もしなかったし、実子もいない。でも、いつも多くの人に支えられ、助けられてきたの。『人は、一人では生きていけない』が口癖で、『一人で生きているつもりでいるなら、その人間は思い上がりの はなはだしい、ただの馬鹿だ』と、いつもおっしゃっていた。私もそう思うわ」
沙織さんは、きっぱりと そう言い切った。
人は一人では生きていけないから――多くの人の命と生活を守るために、城戸翁に見込まれてグラード財団の頂に立っている人は。

俺は、この人の期待を裏切るわけにはいかないだろう。
瞬を守るという幸せな務めに反しない限り、この女性を守りたいと思うし、楽しませてもやりたい。
俺は、そう思った。
俺にしては、真剣に。

その思い、その決意は、毎日 瞬の笑顔を見て暮らせるようになった今でも全く変わっていない。
おそらく、一生 俺のその思いは変わらないだろう。
ただ、瞬が恥ずかしがるので、週に1度の俺の恋の進展報告は、今ではやめてしまったが。






Fin.






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