困った時の神頼み。
星矢が瞬の手を引いて連れていった先は、彼等の女神の許だった。
こんなことでアテナの手を煩わせることに気が引けているのか、無理に同道させられた瞬は、沙織の執務室のドアの横で 困ったように瞼を伏せている。
しかし、“繊細で気弱”な星矢は、自らの目的達成のためなら、いかなる障害も目に入らず、たとえ目に入ったとしても蹴散らしてしまう男。
星矢は、沙織の巨大な執務机の上に 音を立てて両の手を叩きつけ、彼の女神への直訴に及んだのである。

「沙織さん、協力してくれよ。俺は、瞬に 氷河の本性を知らせてやりたいんだ。ほんとの姿を知った上で育まれるのが、真の友情ってもんだろ。あわやって時に 氷河が本性出して、瞬が窮地に陥ることになったりしたら大変だし、これは俺の名誉を守るためでもあるけど、瞬の身を守るためにもなる重大な問題なんだ!」
たとえ天馬座の聖闘士が 閻魔様に舌を抜かれても、余裕で『あなたには まだ命が残っているではありませんか』と言ってのけるだろうアテナの厳しさを知っている星矢は、その問題を自分の舌の保全にのみ関わる小事ではないと訴えることで、アテナの心を動かそうとした。
星矢によって“重大な問題”の当事者の一人にされてしまった瞬が ますます困った顔になる。
星矢は そこまでしたのに――本来なら いじめの部外者である瞬を巻き込むことまでしたのに――アテナの対応は極めて冷静、この問題を巨視的な目で俯瞰考察した、実に公平なものだった。

「あなたは氷河が猫かぶりの嘘つきだというけれど、氷河は むしろ正直すぎるくらい正直な人間でしょう。氷河は、自分を偽ったり飾ったりすることは面倒だと考える傾向が強いし――つまり、何というか……氷河は 正直のタイプがあなたと違うだけよ」
「タイプが違う? “正直”にタイプがあんのかよ?」
アテナまでが、妙な理屈を振りかざして、いじめの事実を認めようとしないのか――隠蔽を図ろうというのか。
もしかしたら聖域には どこぞの教育委○会や文部科○省からの圧力がかかっているのではないかと、星矢は2割方 本気で疑ってしまったのである。

“正直”とは“嘘をつかないこと”である。
星矢の認識ではそうだった。
それ以外に“正直”の定義はないと、星矢は思っていた。
明るい正直者と暗い正直者はいるかもしれないが、それは明るく真実を言うか、暗く真実を言うかの違いしかなく、彼等が共に正直者であるならば 口にする内容は同じで、食い違うことはないはずだと。
しかし、沙織の考えは星矢のそれとは少々違っていたのである。

「もちろん、“正直”にも色々なタイプがあるわよ。たとえば、事実をそのまま告げずにいられないタイプの正直者と 自分の心に嘘をつけないタイプの正直者。後者の正直者は、場合によっては 事実に反することを口にすることもあるわね」
「んー……」
沙織の言う二つのタイプの正直者の意味と違いが理解できない。
氷河が前者の正直者なのか、後者の正直者なのかということもわからない。
沙織に意味不明のことを言われ、星矢は顔をしかめた。
「事実に反することを言うのに、正直者なのかよ」
質問というより、不満を言う口調で、星矢は沙織に尋ねたのである。
沙織は、ごくあっさり 頷いた。

「それは――そうね。たとえば、好意を抱いている人に、とても不味い料理を振舞われたとするでしょう。だけど、料理を作ってくれた人を傷付けたくないから『美味しかった』と言う。それは、料理を作ってくれた人を傷付けたくないという自分の心に正直でいるために、事実に反することを言ったことになるわ。そういう行為を思い遣りと言うの。もちろん、逆のパターンもあるわよ。料理を作ってくれた人を憎んでいて 傷付けたいから、美味しい料理を不味いと言う。これも一種の正直でしょう。最低な行為だとは思うけど、そういうことでしか自分の心を守れない哀れな人間も、世の中にはいる。その最低な行為をしないと、その人は生きていられないの。生きていたいという自分の心に正直に従ってしまった 心弱い正直者というわけね」

“正直”は、星矢にとっては 美徳であり、正しいことだった。
当然 星矢は、沙織の言う“心弱い正直者”を認め受け入れることができなかった。
「なんだよ、それ。面倒だなー。『料理はすごく不味かったけど、俺はおまえが好きだ』とか『料理は美味かったけど、あんたは嫌いだ』とか、ほんとのこと言えばいいだろ。それが正直ってもんだろ」
氷河が、“事実をそのまま告げずにいられないタイプの正直者”と“自分の心に嘘をつけないタイプの正直者”のいずれのタイプに属する人間であるのかは さておき、星矢が前者の正直者であることは疑念の挟みようがない事実だった。
星矢という正直者は、その上 簡素簡潔を愛し、右顧左眄を好まない。

「んな面倒なことはどうでもいいんだよ。氷河がいつも瞬の前でだけ いい子の振りしてるのは なんでなんだよ」
「自分を偽らず、正直だからとしか言いようがないわね」
問題の焦点を 正直者全般から氷河一人に合わせ直しても、星矢には やはり、沙織の言う“正直”の意味がわからなかった。
混乱した末に、問題と目的を原点にまで引き戻す。
「だから、氷河の正直のタイプなんてどうでもいいんだよ。俺はただ、事実の証明をしたいだけなんだ。何とかしてくれよ。このままじゃ、俺、瞬に嘘つきだと思われちまう!」
「僕、そこまでは……。物事って、誰もが同じ方向から見ているわけじゃないから、それで誤解が生じているだけなんじゃないかな。氷河は、僕が怪我をしないように 薔薇の棘を抜いてくれるけど、棘で我が身を守りたい薔薇から見たら、それは意地悪でしょう。そんなふうに、星矢は 氷河の優しさを誤解しているんだよ、きっと」

“正直”のあり方は一つだけではないという沙織の考えを聞いて、瞬が辿り着いた結論がそれだった。
これならば、“氷河が優しく親切なこと”と“星矢が嘘をついていないこと”は、何の矛盾もなく両立する。
しかし、星矢は それでは収まらなかったのである。
星矢が瞬に認めさせたいことは あくまでも、“白鳥座の聖闘士が 天馬座の聖闘士をいじめている”という事実だったのだ。
「おまえは、氷河が問答無用で 俺をアホ馬鹿カボチャって怒鳴りつけるのを見たことないから、んな悠長なこと言ってられるんだよ! 右から見ても左から見ても、氷河のあれは 単なるいじめ! 意地悪! 正真正銘の虐待だ!」
「星矢……」

星矢はあくまでも、自分にとっての事実に固執し続ける。
それが唯一無二の真実だと信じ、自分の信じることを他人にも認めさせようとする。
そんな星矢の前で、瞬は戸惑うばかりではいられなくなってしまったのである――瞬は 悲しくなった。
「星矢。じゃあ、こういうのはどう?」
沙織が星矢に ある提案をしたのは、星矢の望みを叶えるためというより、瞳を潤ませ始めた瞬を見兼ねてのことだったかもしれない。
おそらく そうだったろう。
星矢の言葉を悲しむ瞬を見るに見兼ねて持ち出した苦肉の策にしては、それは かなり大胆かつ乱暴な奇策だったが。

「あなたと瞬の心を入れ替えてみるの。あなたの姿をした瞬の前でなら、氷河も普段 あなたに接している通りに振舞うでしょう。あなたは 氷河の本性が瞬にわかればいいのよね?」
「俺と瞬の心を入れ替える? そんなことができるのか?」
「私を誰だと思っているの」
星矢が『時々 ものすごくが悪い、知恵と戦いの女神だろ』と答える前に、そして、瞬が『氷河を騙すようなことはできない』と訴える前に、星矢と瞬の心の入れ替わりは完了していた。






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