「そんなはず……僕は、一輝兄さんの小宇宙が消えるのを――」 「一輝の小宇宙が消えるのを感じた? で、あなたが一輝の小宇宙が消えたと感じたのは、これで何度目?」 「それは……」 三度目――四度目だろうか。 瞬の兄は不死鳥。 死んでしまったとしか思えない状況から、これまで幾度も、彼は甦ってきていた。 「あれは……一輝は、あの時、わざと自分の小宇宙を消したのよ。私の命令で。まあ、あなたの無謀な戦い方を戒めるためでもあったでしょうし、あなたに懸想している氷河への牽制――意趣返しの意図もあったでしょうけど」 「で……でも……」 弟の無謀な戦い方を戒め、氷河を牽制することが目的なのであれば、言葉で そう言えばいい。 あるいは、もっと手っ取り早く 自らの拳の力に訴えるという手もある。 その方が兄らしい。 少なくとも、死を装うなどという、手の込んだ 非直截的な策を弄するのは、兄のやり方ではない。 そういう兄を知っているだけに、瞬はアテナの言葉を すぐには信じられなかったのである。 だが、アテナは、そうせざるを得ない事情が彼女にあったことを瞬に知らせてきた。 「ハーデスとの聖戦がいつ始まるのかもわからない この時に、どこぞの神が難儀なことをしでかしてくれたの。キュクロプスの島に眠っていた巨人ポリュペイモスを目覚めさせてしまったのよ。盲目の彼にホルスの目を与えて――プロビデンスの目と言った方が通りがいいかしら? 地上世界のすべてを見通すことができる目のことよ。その上、その神は ご丁寧にも愚鈍なポリュペイモスに、『生きている人間には倒せない』という運命を授けて、聖域への攻撃を促したらしいの。ポリュペイモスが“生きている”と認識している人間には、彼を倒すことができない。彼は世界のすべてを見通す目で、生きている人間の動向を瞬時に知ることができるから。だから、いったん 一輝に死んでもらったのよ。今 一輝がポリュペイモスに近付いていっても、ポリュペイモスは一輝を死んだ者と認識しているから、その存在を認めることはできない。地上世界のすべてを見通すことができる目が、かえって仇になるというわけ。生きていることになっている人間には倒せないポリュペイモスを倒すために、今度 戦闘が起きたら死んだ振りをするようにと、私は一輝に命じていたのよ。一輝の最大の奥義でしょう、死んだ振りは」 鳳凰座の聖闘士の擬死は 地上の平和と聖域を守るために必要な はかりごとだったのだと、悪びれた様子もなく、アテナは事の次第を説明するが、彼女が その はかりごとを鳳凰座の聖闘士の仲間たちに知らせずにいたのは なぜだったのか。 事前に『次に戦いが起こった時、ポリュペイモス退治のために、一輝は死を装うことになっている』と教えてもらえていれば、瞬は兄の死を嘆かずに済んだ。 『二度と氷河には会わない』などという誓いを立てずに済んだ。 自身の不幸で 自身の罪を帳消しにしようなどという卑劣なことを考えずに済んだのだ。 「な……なぜ……」 『なぜ僕たちに教えておいてくれなかったんですか』と瞬がアテナと責める前に、アテナは、 「敵を欺くには まず味方からと言うでしょう」 と答えて、瞬の機先を制してきた。 あまりのことに、瞬は呆然としてしまったのである。 確かに“死んだ振り”は鳳凰座の聖闘士の最大の奥義かもしれない。 必殺技でもあるだろう。 だが、そのたびに彼の弟が泣くことを、兄は知っている。 にもかかわらず、あの兄が そんなことをするとは。 よりにもよって、彼の弟の目の前で、鳳凰座の聖闘士が その必殺技を繰り出すとは。 瞬には信じられなかったのである。 瞬は、兄に『泣くな』と言われたことは数えきれないほどあったが――その4分の1ほどは兄のための涙だったが――兄が弟を泣かせるようなことを 望んで為したことは、これまで一度もなかった。 そのはずだった。 瞬の その考えを、アテナが軽い苦笑で覆す。 「一輝は、きっと癪だったんでしょ。『兄さん、兄さん』だったあなたが、自分以外の人間を気にしているのが」 「そんな……」 もしアテナの推察が正鵠を射たものだったとしても、そんな子供じみた真似を あの兄がするだろうか。 瞬は、アテナの言葉を もちろん疑った。 疑いはしたのだが、結局 瞬は、アテナの許しがあれば――もとい、“アテナの命令”という大義名分があれば、兄は それをするかもしれない――という結論に至ってしまったのである。 『あの二人は 最近 地に足が着いていないようだから、ちょっと お灸をすえてやりなさい』と、軽い調子でアテナに言われてしまったら、兄は その気になってしまうかもしれない――と。 アテナの聖闘士にとって、アテナの命令は絶対なのだ。 おそらく兄は、アテナの提案に乗ってしまったに違いない。 おそらくは ごく軽い気持ちで 瞬の兄を 「そんなこととは知らずに、氷河は一人で暴走してくれて――しかも向かった先が最悪。今、星矢と紫龍が追いかけているわ。どうして前もって教えておいてくれなかったのかと、星矢には文句を言われたけど、星矢に本当のことを教えたりなんかしたら、一輝が死んでいないことがポリュペイモスに筒抜けになるのが目に見えていたから」 「そ……それはそうかもしれませんが、せめて僕にだけでも――」 教えておいてほしかった。 知らされずにいたせいで、どれほど僕が悲しんだか――苦しんだか――愚かな真似をしてしまったか――。 瞬が恨み言を並べ立てようとしていることを察したのか、アテナは急に――かなり わざとらしく、話の向きを変えてきた。 「昨日までは、氷河は 本当に腑抜けのようだったのよ。何をするにも怠そうで――いいえ、むしろ、何をすることもできなさそうで。その彼を豹変させてしまうような、特別な出来事が夕べ あったのかしら」 「あ……それは……」 アテナは薄々気付いている。 へたをすると、すべてを見透かしている。 アテナへの恨み言を口にするつもりだった瞬は、頬を真っ赤に染め、その顔を伏せることになった。 歴戦の聖闘士並みに鮮やかに敵の攻撃を未然に防いだアテナが、短い苦笑のあと、真顔になる。 「少々 厄介ではあるにしても、ハーデスとは比べものにならないほど小物のポリュペイモスを倒すための画策のせいで、私は、あなたと氷河、二人の聖闘士を失うことになるのかと心配したのよ。まあ、あなたが そこまで弱い人間だとも 愚かな人間だとも思ってはいなかったから、私も そう深刻に心配していたわけではないのだけれど」 「アテナ……」 アテナの企ては、ある意味では残酷で 心無いものだったが、それは確かにアンドロメダ座の聖闘士の強さを信じているからこそ実行に移すことのできた企てだったろう。 自分は アテナの信頼に応えることができなかったのだと思うと、瞬は ひどく いたたまれない気持ちになった。 弱かった自分が恥ずかしく 切なく 申し訳なくて 眉根を寄せた瞬に、アテナが いつもの彼女らしい慈愛の色をした笑みを向けてくる。 「ともかく、あなたの誓いは『兄の死に懸けて』誓われたものだから、当然 無効よ。ひどい意地悪をしたと思っているわ。でも、私は気付いてほしかったの。苦しみから目を逸らすことで、その苦しみから逃れることはできない。人は、試練に出会った時には、その試練を真正面から見詰め、そして、その試練を乗り越えなければならないのだということを」 「はい……」 「人間が犯す最も大きな罪は、幸福になりたいと望まないことよ。たとえ どんな状況下にあっても、生きている間は、人は幸福になりたいと望まなければならない。幸福になりたいと望まないことは罪なのよ」 「はい」 希望の闘士であるアテナの聖闘士たちを率いる女神らしく、明るく前向きな考え。 生きることを、どこまでも肯定的に捉えた言葉。 彼女の側で、彼女の小宇宙に触れることによって、瞬は自分が希望の闘士であることを思い出し始めていた。 彼女の聖闘士は 希望でできているのだ。 希望を持って生き、希望を持って戦い続ける――。 瞬がアテナの聖闘士に戻ったことを認めたアテナは、その目許に満足そうな笑みを刻んだ。 「お説教は あとにしましょう。さっさと 氷河を追いかけなさい。迎えが星矢と紫龍だけじゃ、氷河が大人しく戻ってくるとは思えないわ。瞬。あなたもね。きっと、逃げるより、追いかけることの方が楽しいわよ」 「はい!」 おそらく、アテナの言うことは正しい。 少なくとも、アテナの望む生き方を選び、その通りに生きていた方が、自分は――人は――より実りの多い人生を生きることができるだろう。 生気を取り戻し、希望を取り戻し――瞬は、アテナの言葉に従って、明るく軽快に駆け出したのである。 自分の幸福があると信じる場所に向かって。 Fin.
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