Blood+






彼は敵だった。
紛れもなく、アテナの聖闘士の敵。
アテナの聖闘士の聖衣とは明確に異なる鈍色にびいろのプロテクターを身にまとっているし、その様子は どう見ても、聖域を覆い守っているアテナの結界を破ろうとして破ることができず 精も根も尽き果ててしまった者のそれとしか思えない。

晴れた初夏の午後。
聖域のすぐ外にある、4、5本の木でできた 林とも呼べないような小さな林。
この辺りでは珍しい樫の木の幹に背を預け、疲れ切って眠っているらしい その金髪の男に、だが、瞬は攻撃を加えることができなかったのである。
意識のない人間――つまりは戦意のない人間――を、『敵だから』という理由で倒すことに、瞬は躊躇しないわけにはいかなかった。

だが、どう見ても敵である。
アテナと聖域とアテナの聖闘士の敵。
つまりは、地上の平和と安寧を乱そうとしている存在。
このまま気付かないふりをして、聖域に戻るわけにはいかない。
瞬は困ってしまったのである。
できれば今すぐ目覚めて、アテナの聖闘士に攻撃を仕掛けてきてほしかった。
そうすれば、自分も彼に向かって拳を放つことができるのだ。
だが、よほど疲れているのか、彼は一向に目覚める気配を見せてくれない。
瞬は、眠れる敵の前に、既に1時間以上 無為に立ち尽くしていた。
このままでは、冗談ではなく本当に 日が暮れてしまう――そんなことを考えながら。

瞬は、つい先頃 ドイツで出版された一つの民話を思い出してしまったのである。
タイトルは確か、『いばら姫』。
魔法使いに100年の眠りの呪いをかけられた美しい姫君の物語。
フランスでペローが記した『眠りの森の美女』の類話であるが、ペロー版では、王子が訪れた時ちょうど100年の時が過ぎて自然に目覚める姫君が、ドイツで発行されたグリム版では王子の口付けによって目覚めるようになっているらしい。
まさかグリム版の王子のように口付けで彼を目覚めさせるわけにはいかず、かといってペロー版のような 奇跡のごとき偶然は 待っていても訪れてくれそうにない。

迷ったあげく、瞬は、恐る恐る彼の肩に手を置いて、そっと その身体を揺らしてみたのである。
「あの……すみません。そろそろ目を覚ましていただけませんか」
その試みを二度三度。
更に数度目の試みのあと、彼は ついに目を覚ましてくれた。
「ん?」
ぼんやりした目で、彼が瞬を見上げてくる。
命のやりとりをしなければならない不倶戴天の敵が すぐそこにいるというのに、彼は一向に その身に緊張感をまとうことをせず、瞬の姿を映している青い瞳も眠たげなまま。
彼の瞳を、うららかに晴れた春の日の空のようだと、瞬は思ったのである。

「おまえは……アテナの聖闘士か?」
目だけではなく 声まで眠たげに、彼が瞬に尋ねてくる。
ともかく彼が目覚めてくれたことが嬉しくて、瞬は彼の前で大きく頷いた。
「はい。あなたは僕たちの――アテナの聖闘士の敵……ですよね? よければ、これから僕と戦っていただけませんか?」
「……」
彼は、アテナの聖闘士の敵である。
当然、アテナの聖闘士は彼の敵のはずだった。
にもかからず、敵を目の前にして、彼は一向に臨戦態勢に入る素振りを見せてくれない――敵意も害意も戦意も見せてくれない。
敵対する者として至極当然な瞬の要請を受けても、彼は いかなる緊迫感も示さず、依然 ぼんやりしたままだった。

それが、覚醒し切れていない人間の“ぼんやり”ではなく、瞬の要請にあっけにとられての“ぽかん”だということに 瞬が気付いたのは、意想外に はっきりした声で、彼に、
「おまえ、まさか、寝ている俺を殺すわけにはいかないというので、俺が起きるのを待っていたのか?」
と問われた時。
「あ……はい。そうですけど……」
嘘をつくわけにもいかず 正直に頷いた瞬に、彼は呆れたような目を向けてきた。
「おかしな奴だ。さっさと殺していいぞ。今の俺には ウサギ一羽 倒す力もない。おまえと戦う力は なおさらない」
「そんなわけには……」
そんなわけにはいかないのだ。
アテナの聖闘士の務めは、地上の平和を守るために、地上の平和を乱す者と戦い倒すことであって、その力も意思もない者を倒したりなどしたら、それは ただの暴力になる。
それは瞬の本意ではなかったし、アテナの聖闘士のすべきことでもない。

瞬の ためらいの訳を察したのか、アテナの聖闘士の敵であるはずの男は、アテナの聖闘士のために わざわざ 戦いの大義名分と正当性を提供してくれた。
「俺は、この世界が滅びてしまえばいいと思って、聖域を破壊するために ここにやってきた男だ。その目的を果たすことができず、力尽きて不様に ぶっ倒れている敵だ。おまえが俺を倒すことは、完全に正しい。おまえには、そうする権利と義務がある。さっさと殺せ」
「……」
彼の親切(?)は有難かったが、瞬は かえって彼を倒すわけにはいかない気持ちになってしまったのである。
敵の立場を思い遣ってくれるような人を、大義が立つからといって倒すようなことをしたら、それは ただの恩知らず、血も涙もない人非人ということになってしまうではないか。
アテナの聖闘士が そんなことをするわけにはいかない。
もともと持ち合わせの少ない瞬の闘争心は、事ここに至って、ほぼ完全に失われてしまっていた。

「あなたは――どうして、こんなところで眠っていたんです。アテナの結界を破ろうとしたんですか? 戦う力がないとおっしゃいましたけど、どこかに怪我をしてらっしゃるの?」
すっかり戦意喪失した口調で 瞬が尋ねると、瞬以上に緊張感のない声で、彼は思いがけない答えを返してきた。
「怪我はしていない。腹が減って、動けないだけだ」
「おなかがへって?」
「ああ。抵抗しないぞ。やるならさっさとやってくれ。その方が 餓死より苦しくないだろうし、そうしてくれれば俺も助かる」

本当に、それは思いがけない答えだった。
彼は平和を憎むあまり、あるいは 世界の破滅を願うあまり、食事をとることもせずに 単身 敵陣に乗り込んできたというのだろうか。
瞬は、彼の行動上の優先順位に驚き 呆れてしまったのである。
だが、それは、戦意も敵意もない敵の扱いに困っていた瞬には 僥倖といっていい事態だった。
彼は戦意を持っていないわけではなく、怪我をしているわけでもなく、病を得ているわけでもなく――ただ空腹でいるだけなのだ。

「あの……じゃあ、僕が食べ物を持ってきたら、それで空腹でなくなったら、僕と戦ってくれます?」
「おまえは何を言っているんだ」
「僕は、地上世界とアテナに害を為す敵を倒したいんです」
「だから、俺を倒せと言っているだろう」
「そんな……おなかが減って動けないでいる人を倒すなんて――。あの、ちょっと待っててください。パンとチーズと干し肉くらいなら、すぐ持ってこれると思います。あ、あと、ミルク――ミルクもあった方がいいですね。すぐに戻ってきますから、逃げないで待っててくださいね……!」
僅かばかりの食糧を提供することで、アテナと聖域の敵を一人 倒すことができるなら安いものである。
瞬は張り切って、この戦いに必要なものを入手するために、敵に背を向けて その場から駆け出した――駆け出そうとした。
が、瞬が2歩も行かないうちに、敵が瞬を引きとめる。

「待て。おまえが食い物を持ってきても、俺がおまえと戦うのは無理だ」
「無理……って、どうして?」
引きとめる敵を振り返り、向かい合い、瞬は 空腹が癒されてもアテナの聖闘士と戦うことはできないと言い張る敵の姿を改めて見やった。
彼は、頑健そうな身体を持っている。
その申告通り、負傷している様子もない。
二人の戦いを妨げているものが彼の空腹だけなのなら、幾許かの食べ物によって、敵対し合う二人は正々堂々と拳を交え合うことができるようになるはずだった。
そうではないのかと 視線で尋ねた瞬に、彼は申し訳なさそうに首を振ってみせた。

「俺の体力はパンやチーズでは回復しないんだ」
「ど……どうして」
「俺は吸血鬼だ。俺に力を与えることができるのは、人間の血だけだ」
「は……?」
“吸血鬼”。
それは いったい何だろう?






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