「おまえに、そんな不機嫌そうなツラする権利はねーぞ! 全部 自業自得で、身から出たサビ。悪いのは瞬じゃなく、あの にーちゃんでもなく、これまで チャンスは腐るほどあったのに、いつまでも余裕ぶっこいて悠長に構えてた おまえ自身なんだからな!」
公爵を避けているのか、氷河を避けているのか、瞬は昨夜から自室にこもって部屋から出てこない。
アテナの帰国まで、あと2日。
許されることなら星矢は、『アテナの聖闘士の大ピンチだから、すぐに帰ってきてくれ』と沙織に連絡を入れ、彼女に 一刻も早く公爵を 過去なり未来なり どこか遠い世界に追い払ってもらいたかった。
いっそ公爵が世界の破滅を企んでいる強大な力を持つ邪神だったなら、心置きなく そうすることができるのにと、星矢は そんなことをさえ考えていたのである。

図らずも自分以外の男が瞬を抱きしめている場面に遭遇してしまった氷河は、そのまま何も言わずに踵を返し 邸内に戻ってしまった。
『なぜ、あそこで善良な一般人にダイヤモンド・ダストをかますくらいの暴挙に及ばなかったのか』と、星矢は氷河を責めたかった。
『それくらい馬鹿なことをしてしまえば、瞬も おまえの気持ちに気付き、おまえも暴挙の言い訳ができて、瞬に告白せざるを得ない事態に自分を追い込むことができたのに』と。
だというのに、まるで自分の方が部外者の邪魔者であるかのように その場を立ち去るなど 愚かの極み。
そんな場面で らしくもない礼儀正しさを発揮してしまう氷河の気持ちが、星矢には まるでわからなかった。

「とにかく、さっさと瞬を ものにしちまえ。急ぐんだ。瞬があいつに ほだされちまう前に!」
ラウンジの窓から、昨日 瞬と公爵がいた場所を不機嫌そうな顔で睨んでいる氷河の背中に向かって、星矢は、怒声という名の忠告を投げつけた。
しかし、氷河は、黙り込んだまま、いかなる行動を起こそうともしない。
「おい、氷河! 聞いてんのかっ」
焦れた星矢に再度 大声を叩きつけられて、氷河はやっと いきり立つ仲間の方を振り返った。
不機嫌なことが かろうじてわかる無表情な顔を星矢に見せ、そのまま仲間たちの前を横切って、氷河が部屋を出て行く。
せめて 仲間の お節介を鬱陶しがる素振りくらい見せてほしいと、星矢は思ったのである。
諦めることを知らないアテナの聖闘士、その上 どちらかといえば直情径行の気味のある氷河が、自分の恋が危機に瀕しているというのに、この無反応、無表情、無感動の無為無策は どうしたことなのか。
氷河の姿が消えた部屋の中で、星矢は思わず紫龍に尋ねてしまったのだった。
「氷河の奴は、あんなに諦めのいい――いや、意気地のない男だったか?」
――と。

“暴虎馮河”が“暴虎氷河”でも あながち間違いとはいえない氷河の言動を 嫌になるほど知っている紫龍に、それは大変な愚問で、かつ難問でもあったろう。
その愚問にして難問でもある問題に、紫龍は答えを返してこなかった。
答えの代わりに彼が返したものは、質問者である星矢より更に深刻な顔と、更なる難問だった。
「夕べ、自分の部屋に閉じこもっていた瞬が、一度だけ部屋を出たんだ」
「そりゃ……瞬でも晩飯抜きは つらいよな」
「阿呆。瞬は一日二日の絶食くらい平気の平左だ。そうではなく、自分の部屋を出て、瞬は氷河の部屋に行ったんだ」
「えっ」
「それで、氷河の部屋のドアをノックして、顔を覗かせた氷河に――」
「氷河じゃなく、瞬の方が先に行動を起こしたのかよ!」
「だから、勝手な推測で先走るなというのに」

行動を起こすのは、氷河ではなく瞬でもいい。
とにかく、このゆゆしき事態が解決しさえすれば。
そう考えて瞳を輝かせ身を乗り出した星矢を、紫龍が溜め息を一つ洩らして たしなめる。
そうしてから、彼は渋い顔で話の先を続けた。
「何か用かと氷河に尋ねられた瞬は、物言いたげな顔を氷河に向け――」
「うんうん、それで」
「氷河に何か言おうとしたんだが、結局 顔を伏せて――」
「まあ、その手のことは、明るく元気な声で はきはき言うようなことでもないよな。瞬は、どっちかってーと控えめな性格だし。むしろ、そこは氷河が――」
「瞬が言い淀んでいるうちに、用がないなら呼ぶなと言って、氷河は部屋のドアを閉めてしまった」
「へ」

期待していたものとは全く違う展開――違いすぎるにも程があると腹を立てたくなるほどに違う展開。
星矢はもちろん、すぐに 期待を裏切ってくれた仲間たちへの怒りを表明しようとしたのである。
これは、バトルを期待して観たバトルアニメに戦闘シーンがなかったようなもの、恋愛を期待して観たロマンス映画に恋がなかったようなもの、難解なトリックを期待して読んだ本格推理小説にトリックがなかったようなもの。
企画制作会社・配給元・出版社に『金を返せ』と怒鳴り込んでいくレベルの肩すかしである。
星矢が怒りにまかせて『期待を裏切られたことによって、俺の心が負った傷の治療費と慰謝料を請求する』と言い出さなかったのは、その訴えを誰に対して起こせばいいのかが わからなかったから。
そして、ある一つの推測が星矢の中に生まれてきたからだった。

「あのさ。出来の悪いメロドラマの筋書みたいな勘繰りを言っていいか?」
「おまえがメロドラマの筋書なんてものを知っているとは、意外だな」
「茶化すなよ」
星矢が、彼にしては真面目な顔で、紫龍の茶々を退ける。
そうしてから、星矢は、彼が思いついてしまった一つの推測―― 一つの仮説を、紫龍に語り始めた。

「瞬は、氷河が いつも自分を見てることに気付いてたんじゃないか? いつか氷河が その訳を打ち明けてくれると思っていた。けど、そこに突然 部外者が割り込んできた。その部外者は 同情すべき立場にある受難の人で、あれこれ気遣ってやってるうちに 好きだって告白されて――んで、ここが肝心なとこだけど、実は瞬も あのにーちゃんに対して、同情だけじゃ済まない気持ちになってる。気持ちが公爵の方に傾き始めている。だから、瞬は、公爵に迫られたことを氷河に知らせて、氷河に何か言ってもらおうとした」
「だが、こんなことになっても、氷河は一向に煮え切らない――」

自分の仮説に紫龍が異議を唱えることをせず、むしろ応じてきたことで、星矢は それが どうしようもなく的を外れた荒唐無稽な想像ではないことに確信を抱くことになったのである。
だとしたら、やはり ここは氷河と瞬の仲間たちが苛立っていい場面なのだ。
「なんで、氷河は何も言わないんだよ! 瞬が好きで、瞬が必要だって! 瞬は、目の前に 困ってる奴や苦しんでる奴がいたら、手を差しのべてやらずにはいられない性分で、今は公爵を助けたい救いたいって気持ちでいっぱいで、超危ない状態にあるんだ。でも、氷河が瞬に、おまえがいないと困るとか苦しいとか、そういうこと言ってやれば、瞬はすぐに氷河救援のための行動を起こすことができるようになる。瞬だって、ほんとはそうなるのを期待してるんだろ。なのに氷河は、なに手をこまねいて、あのにーちゃんの やりたい放題を許してるんだよ!」

瞬は、公爵に どこかで会ったことがあるような気がすると言っていた。
そんな あり得ないことを瞬が公爵に対して感じているということは、瞬が公爵に心を動かされているということで、瞬の心が(もしかしたら氷河より)公爵の方に傾きつつあるということでもある――のかもしれない。
氷河に止めてほしいと すがろうとするほどに、瞬の心は公爵に傾いてしまっているのだ――。

星矢と紫龍は――瞬と氷河の仲間たちは――この恋の当事者ではなく第三者である。
傍観者でいることしかできない。
当然のことながら、この恋に どんな手出しも口出しもできない立場にある。
それはわかっているのだが――わかっているからこそ、彼等は この事態が もどかしく、焦れったく、腹立たしくてならなかった。






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