「僕は……氷河がいつも僕を見ていることを知っていた。僕も氷河を好きなんだと思っていたのに」
緑は緑のまま。
空も風も、何も変わることはない。
そう思っていたのに、時間は 着実に未来に向かって進んでいた。
その日、そんなことを、瞬が氷河の背中に向かって告げたのは、もう二度と会うことができない人との別れの場にも立ち会わなかった氷河が、その緑色の場所に佇んでいることに気付いたからだった。
そして、この世界から公爵の存在が消えて一ヶ月が経った今、自分は永遠に公爵を忘れることはないと確信するようになったから。
氷河と、永遠に仲間同士という関係でいるためだった。

すべてを過去形で告げる。
氷河がゆっくりと後ろを振り返ってくる。
緑の中に立つ瞬の姿を認めると、彼は、ひどく懐かしいものを見るような目を瞬に向けてきた。
どこかで出会ったことのある。不思議な青い瞳。
その不思議な瞳に瞬の姿を映したまま、氷河は、彼の瞳よりも不思議な言葉を口にした。
「もう一度会えると――必ず会うと、私は希望を抱いて死ぬ。奇跡がもう一度 起こらないはずがない」
「な……」
自分は今、何を聞いたのか。
誰の言葉を聞いたのか。
瞬は一瞬 絶句した――本当に、言葉と声を失った。

それは、元の世界に戻る時、冷静でいようとして そうすることができず 子供のように泣き出した瞬を落ち着かせるために、公爵が瞬の耳許で囁いた言葉だった。
瞬には、叶うことのない夢としか思えなかった その言葉。
氷河が知っているはずのない、公爵の夢物語。
なぜ その言葉を氷河が知っているのか。
瞬が尋ねる前に、答えは返ってきた。
氷河の唇から。

「瞬。私だ」
「氷河……公爵……?」
この人は誰なのか。
今 自分の目の前にいる、氷河の姿をした人は。
瞳を見開き、確かに それが公爵でないことを確かめる。
しかし、それは やはり公爵だった。
そして、氷河でもあった――氷河でもあるらしい。

「この庭での姿を見た時、の息は止まりそうになった。夢だったのではないか、病的な妄想なのではないか、前世の記憶を持って人が生まれ変わることなど あるはずがないと、俺はずっと自分に言い聞かせ続けていたから。どこからどこまで夢で、どこからどこまでが現実なのか わからない状態で、俺は俺の命を生き続けていたから。まだ幼くて小さい おまえに出会った時も 半信半疑だった。だが、私は現れた。この世界に、本当に」
「公爵……なの?」
瞬が恐る恐る尋ねると、彼は、
「私は氷河でもある」
と、公爵の口調で答えてきた。
公爵の口調で、だが 日本語で。

「俺は、俺として――氷河として、おまえに恋をしていた。おまえが俺以外の男に惹かれていく様を見ているのはつらくて、苦しくて――だが、俺には 私としての記憶が残っていた」
「あ……」
「時間も距離も、君から はるか遠くに離れたところで、だが、思いだけは 君の許に飛んでいく。いっそピョートルに処刑されてしまえば、私の苦しみも長引くことはなかったのに、私は処刑を免れてしまった。君と別れてから15年以上の時間を生き続け、君と同じ時代に生まれなかったことを呪い、苦しみながら、君を愛し求めることをやめられず――レフの身体が滅びてからは、本当にもう一度 君に出会えるのかと、新たな肉体に生まれ変わるたびに不安に苛まれ――」
「新たな肉体?」
では、公爵は これまでに幾度も転生を繰り返し、その結果として 今ここにいるのだろうか。
そんなことがあり得るのか――。

「君を求める私の意思の力は、恐ろしく強く激しくてね。そういう魂は死の国に入ることができないらしい。自分が もう一度 君に会うという願いを実現させない限り 死ぬことのできない魂になってしまったのだということに、私は やがて気付いた。300年……二度と君に巡り会うことはできないのではないかと、幾度諦めそうになったことか」
「公爵……」
ならば、この人は 本当にレフ・ヴィノグラードフ公爵なのか。
「時が、少しずつ 君に出会った時代に近付いていく。ある日 私は自分の顔に奇異を感じて――幼い私の顔を、どこかで見たことのある顔だと思った。すぐに思い出したよ。これは、瞬の側で いつも瞬を見詰めていた男の顔だと。俺は、その時、すべてを理解した」
「氷河……」
そして、本当に氷河なのか。

「やがて、君に出会い、私の二度目の恋が始まった。俺として生き、俺として君に惹かれ、君に恋していく自分に、私の魂がどれほど震えたか」
「ど……どうして 言ってくれなかったの。どうして、公爵だと、僕に教えてくれなかったの……!」
「教える? 私に出会う前のおまえに? 俺はこれからおまえが恋をすることになる男の生まれ変わりだと? そんなことを言ったら、俺は狂人扱いされて、おまえの側にいられなくなるかもしれない。おかしなことを言う奴だと、おまえに疎まれてしまうかもしれない。言えるわけがないだろう」
馬鹿なことを訊いてしまったと恥じ入って、瞬は思わず瞼を伏せてしまった。
氷河の言う通りである。
公爵に出会う前に そんなことを言われていたら、狂人とまでは思わないにしても、氷河は何か悪い夢を見たのだろうと思い、自分は氷河の話を真面目に取りあわなかったに違いない。

だから、氷河は何も言わなかったのだ。
ただ黙って“瞬”を見詰めているだけで。
『なぜ言ってくれないんだろう。たった一言。たった一言でいいのに』
氷河の視線を感じながら、彼の煮え切らなさに焦れて気を揉んでいた以前の自分を、叶うことなら、瞬は叱りつけてやりたかった。
氷河を苦しめながら、何も知らずに、何を のほほんと、自分は日々を過ごしていたのか――。
今更 悔やんでもどうしようもないことを、だが瞬は悔やまずにはいられなかった。

「俺は――氷河は おまえを好きだった。レフにおまえを奪われたくなかった。触れさせたくもなかった。だが、氷河は、レフがおまえを求め続けた300年を知っていた。その長い懊悩を思うと、俺はどうしてもレフの恋を妨げられなかった。おまえに愛し愛された一日のために、これから300年を耐えることになるレフから おまえを奪うことは、俺には どうしてもできなかったんだ」
“彼”は、今は氷河としての意識の方が強いらしい。
今 氷河の中に残っているのは、レフ・ヴィノグラードフ公爵の自我というより、彼がレフ・ヴィノグラードフだった頃、不思議な経験をし、そこで出会った人に永遠に忘れられない恋をしたという記憶だけなのかもしれなかった。

「300年――もう一度 僕に出会う時を待ち続けてくれていたの……」
それは 一人の人間の魂にとって、どれほど長い時間だったのだろう。
一人の人間が叶わないかもしれない夢のために待ち続ける時間としては、長すぎるほどに長い時間。
その長い時間を、公爵は――この人は耐えてくれたのだ。
たった一人の、我儘で未熟な 取るに足りない人間のために。
目の奥と喉が熱い。
涙を零してしまわないために、瞬は唇を噛みしめ、瞬きを耐えた。

「俺は、俺として おまえが好きだ。だが、私として君を愛してもいる」
「僕……僕も氷河が好きだったよ。でも、なぜだか――公爵には、氷河に似たところなんて何ひとつなかったのに、どうしても公爵に心が傾いていくのを止められなかった。本当に、なぜなのか わからなかった。でも、なぜだか、どうしても――」
今ならわかる。
どこかで出会ったことのある瞳。
公爵の瞳を見て そう思う時、自分は、別の場所にあるもう二つの その瞳に見詰められていたのだ。
「どうして気付かなかったんだろう……。こんなに そっくりなのに……」

氷河の瞳にそっくりな公爵の瞳。
では自分は、氷河と公爵の どちらに先に恋をしたのか。
公爵に恋したことは 氷河への裏切りで、今 氷河を好きだと思うことは公爵への裏切りではないのか――。
瞬の中に迷いが生まれかけていた。
その迷いを、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間は すぐに察知する。
「余計なことを考えるな。今 ここで おまえに拒まれたら、私が耐え待ち続けた300年は徒労になり、俺は初恋に破れることになる。二重に失恋なんて、今度こそ俺は耐えられない」
「あ……」
氷河は わざと おどけたように言う。
だが、今 彼が必死でいることは、その瞳を見ればわかる。
彼は今、すべてを手に入れるか、すべてを失うか、運命の瞬間に立ち会っているのだ。
自分の誠直など どうでもいいことなのだと、瞬は思った。
“瞬”は、“彼”の心に報い、“彼”を幸福にしなければならないのだ。

「僕は、氷河も公爵も好きなの。それでもいいの……?」
「それは一つの魂でできている者たちだ」
瞬の素直に安堵したように そう言って、氷河が瞬を抱きしめてくる。
その胸の中で、瞬は目を閉じたのである。
公爵の瞳は 氷河のそれに似ていたが、氷河の胸の温かさは 公爵のそれと同じだった。






Fin.






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