長い髪の女が一人、俺の前で頭を抱えていた。 もちろん、本当に両手で頭を抱え込んでいるわけじゃない。 人差し指と中指を額に当てて、わざとらしく“困った人間”のポーズをとっているだけだ。 軽く30回は溜め息をついたあとの人間のそれのような表情。 女は やたらと大仰な装飾が施され、妙に高さのある背もたれつきの椅子に腰かけ、一段 高いところから俺を見おろしていた。 結構な美人だ。 むしろ、美少女というべきか。 しかし、中年女の貫禄がある。 一目で ただ者じゃないことがわかる女だった。 それでいったら、そもそも 今 俺がいる場所自体が普通の場所じゃなかった。 『おまえは、場所というものを 何をもって普通か普通でないのかの判断を為すのか』と問われると、俺も答えに窮するんだが、とにかく、そこは俺の感覚で非日常的に感じられる空間だった。 太い大理石の柱が等間隔に並んでいる、だだっ広い空間。 壁も床も大理石。 彼女が腰掛けている玉座――玉座だろう――は、その広間の最奥、俺が立っている場所より50センチほど高いところにある。 彼女と俺の間にある距離は、5、6メートル。 正面から対峙している俺と彼女の両脇には、俺と彼女以外の人影があった。 左右それぞれに二人ずつ。 俺から見て左手(彼女から見て右手)には、むやみに長い髪の男と、落ち着きのなさそうなガキ。 俺から見て右手(彼女から見て左手)には、金髪の男と、淡い色の髪をした女の子が一人。 女の子は、すこぶるつきの美少女。 あとの男共は――まあ、男のツラなんてどうでもいいか。 いずれにしても、俺の知らない奴等だ。 その場所を、俺は ギリシャの古典劇のセットのようだと思った。 そして、俺は、自分が なぜこんなところにいるのかを知らなかった。 「おまえは誰だ」 とりあえず、この場の責任者らしい玉座の女に俺は訊いた。 溜め息をつき飽きた人間が開き直ったような口調で、女が答えてくる。 「聞いて驚いてちょうだい。私は、知恵と戦いの女神アテナ」 その答えを聞いた俺は、驚く代わりに、 「狂人か」 と応じた。 当然だろう。 他にどんな可能性があるというんだ。 自分を神だと名乗る人間に。 「面と向かって よく言えること。私は正気です」 「狂人は、皆、そう言うものだろう」 「少なくとも、あなたよりはマトモよ。私は、自分が何者なのかを知っているわ」 「どういう意味だ」 「私は、少なくとも自分が昨日の夕食に何を食べたのかを憶えていると言っているの」 「……」 そんなことが、一人の人間が正気であることの根拠になるか。 俺は、そう反論しようとした。 だが、俺には そうすることができなかった。 真面目に狂人の相手などしていられないと思ったからじゃない。 そうではなく――俺が それを憶えていないことに気付いたから。 夕飯どころか、昼に何を食ったのか 朝に何を食ったのかも、俺は憶えていなかった。 ここはどこで、今はいつなのかも。 そもそも俺はいったい何者なんだ。 その答えを、俺は この女に求めるしかないんだろうか。 自分を神だと信じているらしい誇大妄想狂に そんなことを訊いて、まともな答えが得られるものだろうか。 あまり期待は持てないような気がする。 それでも 参考意見として 聞くだけ聞いてみるかと俺は考え、だが、考えたことを実行に移すことはしなかった。 そうする必要がなくなったんだ。 俺がその質問を口にする前に、俺がその質問を口にするだろうと察したらしい自称女神が、 「あなたの名は一輝。フェニックス一輝」 と、俺に名前を与えてくれたから。 とはいえ、与えられた名前に俺が得心したかというと、決してそんなことにはならなかった。 『一輝』はいいとして、『フェニックス』というのは何なんだ。 昨日の夕飯に何を食ったのかも憶えていないが、俺は俺が日本男児であることは憶えていた。 日本男児としての誇りと気概があった。 日本語での名前以外の名前など持つ いわれもないし、欲しいとも思わない。 「フェニックス? 何だ、それは。まさか あだ名ではないだろうな」 他に考えられるとしたら、洗礼名、芸名、筆名――そんなところか。 いずれにしても、それは俺が自ら名乗った名前ではないだろう。 この俺が ちゃんとした日本語があるものを わざわざ横文字にして、しかも自分の名として名乗るはずがない。 フェニックスは不死鳥、ライオンは獅子、パンダは大熊猫、ゴリラは大猩猩だ。 もしフェニックスというのが俺の異名なのであれば、それは俺以外の何者かによって一方的に与えられた名のはず。 その件に関して、俺には絶対の自信があった。 そんな俺に、自称 知恵と戦いの女神が とんでもないことを言ってくれた。 それが とんでもなくなかったら、何がとんでもないというんだろう。 『フェニックスとは俺の あだ名か』と問うた俺に、自称女神は、平然と、 「源氏名よ」 と答えてくれたんだ。 それは笑えない冗談なのか、それとも 笑ってもらえると思って言った冗談なのか。 この女は やはり ただの狂人――いや、性悪な狂人なのか。 俺は、思い切り顔を引きつらせた。 もちろん俺は、“源氏名”というものが、本来は 宮中の女官や武家の女中が 源氏物語54帖にちなんで名乗った名前だということは知っている。 偉いお姫様やお殿様に仕える女の名が おヨネや おカメじゃ恰好がつかないからな。 ヨネの代わりに藤壷、カメの代わりに若紫と、雅な名を名乗ったわけだ。 しかし、現代では それは風俗や水商売に従事するホスト、ホステスが本名の代わりに用いる名を指すものだろう。 俺は、職業に貴賤はないと思う。 だが、この俺がそんな仕事に就いていたはずがない。 俺が自分を日本男児であると断言できるのと同じくらい 強い確信をもって、俺は そう言い切れる。 これは決して職業蔑視ではなく、単に向き不向きの問題だ。 「もちろん、冗談だろうな」 自分でも不機嫌を極めていると自覚できるほど不機嫌な声で、俺は自称女神に確認を入れた。 自称女神が しれっとした顔で、 「もちろん、冗談よ」 と答え、答えたそばから、またしても訳のわからないことを言い始める。 「本当は、あなたはアテナの聖闘士。地上の平和と安寧を守るために戦う希望の闘士だわ」 「狂人か、やはり」 「あら。ナンバーワン ホストだったと言ってほしかった?」 「まだ言うか! 冗談も大概にしろ。セイントとやらの方がましだ」 「でしょう。だから、あなたはアテナの聖闘士だったのよ」 どういう理屈だ、それは。 俺は、自分が夕べ何を食ったか思い出せなかったばっかりに、アテナの聖闘士・フェニックス一輝とかいう、訳のわからないものにされてしまうのか? 狂人でないのなら、少しは真面目になってほしい。 俺は心底から そう思い、ふざけた態度を改めるよう、自称女神に要求しようとした。 だが、彼女の中では、俺がアテナの聖闘士・フェニックス一輝だということは既に覆し難い決定事項であるらしく――自称 知恵と戦いの女神は ふざけた態度も 笑えない冗談も撤回する気はないらしく――俺が夕べ何を食ったのかを憶えていない経緯の説明を、彼女は勝手に始めてしまった。 |