「忘れな草の話をしてくれるって、氷河、そう言ったのに……」 ドナウ川の岸辺に咲く忘れな草は、仮にも聖闘士の称号を与えられるほどの男が 足元の注意を怠って 川に落ちてしまうほど 美しかったのだろうか。 星矢、紫龍と共にシュヴァルツヴァルトに向かった氷河が、仲間たちと共に聖域に帰還しない―――帰還できない事態が生じた経緯を聞かされて、瞬は呆然とすることになった。 忘れな草が 我が身に その名を冠することになった土地に咲く花の美しさを確かめ報告する。 そう言って、氷河は、星矢、紫龍と共に北に向かって旅立っていった。 どんな些細な約束も、氷河はこれまで ただの一度も違えたことはなかったし、その上 気心の知れた仲間たちが一緒。 瞬は、その胸に一片の不安も抱かずに 笑って、氷河を忘れな草の故郷に送り出したのだ。 だというのに――。 「多分、あれはハーデスが直接 関係してるんじゃなく、前聖戦時のハーデスの力の残滓だったんだろうと思う。でも とにかく、古い城址を中心にして ハーデスの結界みたいなものが辺り一帯を覆ってて、その中では、俺たち、ろくに小宇宙を燃やせなかったんだ」 ドナウ川の源流近くにある険しい山の中腹。 濃い緑の木々に隠れ埋もれるような古い城の址。 そこに現れたタナトス、ヒュプノス 二柱の神は実体ではなかった。 それゆえ、星矢たちは、彼等を封じたアテナの封印は まだ完全には破られていないと判断したのだそうだった。 おそらく封印の札が 剥がれかけているか 破れかけて、彼等を封じる力が弱まっているだけなのだと。 アテナから預けられた新たな封印の札で 彼等を封じた小箱を固く閉じれば、彼等は その姿を外界に映し出すこともできなくなり、再び長い眠りの中に戻っていくしかなくなるだろう。 そのためには、まず二柱の神の意識を封印の小箱のある城址から遠ざけなければならない。 そう考えたアテナの聖闘士たちは、二柱の神々を引きつける囮の役を氷河と紫龍が担い、その隙に封印の箱を探し出し新たな封印を施す役を星矢が行なうことにした。 「その計画は図に当たったんだ。幽体の奴等は、小宇宙を燃やした俺と氷河を追って城址を離れ、渓谷の方に向かった俺たちに攻撃を仕掛けてきた。奴等は、半分封印されているとは思えないほど強くて――俺たちは相当の打撃を受けてしまったんだが……。しかし、俺たちの目的は奴等を倒すことではなく、奴等を封じることだったからな。星矢がその目的を果たすまでの時間稼ぎができればいいと思っていた。それまで何とか死なずにいればいいと――俺も氷河も、そういう認識でいたのが、多分まずかった。あの二柱の神は、俺たちが敵と戦う時 いつもそうしているように、命をかけて倒すくらいの気持ちで かからなければならない強敵だったのに――」 アテナの聖闘士にあるまじき油断、アテナの聖闘士にあるまじき後悔。 告解する紫龍の声は苦渋に満ちていた。 「氷河は、敵と対峙していたのに、忘れな草が咲いているとか、およそどうでもいいことを口にしていた。多分、ちょうど その時が 星矢が封印の小箱を見付けて、古い札を剥がし、新しい札を貼ろうとした時だったんだ。二柱の神の悪足掻きの最後の攻撃が 氷河に向けられて――。あの時、氷河は この事態が信じられないというような顔をした。そして、足元の花を見て、渓谷の底に落ちていった。氷河ほどではなかったが、その時 俺も自力で立ち上がれないほどのダメージを受けていて……すまん。駆けつけた星矢に谷の底を捜してもらったんだが、氷河はどうやらドナウ源流の急流に呑まれてしまったらしく、見付けることはできなかった」 「氷河……川に落ちたの……」 彼があれほど、思い遣りに欠けるドジと馬鹿にしていた騎士と同じように――。 抑揚のない声で呟いた瞬に、紫龍は その事実を告げるべきか否かを迷ったのだろう。 やがて これは言わずにおけることではないと判断し、彼は、瞳から輝きが消えかけている瞬に 氷河の最期の言葉を知らせてきた。 「氷河は、渓谷に落ちる直前、多分、『俺を忘れろと、瞬に』と言ったと思う」 同じ戦場で、すぐ側にいたというのに仲間を守り切れなかったことは、紫龍にとっては悔やんでも悔やみ切れない痛恨事だったのだろう。 瞬に 氷河の最期の言葉を伝える紫龍の目は、彼自身が仲間を手にかけたわけでもないのに、悲痛や無力感より 罪悪感にこそ傷付いている者のそれだった。 なぜ氷河を守ってくれなかったのだと、もし瞬が叫んでいたら、それこそ紫龍は自分の命をもって詫びようとするのではないかと思えるほど。 瞬は、もちろん紫龍を責めるようなことはしなかった。 仲間を守り切れなかったのは瞬とて同じ。 アテナに強く願えば、おそらくアテナは瞬の願いを聞き届け、アンドロメダ座の聖闘士が その任務に参加することを許してくれていたはずだった。 だが、瞬は、そうしなかったのだ。 氷河に、忘れな草の話をしてもらいたかったから――。 「氷河がそう言ったの……」 かすれた声で、何とかそれだけを言う。 頷くことすら苦痛であるかのように、紫龍は頷いた。 「ああ。何か……自分が死ぬという時に、氷河は笑っていたような気がする。俺にはそう見えた」 「それは……氷河は多分、自分が『忘れろ』って言えたことを喜んでいたんだと思う。得意がっていたのかな」 氷河は その時 おそらく、思い遣りに欠けるドジな騎士とは違って、あとに残される人のために そう言うことのできた自分を得意がり、悦に入っていた。 まるで、初めて『あいうえお』が書けた子供のように。 氷河の子供じみた振舞いを、瞬は笑おうとしたのである。 懸命に。 「氷河の身体はドナウ川を流れていった。亡骸は収容できなかった――収容したわけではない」 瞬に希望を持たせるべきか、それとも希望を持たせることは かえって酷なことなのか――。 その判断を迷っているかのように、紫龍が事実だけを瞬に語る。 「ずるい。『忘れろ』なんて、そんなこと言われたら、僕、かえって忘れられないじゃない」 瞬は笑うことには成功したのだが、同時に、その瞳からは 流すつもりのない涙の雫が ぽろぽろと零れ落ちることになった。 星矢と紫龍が二人だけで帰還したのは、氷河の行方を捜せるだけ捜した上でのことだろう。 でなければ、彼等が二人だけで帰ってくるはずがない。 彼等が氷河を捜し出せなかったのなら、その時 既に氷河の小宇宙は完全に消えてしまっていたのだ。 それは つまり、氷河の生存は絶望的――ということだった。 瞬は、思い切り 泣き叫びたかったのである。 でなければ、狂ってしまいたかった。 真夏の晴れた空よりも青く、忘れな草の花の色よりも青い あの瞳に映るアンドロメダ座の聖闘士の幸福な姿を、もう二度と自分は見ることができない。 そんなことがあり得るだろうか。 そんなことがあっていいのだろうか――。 泣き叫びたいのに、泣き叫ぶことができない――生き残ってしまった仲間たちのために。 狂ってしまいたいのに、狂うこともできない――狂気に心身を委ねるには あまりに健全すぎる精神を備えているせいで。 強く強靭な肉体と 強く健全な精神を併せ持つアンドロメダ座の聖闘士は、結局 現実を受け入れるしかなかった。 「瞬……大丈夫か」 気遣わしげな目をして、星矢が瞬に尋ねてくる。 こんな詰まらないことしか訊けない自分が情けなく焦れったい。 星矢は、そんな自分に憤っているようだった。 「……今はまだ、あんまり大丈夫じゃないけど、絶望して世を儚んだりはしないよ。僕はアテナの聖闘士だ。僕には 果たさなきゃならない使命がある」 自分の手で涙を拭って、瞬は心配顔の仲間に答えたのである。 『訊かなくてもわかっている。おまえは俺に、自分のことは忘れろと言う』 氷河はそう言っていた。確信をもって。 あとに残される恋人のために『忘れろ』と言えた自分に悦に入っていた氷河の 得意の鼻を へし折るわけにはいかない。 『ほら。俺の言った通りだろう』 氷河に得意げにそう言わせてやるために、拭っても すぐにまた あふれてくる涙を更に拭いながら、瞬はそう言うしかなかったのである。 「きっと大丈夫。僕はアテナの聖闘士だから」 と。 |