もちろん、神と対峙することは生まれて初めての経験で、大いに畏れ緊張してもいたのだが、瞬の畏れと緊張は、女神アテナへの氷河の報告を聞いているうちに、いつのまにか 霧散してしまった。 すなわち――瞬の畏れと緊張は、氷河は任務を遂行できなかったことの罰を受けることになるのだろうかという懸念に 取って代わられてしまったのである。 瞬の懸念は杞憂にすぎなかったが。 偉大な知恵と戦いの女神は、いたずらの言い訳をしている子供のような氷河の報告を聞き終えると、我が子の いたずらの言い訳を聞き終えた母親のような口調で、氷河に尋ねることをした。 「事情はわかりました。もちろん、私と聖域は、瞬を歓迎し庇護するわ。でも、氷河。あなた、何かヘマをやらかしたの? 任務を遂行したにしては、微妙な顔をしているようだけど」 「なに?」 「まあ、そんなことはどうでもいいわ。瞬」 アテナは随分とせっかちな質の女神のようだった。 彼女の言葉のせいで、ますます微妙な顔になった氷河を無視し、アテナが瞬の方に向き直る。 「あなたは、ハーデスが冥府の王――神の1柱だということは知っていたの?」 美しい少女の姿をした女神アテナ。 彼女が その姿の通りのものであるはずがないのに、瞬を見詰め見おろす彼女の瞳は、好奇心でいっぱいの人間の少女のように輝いていた。 「あ……いえ……」 アテナの下問に、瞬は首を横に振ることで答えた。 その事実を瞬は知らずにいた。 もちろん、瞬はハーデスを普通の人間ではないと思ってはいたのである。 冥府の王が『ハーデス』という名であることも知っていた。 しかし、瞬は、この聖域にやってきて、人間である氷河と親しげに言葉を交わす女神の姿を見るまでは、神である死の国の王が 地上世界で力を振るうことがあるなどとは考えたこともなかったのだ。 だから瞬は、シェオルの国の王と死者の国の王を一つに結びつけて考えたことがなかったのである。 これまで、ただの一度も。 だが、地上に立つ女神アテナの前で、瞬は今、あのハーデスが 冥府の王であり神でもあるハーデスであったことを知った。 その事実を知らされた瞬の胸中に、一つの疑念が生まれてくる。 それは、神ならば――“地上で最も清らかな魂の持ち主”でない者を“地上で最も清らかな魂の持ち主”だと誤認することはないのではないだろうかという疑念。 本当に 自分が“地上で最も清らかな魂の持ち主”なのだろうか?――という疑念だった。 瞬には、それは やはりどうしても到底 信じられないことだったのだが。 「ハーデスは、“地上で最も清らかな魂の持ち主”の身体を自分の魂の器にして、この地上世界を支配しようとするの。彼のやり方はいつもそうなのよ」 「“地上で最も清らかな魂の持ち主”の身体を自分の魂の器にして? だからハーデスは、僕を 自分の後継者だと言っていたの?」 「ええ。でも、もう大丈夫。あなたが私の許に庇護されることになれば、ハーデスも おいそれとは あなたの身体を乗っ取ることはできないわ。私が それを阻むから」 アテナがそんなことを言って、ただの新参者の心を安んじさせようとするのは、やはり自分が“地上で最も清らかな魂の持ち主”だからなのか。 ここで彼女に そうなのかと尋ねたら、彼女は 今更そんなことを尋ねるなんてと、目を剥き呆れるのだろうか。 もしそうなら、そんな馬鹿な質問を口にしたくはない――。 迷い ためらう瞬の代わりに、その馬鹿な質問をアテナに投げかけてくれたのは氷河だった。 「ア……アテナ。まさかとは思うが、瞬が“地上で最も清らかな魂の持ち主”なのか?」 「まさかとは思うがって、氷河……」 アテナが驚き呆れたような顔を氷河に向けるのを見て、瞬は、(氷河には悪いが)やはり自分で尋ねずにいたよかったと思ったのである。 「その、まさかよ。あなたは“地上で最も清らかな魂の持ち主”を私の許に連れてきてくれた。まさかとは思うけど、あなた、気付いていなかったの? 知らずに、瞬を聖域に連れてきたの? それで、あなた、さっきから変な顔を――」 “地上で最も清らかな魂の持ち主”を聖域に保護するという重大な任務を、自分が見事に果たしたことを自覚せず、それゆえ 氷河が終始 気まずげな顔をしていたことを知ったアテナが、氷河の迂闊に耐えかねたように ぷっと吹き出し、そして けらけらと実に軽快な笑い声を聖なる神殿に響かせる。 だが、氷河には、自分が いつのまにか首尾よく(?)重大な任務を果たしていたという事実も、アテナに盛大に笑われている現状も、大した問題ではなかったらしい。 へたをすると人間より感情表現の豊かな女神に あっけにとられていた瞬を、氷河は険しい声で問い詰めてきた。 「おまえが“地上で最も清らかな魂の持ち主”だったのか? そして、おまえもそれを知っていたのか? そんな大事なことを、おまえは なぜ俺に言わずにいたんだ!」 「そ……そんなこと言ったって……」 そのことを氷河に言わずにいたのは事実であり、もしかしたら それは もっと早くに彼に知らせておくべきことだったのかもしれない――とは思う。 だが、瞬は、自分が そんな大層なものだったことを知らなかったのだ。 そして、実は、アテナの お墨付きをもらった今でも、その事実(?)を信じられずにいた。 「突然、『おまえは地上で最も清らかな魂の持ち主だ』って言われて、それを信じる人が もし いたら、その人はおかしいよ」 「おかしい?」 「おかしいよ。氷河は信じるの? たとえば、氷河が、誰かに『あなたは この地上で最も清らかな魂を持った人間です』って言われたら、氷河はすぐにその言葉を信じる?」 「信じるわけないだろう」 「でしょう? 僕も、もちろん信じなかった。だから言わずにいたの。当然でしょう。『僕は地上で最も清らかな魂の持ち主です』なんて 自信満々で人に言えるほど、僕は おかしな人間じゃない」 それこそ自信満々で、瞬は氷河に言い切った。 そんな瞬に、氷河が 何か物言いたげな素振りを見せる。 だが、瞬は、氷河にものを言わせなかった。 それが事実でも事実でなくても、氷河は隠し事を嫌うタイプの人間であるらしい。 ならば、これまで彼に知らせずにいたこと、二人の間にある すべての誤解と虚妄を、彼に責められる前に解消してしまおうと、瞬は思ったのである。 さすがに、その事実を氷河に告白する瞬の語調は、少々 勢いを欠いたものになったが。 「あの……それでね。あの時……氷河を城から脱出させようとした時、僕が冥府に続く死の川に身を投げようとしたのは、氷河の“振り”が つらかったからじゃなく、ハーデスが僕を彼の野望に利用しようとしていることに気付いて、その事態を避けたかったからだったの」 「なに?」 「僕がいなくなれば、ハーデスの野望は叶わず、世界の平和は守られる。少なくとも、一人の独裁者に世界が支配されることはなくなる。僕一人が消えることで、みんなの自由が守られるんだ。――生きていたかったよ。僕は本当は生きていたかった。でも、ハーデスの野望を挫くために、僕は ああするしかなかったんだ」 「――」 瞬の告白を受けて、氷河が呆然とする。 それは そうだろう。 瞬が死を選ぼうとした訳を、たった今まで 氷河は 全く違うものだと信じていたのだから。 「まあ。そんなことをしようとしたの? “地上で最も清らかな魂の持ち主”らしい、健気な覚悟だこと」 氷河が呆然とすることになった事情を察したらしいアテナが、氷河に ちらりと一瞥をくれてから、それこそが 瞬が“地上で最も清らかな魂の持ち主”であることの証左だと言わんばかりに、瞬の覚悟に感じ入ってみせる。 彼女は、恋よりも人道を重んじた瞬が 氷河に責められることがないように――瞬のために――、話の方向を ずらそうと考えて、そんなことを言ってくれたようだった。 アテナの粋な心遣いに 瞬は感謝したのだが、残念ながらアテナの気配りは氷河に対して全く功を奏さなかった。 今の氷河には既に、瞬が“地上で最も清らかな魂の持ち主”かどうかなどということは、重大事でも何でもなくなってしまっていたらしい。 氷河は、得意の鼻をへし折られて拗ねた子供のように、瞬を責めてきた。 「おまえは、俺に恋されていないのが つらくて死のうとしたんじゃなかったのか。おまえが 俺を好きだったからじゃ……」 「あ……それは……」 氷河の誤解は確かに誤解だったのだが、完全な誤解というわけでもない。 少なくとも、瞬が守ろうとした“みんな”の中には 氷河も含まれていた。 “みんな”の中に、氷河は かなりの比重をもって存在していた。 その微妙かつ入り組んだ事実を、どう言って氷河に説明すればいいのか――。 いくら時間をかけることになっても、どれほど多くの言葉を尽くすことになっても、瞬は あの時の自分の気持ちを氷河に説明したかった。 そして、その気持ちを、彼に理解してもらいたかった。 だが、今 この場でそれをすることは、瞬には ためらわれたのである。 ここには今、畏れ多くも知恵と戦いの女神がいて、氷河の同輩らしき者たちも何人か立ち会っている。 他人の耳目のあるところで そんなことを説明するのは、それこそ恥をしらない“おかしな人間”の振舞いだと、瞬は思ったのである。 氷河への説明も説得も、瞬はできれば人の目と耳のないところで、氷河と二人きりになって行ないたかった。 何といっても、瞬は、恥というものを知っている“おかしくない人間”だったから。 しかし、どうやら氷河はそうではなかったらしい。 氷河は、その場で――女神アテナとアテナの聖闘士たちのいる場所で――瞬を問い質し続けた。 「おまえは俺を好きな振りをしたのか。ハーデスから逃れるために」 「そんな……あの時は――」 あの時は――氷河が勝手に そう思い込み、瞬には 氷河の誤解を解く時間がなかっただけだった。 瞬には悪意はなかったし、もちろん 氷河に嘘をつくつもりもなかった。 瞬はただ、本当のことを言わなかっただけ――言えなかっただけだったのだ。 たった今、アテナや氷河の仲間たちの目と耳が気になって、流暢に言葉が出てこないように。 言葉に詰まり 顔を伏せてしまった瞬に、アテナが助け舟を出してくる。 「氷河、あなたには瞬を責めることはできないでしょう。さきほどの報告を聞いた限りでは、最初に恋をした振りをして瞬を騙したのはあなたの方だったようだし」 「む……」 アテナの鋭い指摘――むしろ、突っ込み――に、氷河が一瞬 言葉を途切らせる。 これで氷河は 自分の立場と場所柄を顧みて その言動を控えてくれるかと 瞬は期待したのだが、その期待は実に空しいものだった。 氷河は、逆に開き直り、更に勢いづいて、重ねて瞬に迫ってきたのだ。 「あの時は そうだったかもしれないが、おまえは 今は俺を好きでいてくれるんだろう?」 「き……嫌いじゃないと思うけど――」 「なんだ、そのどっちつかずの返事は」 「だ……だって……」 「はっきり言え。おまえは俺を好きなんだろう?」 「氷河……。どうして こんな時に、こんな場所で、そんなこと訊けるの……」 瞬は、思わず泣きたくなってしまったのである。 ここは、その名の通り 聖なる場所ではないのか。 そして、その聖なる場所を統治する女神もまた、人間の日常の営みなど超越した高次の存在なのではないのか。 神に限らず、そもそも他人の目と耳のある場所で、どうして氷河は そんなことを訊いたり言ったりできるのだ――。 瞬は、恥ずかしさのあまり、今にも 瞳から涙があふれ出そうになってしまったのである。 そんな瞬を気の毒そうに見詰め、同情に耐えないと言わんばかりの声音で、アテナが瞬に告げてくる。 「驚かないで。氷河はいつもこうなのよ。時も場所も場合も考えず、自分の都合を最優先させるの。氷河が人目なんか気にするものですか」 「え……?」 「でも、大丈夫。私たちは氷河の奇行には慣れているわ。私たちは気にしていないから、あなたも 私たちのことは気にせず、恋の告白でもラブシーンでも 好きにやってくれていいのよ。氷河はちゃんと任務を果たしてくれたのだし、私には何の文句もないわ。今の氷河には、世界の存亡なんかより あなたの気持ちの方が重大問題のようだし。氷河は、一つの目標を定めたら、常に その目標に向かって脇目もふらず一直線。あなたに氷河のおもりをしてもらえるようになったら、私も聖域の皆も とても助かるわ」 「気にしないでいい――って……」 女神アテナの、それは諦めなのか、それとも開き直りなのか。 いずれにしても、アテナのその言葉によって、氷河の“それほどの馬鹿”が“振り”ではなく、ただの“地”だったことを、瞬は 事ここに至って初めて 知ることになったのである。 同時に、自分が とんでもない人を好きになってしまったことを自覚して、瞬は激しい頭痛と目眩いと不安に襲われた。 Fin.
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