平等と平和






日が長くなったとはいえ、さすがに7時が過ぎると、幾つもの星の模様で飾られた夜のとばりが下りてきて、世界を包む。
いつまでも外で遊んでいたい子供たちも 空腹には勝てなかったらしく、彼等の半分は堂舎の食堂に駆け込み、残りの半分は それぞれの家に帰っていった。
子供たちの遊技場でもあり、グラウンドでもあり、庭でもある その場所に、今はもう子供たちの姿はない。

近くに児童公園はあるのだが、そちらは至れり尽くせりに様々な遊具が置かれていて、思い切り走り回るには少々不都合。
そういう事情も手伝って、都内某区にある養護施設のこの庭は、施設に起居する子供たちだけでなく、付近に住む すべての子供たちの遊び場になっていた。
子供たちには屈託がない。
時折 いさかいが起きることはあったが、彼等はすぐに仲直りをする。
遊び疲れて帰る場所が、家族の待つ家でも、親という存在のない集団生活を営む場所でも、そんなことは子供たちには大した問題ではない。
彼等にとって大事なことは、誰が最も早く走れるか、誰が最も遠くまで跳べるか、誰が最もすばしこいか、誰が最もボールの扱いが上手いか――なのだった。

瞬のいる児童養護施設には現在、肉親の監護が得られない子供たちが20名ほど暮らしている。
先の大戦が終わった時、キリスト者であった日本人司祭が 宗教的道義心から 町にあふれていた浮浪児たちを教会に引き取り 衣食住の世話をしたのが、この施設の そもそもの始まりだったらしい。
戦時中は、敵国の神の家というので迫害を受けたこともあったという。
礼拝堂の入り口にある木彫りの十字架を漆喰で塗り固めて隠していた時期もあるのだと、瞬は聞いていた。
もちろん、戦後 その漆喰は削り取られ、今は そこが神の家であることがわかるようになっている。
自身の益を考えず、慈愛の心で 家や親を失った子供たちの世話をする司祭の姿は 周辺の住人たちの心を打ち、幾度かの法改正時には統合や廃止の話も出たのだが、そのたび近隣住民の陳情や助力によって閉鎖の危機を乗り越え、今でもここは不遇な子供たちの家として存続することができていた。

建物は古いままだが、司祭は幾度か代変わりがあり、現在の司祭は 当時から数えて5代目。
この施設の現在の管理責任者であり理事長ということになっている5代目のスズキ司祭――子供たちは“先生”と呼んでいる――は 極めて優しく善良だが、こういった施設の経営手腕には あまり恵まれているとは言えず、いつも施設運営のための予算確保に汲々としている。
施設の子供たちは余裕のある生活ができているとは 到底言い難かったが、瞬は、この施設での暮らしを さほど つらいものとは感じていなかった。
自身の幼い頃の姿を重ね見ずにはいられない子供たちの世話は 毎日大変だが 楽しく有意義、特別育成費の支給を受け 高校にも行かせてもらえている。
スズキ司祭は何としても瞬を大学に進学させるのだと言って、そのための学費確保を今から算段してくれているようだったが、そこまで望むのは贅沢なことと、瞬は思っていた。

そんなお金があったなら、子供たちの部屋に冷暖房機器を設置したい。
もし大学進学を許してもらえるのなら、今からバイトを増やして、その学費は自分で何とかすべきだろう――。
自室の机に両肘をつき、窓の向こうにある 施設の子供たちの遊技場である庭と、少しずつ星の数が増えていく空を眺めながら、瞬は そんなことを考えていたのである。
だから、ノックどころか入室の許可さえ求めずに瞬の部屋に入ってきた星矢に、
「なあ、瞬。おまえ、HYOGAって知ってるか?」
と尋ねられた瞬は、
「ヒョウガ……氷河? それ、新しいお菓子の名前なの? いくら美味しくても、だからって お小遣い全部 つぎ込んじゃ駄目だよ。星矢は今は、おやつよりも新しいスパイク!」
と答えてしまったのだった。
星矢が わざわざ話題にするのなら、それは食べ物の名前に違いないと決めつけて。

“ヒョウガ”がお菓子の名前だったなら、瞬の決めつけに、星矢は臍を曲げていたかもしれない。
星矢が、複雑な――決して臍を曲げたふうにではなく――溜め息をついたのは、“ヒョウガ”がお菓子の名前ではなかったから――らしかった。
「やっぱ、おまえが知ってるわけないか」
「え? お菓子の名前じゃないの?」
「違う。人の名前」
「人の名前? やだ、僕ったら失礼なことを……。ごめんなさい」
「俺に謝られても困るんだけどさー」
微妙に口許を歪め、星矢が頭をかく。
小さなベッドと勉強机とチェストを置けば、他には着替えのためのスペースが かろうじてあるだけの狭い部屋。
星矢は、瞬のベッドを椅子代わりにして、そこに腰を下ろした。

「その人――氷河さんて有名な人なの?」
「超有名人――らしい。俺も今日 初めて知ったんだけど」
「なんだ、星矢も知らなかったの」
瞬は、星矢のその告白を聞いて、ほっと安堵の息を洩らすことになった。
“氷河”というのは、人の名前としては極めて珍しいものである。
今日 初めてその名を知ったばかりの星矢は、その名を彼に教えてくれた人に、『それ、美味いのか?』ぐらいのことは言ったに違いない。
“氷河”さんに失礼なことをしたのが自分だけでないことが、自分の為した失礼の免罪符になると思ったわけではないが、それは安心の種にはなることだったのである。

「ああ。で、その超有名人の氷河サンとやらが、明日の日曜、ウチのクラブチームのグラウンドに練習見学に来るんだと」
「星矢のクラブの?」
星矢と瞬が通っている高校は、彼等の“家”に最も近いところにある公立高校である。
生徒数の不足もあって、高校にはサッカー部がない。
プロのサッカー選手になって 自分の“家”の宿舎建て直しを直近の夢にしている星矢は、そのため、日本フットボールリーグに所属する地域クラブチームに籍を置いていた。
星矢の運動神経・運動能力は非常に高く、星矢は 今の時点で既にプロの選手として それなりに活躍できるだけの力と才能を十分に備えている――と、瞬は思っていた。

が、いかんせん、サッカーは団体競技。
星矢だけが優れていても、その所属チームが試合に勝てるとは限らない。
小学校でも中学校でも――これまで星矢が所属していたチームが全国レベルの大会に出場できたことはなかった。
現在 彼が籍を置いているクラブチームも、全国地域サッカーリーグ決勝大会に勝ち上がっていけるほどの強豪というわけではない。
星矢のセンスについていけるだけの実力を持った選手が、チーム内に せめてあと2人いれば、星矢の夢の実現の可能性は格段に大きくなるのに。
瞬は、常々そう考え、ままならぬ現状を残念に思っていた。

そのせいもあって、
「サッカー絡みの人なのに、星矢が知らなかったということは、スカウトさんか何か?」
と星矢に尋ねる瞬の声は、かなり弾んだものになったのである。
見る目のある人が星矢の実力とセンスに気付いてくれれば、星矢の夢は容易に叶うものと、瞬は信じていたから。
残念ながら、事態は、瞬が期待したものとは かなり様相を異にしたもののようだったが。
「うんにゃ。多分、プレイする側。そいつが ウチに来るのは――ほら、ウチのクラブって、某テレビ局の関連企業がスポンサーについてるだろ。そのコネで来てもらうことになったらしい」
「スカウトじゃなくて、プレイする側の人で、でも、星矢が知らないレベルの人で、来てもらう・・・?」
それはいったいどういう事態なのか。
幼い頃から10年以上の付き合いになる幼馴染みの前で、瞬は首をかしげることになった。

「そ。世間では『あのHYOGAがついにサッカー進出かー !? 』って、騒がれてるらしい。つーか、騒ぎにして、ニュースにしたいらしい」
瞬は、ますます 訳がわからない顔をすることになったのである。
星矢も、瞬の そんな反応を当然のものと思っているようだった。
「サッカー進出――って、どういう意味。プレイする側で――でも、これまでプレイしていなかった……? 上手い人なの?」
「上手いかどうかはわかんねーけど……。案外、ほんとにサッカー始める気になったのかもしれないし、始めたら そこそこ上手いんだろうな。とにかく超有名人なんだと。テレビに出ない日はないってくらい」
「上手いかどうかわからないのに、毎日テレビに出てるの?」
サッカー選手でそんなことができるのは、日本人なら 日本プロサッカーリーグのディビジョン1で それなりの活躍をしている選手、外国人ならワールドカップで相当の活躍をした選手でなければ無理だろう。
だが、星矢の話を聞いている限りでは、“氷河”さんの力は未知数――であるらしい。
瞬には、まるで訳がわからなかった。

「そいつ、まだサッカー選手じゃないんだ。現時点での そいつの職業は“有名人”――かな」
「なに、それ」
そんな職業があるものだろうか。
瞬の認識では、“有名人”というものは職業や役職名ではなく、ある人間の行為行動の結果として得られる実体のない一過性の称号・立場だった。
サッカー選手として活躍し、その結果として有名人になることはあっても、有名人だからサッカー選手として活躍できるということは あり得ない事態である。
少なくとも、瞬の認識ではそうだった。
訝る瞬に、星矢が肩をすくめてみせる。

「そいつの国籍はロシア。年齢不詳。本名不詳。とにかくメディアに露出することを仕事にしてる男らしい。仕事っていうより、それが目的なのかな。で、大抵のスポーツは、まあ、超一流っていうほどじゃないにしても一流で、夏季オリンピックの季節には陸上や競泳、冬季オリンピックには、スキーの大回転とかにロシア代表で出て、毎回メダルを取ってる。テニスの4大大会では、ここ3年は必ずベスト4に残ってて、パリコレとかミラコレとかの時期にはモデルとして出てて、そのうち俳優業も始めるんじゃないかって噂」
「……」
“氷河”さんが何屋・・さんなのか、まるでわからない。
わからないものにはコメントのしようがない。
なので、瞬は、ただ目をぱちくりさせることしかできなかった。
星矢も、そんな瞬の反応の鈍さを責めてはこない。

「俺も 今日まで知らなかったんだけどさー。その氷河って奴、世界のどこにいるかわからない人を捜してて、その人に自分の存在を気付いてほしいから、それでメディアに露出するのを仕事にしてる奴なんだと」
「人捜しのために、オリンピックでメダルを取ったり、テニスの4大大会でベスト4に入ったりしているの?」
そんなことが可能なのか。
そんなことのできる人間が、この世に存在するのか。
星矢の言葉は、瞬には にわかには信じ難いものだった。

オリンピックでメダルを取ったり テニスの4大大会でベスト4に入るような人たちが、何のためにそんなことをするのかを、瞬は知らなかった。
しかし、少なくとも そういった人々にとって、オリンピックでメダルを取ったり テニスの4大大会でベスト4に入ることは 大いなる目標・目的であって、人捜しの片手間にできることではないだろう。
それをしてのける人間がいるというのなら――瞬には そういう人間の存在に ただただ驚くことしかできなかった。
驚くことしかできずにいる瞬に、星矢が更に驚くべきことを知らせてくる。

「なんか、それもさ、専業プレイヤーを差し置いて金メダル取ったり優勝したりはできないから、手を抜いてるに違いない――って言われてるらしい。全世界に衛星放送されるとこまで勝ち上がれば、それで満足して、さっさと退場するんだと」
「それは――」
それは、“氷河”なりの気遣いなのかもしれない。
だが、本気で その世界の頂点を目指している人たちの中には、“氷河”のそういう振舞いによって 自分が侮られていると感じる者もいるのではないだろうか。
瞬は、人ごとながら、“氷河”の身が心配になってきてしまったのである。
片手間の人間に全力でぶつかり敗北した人間と、片手間の人間に勝利を譲られた人間。
そのどちらの立場に立たされても、人は心穏やかではいられないだろう。
まさか それで“氷河”の身に危害を加えるような人間はいないだろうが、“氷河”に対して悪感情を抱く人間は少なからず出てくるのではないだろうか――。
それが、瞬の中に生まれた懸念だった。

「有名になったら、その人が自分の存在に気付いてくれるかもしれないっていうんで、そういう人を食った真似をしてるらしい。運動神経が並じゃなくて、大抵のスポーツをこなすんだよ。体力も ツラの皮の厚さも相当」
「その氷河さんが……ついにサッカー進出っていうわけ?」
「それがほんとなら、狙いはワールドカップなんだろうけど、でも、そいつ、これまで団体競技には手を出したことがなかったんだ。多分、個人競技ほど目立てないから」

瞬は、氷河に全力でぶつかり敗北した人間や 氷河に勝利を譲られた人間が、氷河に対して抱くかもしれない悪感情を心配していたのだが、どうやら それは そんな狭く局所的な問題ではなかったらしい。
氷河の振舞いを快く思わないのは、彼に敗れる者と、彼に勝ちを譲られる者たちだけではなく――星矢もまた、世界的有名人に 片手間でサッカーに“進出”されることを、不愉快に感じているようだった。
してみると、氷河がしていることは、かなり危険なこと――無数の敵を作ることだと、瞬は思ったのである。
さすがに、氷河と直接対決するわけではない星矢が 氷河に対して抱いているのは、あくまでも 単なる不快の念であって、憎悪と呼べるような激しい感情ではないようだったが。

「名前がヒョウガ――氷河だろ。国籍はロシアで、外見もそうなんだけど、日本の血が入ってるんじゃないかって説もあるらしい。来日は今回が初めてらしいけど、日本でも車のCMに出てるって言ってたな。グラード・モータース社のミレニアムとかってセダンの」
「あ。それなら知ってる。駅のポスターとか、ファッションビルの電光掲示板とかで見たことあるよ。真っ黒いセダンの前に立つ金髪の――すごく目立つ、すごく綺麗な人だよね。あの人、氷河って言うんだ……」
瞬には理解し難い行動原理にのっとって生きている世界的有名人。
瞬は初めて、その姿を具体的に脳裏に結ぶことができた。
そして、“氷河”が、天に二物も三物も与えられた人間だと知ることになったのである。

「テレビ局のカメラが入るし、日曜日で 野次馬もいっぱい来るだろうから、馬鹿やるんじゃないぞって、監督に釘を刺されたんだ。明日一日だけでいいから、いい子にしてろってさ」
「そうなの……。そんなに人出がすごいのなら、明日は僕、グラウンドに行かない方がいいかな」
「なに言ってんだよ! 氷河期が来ようが、テレビ局のガメラが野次馬になろうが、おまえの弁当が俺の活力源!」
住む世界が違う有名人への不快より 自分が食する弁当の方が、星矢には より重要で切実な問題であるらしい。
その方がいいし、星矢らしい。
瞬は笑いながら、星矢に眉をしかめてみせた。

「そんなふうに言うところをみると、やっぱり星矢の今月の お小遣いは全部 おやつ代に消えちゃったあとなんでしょう?」
「え? へへ」
『そうではない』と否定してこないことから察するに、星矢は今月のお小遣いを既に(おやつ代として)使い切ってしまったのだろう。
住む世界が違う有名人のことより、大切な幼馴染みのために用意する弁当の方が より重要で切実な問題であることは、瞬も星矢と同じ。
星矢の明日の弁当のメニューを考え始めると、瞬は、それきり世界的有名人のことを すっかり忘れてしまったのだった。






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