その夜、星矢と瞬が暮らす養護施設に、突然の、そして不可思議な――来客があったのである。 この施設には、高校生は星矢と瞬しかいなかった。 夜の10時をまわると 幼い子供たちは就寝する決まりになっていて、賑やかな子供たちの声が聞こえなくなった施設内は、昼間の喧騒が嘘のような静寂に包まれる。 その静かな堂舎の廊下を『廊下は静かに』を口癖にしているスズキ司祭が どたどたと走ってくる姿を見ることになった星矢は、大いに驚いた。 だが、肩で息をしているスズキ司祭が興奮気味に告げた、 「氷河さんが来た!」 という言葉には、星矢はあまり驚かなかったのである。 昼間の氷河の振舞いで、星矢は“氷河”に対して全く好感情を抱いていなかった。 拭い去れないほどの悪感情を抱いたわけでもないのだが――本音を言えば、星矢は、行きずりの大スターのことなど すっかり忘れていたのだ。 常識的に考えて、世界的有名人が こんなところにやってくるはずがない。 星矢は、スズキ司祭が嘘をついているとは決して思わなかったが、その言葉を信じることもしなかった。 事実と信じられないことに驚いたり慌てたりすることはできない。 だから星矢は、廊下を走ってきたスズキ司祭の姿に驚きはしても、その言葉には驚かなかった――信じられなかったのである。 「先生、落ち着けって。んなこと、あるはずねーだろ」 廊下の窓から外を見ると、確かに見慣れぬ車が一台、堂舎の玄関前に横づけになっている。 やたらと地味な国産のファミリーカー。 来客があったのは確からしい。 「あれなら、確かに、真っ黒の仰々しいセダンや真っ赤なスポーツカーよりは目立たないかもしれなくて、お忍び訪問には妥当なチョイスだけどさ。世界の大スター様が、あんな地味な車、自分で運転してきたってのか?」 そんなことがあるはずがない。 スズキ司祭の言葉を全く信じずに、星矢は客人が待つという部屋に向かったのである。 そうして。 応接セットの代わりに安物の作業用テーブルが置かれている客間 兼 ミーティングルームのドアを開けた星矢は、そこにスズキ司祭の申告通りの人物の姿を見い出して、 「えええええ〜っ、まじかよ !? 」 と、極めて礼を失した巣頓狂な雄叫びをあげることになったのだった。 黒いサングラスは、人目を忍ぶためなのだろうか。 黒いシャツ、黒いパンツに黒い靴。髪だけが金色。 これが人目を忍ぶための恰好だというのなら、その選択は完全に間違っている。 これで目立っていないつもりなりなら、世界的大スターは ただの勘違い人間である。 星矢は、確信をもって そう思った。 そこにいたのは、紛れもなく世界的有名人。 昼間、その資格もないのに 偉そうに星矢のセンスを褒めてくれた不愉快な金髪男だった。 「ほ……本物かよ……。なんで、ここが――」 まさか、昼の弁当を食べながら、『スターの頭にボールを蹴りつけてやればよかった』と毒づいたことが 大スターの耳に入り、わざわざ文句を言いにきたわけでもあるまい。 星矢には、そこに氷河がいる訳が、まるでわからなかった。 「こちらの住所は、君のクラブチームの事務局の方に聞いてきた。ここは親のない子供たちのための施設だそうだが……君は孤児なのか」 普通の人間なら多少なりとも遠慮するようなことを ずけずけと訊いてくる男である。 星矢はむっとして、サングラスを外した大スターの青い目を睨みつけた。 「それがどうしたよ」 「昼間、君の応援にいらしていた方は……まさか、あの方もこちらに おいでということは――」 氷河の日本語は、ブランクがあるのか、決して訛っているわけではないのだが、いわゆる標準語とは少々イントネーションが違っていた。 しかも、瞬に尊敬語を使っている。 敬語における尊敬語、謙譲語、丁寧語の区別がついていないのか、瞬の立場身分を誤認しているのか――。 いずれにしても、彼の敬語は、世界的有名人が 年下の一介の高校生に用いるべきものではなかった。 「瞬のことか。ここにいるぜ」 氷河の用いる敬語の妥当性はさておき、彼の目的は瞬であるらしい。 瞬も この養護施設の住人だということを知ると、氷河は、いわく言い難い表情を、その顔に浮かべた。 瞬の境遇は喜べないが、瞬の居場所がわかったことは嬉しい。 そんな顔を。 そんな氷河とは逆に、星矢は、すっきり単純明快な表情を呈することになった。 氷河の目的が瞬とわかったおかげで、星矢はすべての謎が解け、その驚きや疑念が一瞬で氷解してしまったのだ。 つまり そういうことだったのだ――と。 「目当ては瞬ってことか。なんだ、世界的大スターも そこいらへんの にーちゃんと おんなじだな」 「そこいらへんのにーちゃんと同じとは」 「瞬に一目惚れしたっていうんだろ。悪いけど、そういうの間に合ってるから。だいいち、瞬は、ああ見えても男だ男」 要するに、そういうことだったのだ。 世界的有名人の目も、その作りは そこいらへんのにーちゃんと全く同じ。 綺麗で可愛いものは、綺麗で可愛く見える。 そして、瞬の性別を見極められない。 世界的大スターが そこいらへんのにーちゃんと違うのは、瞬の性別を知っても全く動じない――という点だった。 動じる様子もなく、彼は星矢に瞬との面会を求めてきた。 「お会いしたい」 「だから、瞬は男だって」 「存じあげておる。もし、瞬様が不遇の中にあるのなら、俺は俺に持てるすべてを投げ打ってでも お助けしたいのだ」 「……」 世界的有名人は、確かに普通ではなかった――そこいらへんのにーちゃんとは どこか様子が違っていた。 瞬に会わずに帰れるかと言わんばかりに、思い詰めたような表情、瞳。 瞬に会わせることを拒否すると、この男は自分で瞬を捜しに行きかねない。 大スターは、そんな目をしていた。 「瞬に ご用なのでしたら、私が呼んでまいりましょう」 氷河の ただならぬ様子は、同席していたスズキ司祭にも感じ取れたらしい。 そして、この養護施設の管理責任者として、ここで こんな時刻に 騒ぎを起こされるわけにはいかないと、彼は考えた――おそらく。 氷河を牽制するように そう言って部屋を出ていったスズキ司祭が、瞬を連れて 客間 兼 ミーティングルームに戻ってきたのは、その3分後のこと。 「あの氷河さんが来てるって ほんと? どうして僕が呼ばれ……あ」 世界的有名人が“こんなところ”に来ていると、瞬は信じてはいなかったのだろう。 本当に氷河がそこにいることを自分の目で確認することになった瞬は、信じ難い その現実に驚き、ドアの前で棒立ちになった。 「氷河さん……ほんとに……」 だが、瞬は、世界的有名人である氷河が“こんなところ”にいるくらいのことで驚いている場合ではなかったのである。 「瞬様!」 施設運用の予算確保に汲々としている、おんぼろ養護施設。 応接セットもない客間 兼 ミーティングルーム。 部屋の壁紙は子供たちの腕白のせいで傷だらけなのだが、予算不足で張り替えもされていない。 そんな部屋で。 「瞬様、お会いしとうございました!」 瞬が その場に現われると、世界的大スターは やにわにフローリングの床に両膝をつき、瞬の前に平伏してしまったのだった。 |