「おまえは知っていたんだろう? マーガレットの花びらは、確かに枚数は一定じゃないが、その ほとんどが奇数だということを」 「え」 瞬は忘れてはいなかったらしい すぐに、俺が何のことを――いつのことを――言っているのか、気付いたようだった。 澄んだ瞳で、瞬が俺を騙した その日のこと。 瞬は、剥き出しの肩を小さく震わせた。 だが――。 あれは 嘘と言っていいものなんだろうか。 瞬には――瞬にも――あれは忘れられない出来事だったんだろう。 おそらく、瞬が、人を騙そうと思って騙したのは、あの時 あの一度だけだったろうから。 『好き』と『嫌い』。 二択と見せかけて、実は あの占いは最初から一つの結論しか持っていなかった――仕組まれた一択だったんだ。 『好き』一択。 『信じる』一択。 迷い悩み傷付きながら、瞬の答えは いつも ただ一つきりなんだ。 「氷河……」 「責めてるんじゃない。あの時、俺はおまえを特別に好きになったんだと告白しているんだ。すまん。好きなら 何でも許されるわけじゃないことは わかっている」 そうか。 俺は、それを言いたくて、突然マーガレットの話を始めたのか。 あの時から 俺は『瞬』一択になったのだと、瞬に知ってほしくて。 それはいいが、『だから許してくれ』というのは卑劣の極みだ。 『好き』一択、『信じる』一択の瞬に、俺は『許す』一択であることを、暗に求めている。 卑怯で卑劣で身勝手で――だが、俺は瞬を失うことに耐えられない。 瞬に嫌われ、瞬に信じてもらえなくなることに耐えられない。 こんなことをしでかしておきながら、それでも。 瞬は――瞬は、あの時と同じように、落ち込み項垂れている俺の顔を覗き込んできた。 その瞳は、あの時と同じように 優しく温かいままなんだろうか。 確かめるのが恐くて、俺は顔を背けたんだ。 瞬の声が そんな俺を追いかけてくる。 「花占いなんて……って、みんなが馬鹿にしたよ。一輝兄さんでさえ。そんなものに逃げるな、そんな女々しいことはやめろって。氷河だけが僕を信じてくれたんだ」 「花占いを信じていたわけじゃない。おまえが ものすごく真剣な目をして占っていたから、おまえを信じずにいられなくなっただけだ」 「氷河、意外と素直だね」 瞬が、小さな笑い声を洩らす。 それで、瞬が俺を許すつもりでいることが、俺にはわかったんだ。 「僕、嘘をついて氷河を騙してるような気がして……。それに、ごく稀に花びらが偶数のこともあるから、すごくどきどきしてたんだ。『嫌い』で終わったら どうしようって。運命って、時々 とっても意地悪なことがあるから……。だから、人は間違っちゃうこともあるよね。でも、間違っちゃったら、正せばいいんだよ。生きている限り、諦めない限り、人は そうすることができる」 「瞬……」 驚異的と言っていいほど強靭な瞬の心、その意思、その信頼、そして優しさ。 俺は本当に馬鹿だ。 今こそ、たった今、力の限り 瞬を抱きしめたいのに、あんな馬鹿なことをしてしまったいで、俺は そうすることができない。 本当に、俺は馬鹿だ。 俺は、どうしようもない過ちを犯した。 何より大事なことの順番を間違えるという、些細で重大な過ちを。 『おまえを抱きしめてもいいか』と訊いてからなら、同じように犯されても、きっと俺は瞬を傷付けずに済んだ。 よほど我慢していたんだと、がっつく俺に呆れるくらいのことはするかもしれないが、それくらいのことは、瞬には許すも許さないもないレベルのことだろう。 順番さえ間違わなければ、俺は たった今 思い切り瞬を抱きしめることができたのに。 そんな些細で重要なことを間違えたばかりに、俺は今、 「すまなかった」 と言って、瞬に頭を下げることしかできないんだ。 『間違っちゃったら、正せばいいんだよ』 その言葉を実行するために 瞬に頭を下げた俺を許すことは、瞬には既定のことだったんだろう。 俺が寝台の下に放り投げた服を、瞬が指し示す。 「服……」 「ん?」 「服を着せてくれたら、許してあげる。それから、あの声だけの神様に見付からないよう、ここを出る方法を考えて」 瞬が“許す”ことに条件をつけるのは、俺の肩身の狭さを和らげるため。 だが、瞬がつけてきた その条件は、なかなか実現の困難なことだった。 「それは……難しいな」 「あの声だけの神様の正体、氷河も知らないの?」 「知らん。だが、そんなことはどうでもいいことだし、ここを出る方法は考えるまでもないだろう」 「え?」 「その二つは、おそらくアテナがどうにかしてくれる。彼女の聖闘士が二人も 囚われているんだからな。そして、アテナの指示で 星矢と紫龍が俺たちを救い出しに来てくれるだろう。問題は、おまえの服だ」 「?」 俺が誰にも何も言わずに聖域から姿を消しただけなら、『また ふらっとシベリアにでも行ったんだろう』で済むが、瞬までが姿を消したとなると、当然 アテナは その行方を案じ、星矢たちに仲間の捜索と救出を命じるだろう。 となれば、星矢たちが この場所を突きとめ 乗り込んでくるのは時間の問題だ。 俺たちはただ、ここで星矢たちの到着を大人しく待っていればいい。 だが、瞬に服を着せることは そう簡単にはいかない。 「今、へたにおまえに触れたら、俺はまた その何だ……危ない気分になる」 いくら本当のことでも、今は それを言うべきではない――ということは わかってはいるんだが、俺は瞬には嘘をつけない。 だから俺は、それがいかに危険を伴う行為であるのかを、正直に瞬に告げた。 寝台の上で 僅かに身体の向きを変え、瞬が俺を軽く睨んでくる。 「もしかしたら 僕たちの命がかかってることなんだから、氷河、真面目に考えてよ」 「俺は――」 俺は、これ以上ないほど真面目に悩んでいるんだが、やはり それは言わない方がいいようだった。 余計なことは言わずに、持ち合わせの少ない自制心のすべてを かき集めて 紳士的に振舞うこと。 それが、今の俺が やり遂げなければならない至上義務。 万一 瞬の肌の感触に負けて、また あんなことをしてしまったら、許してもらえるものも許してもらえなくなる。 せっかく星矢たちが 俺と瞬を救出に来てくれても、瞬が立って歩けなくなっていたら、それこそ目も当てられないことになる。 『自制心、自制心』と、自分に言い聞かせながら、俺は寝台をおりた。 先に俺自身が服を着けた方が、この試練を乗り切りやすい。 「俺は……アテナを裏切るとか裏切らないとか、そんなことは ほとんど考えていなかったんだ。おまえが欲しいと、それだけしか。きっとまた 大きな戦いが始まる。死ぬ前に、おまえを俺のものにしなければならないと、その思いだけで いっぱいで」 それは髪の毛1本ほどの嘘も混じっていない ただの事実だし、俺は、瞬の心を安んじさせるために そう言ったんだが、言い終えてから、自分が やたらと言い訳がましいセリフを口にしたことに、俺は気付いた。 というより、それは言い訳そのものだった。 幸い、瞬は、それを言い訳とはとらず、単なる事実の報告と受け取ってくれたようだったが。 「僕は氷河のこと信じてるよ。僕は氷河にしか嘘をついたことがないのに、氷河は僕にだけは嘘をつかない。時々、そんなに正直でいないでって思うこともあるくらい」 「すまん」 それは、俺も時々 思う。 瞬に嘘をつくことができたなら、俺は瞬の前で もう少し恰好のいい男でいることができるのに――と。 瞬の白い背中、華奢な肩、そこから伸びる しなやかな腕。 唇を押しつけたくなるのを我慢して、俺は何とか紳士的に瞬の身じまいを整えてやった。 「立てるか? 歩けるか?」 「なんとか。気持ちいいんだけど、すごく痛いんだね、あれ」 「……」 それが、瞬の初体験の感想か? 俺は自信を持っていいのか、精進するよう促されているのか。 俺が、瞬に その発言の真意を尋ねようとしたところに邪魔が入った。 「氷河、瞬、無事かっ!」 まるで計算したように ちょうどいいタイミングで、星矢の声が俺たちに飛びかかってくる。 命をかけた戦いを共に戦ってきた大切な仲間、俺たちの信じる仲間たちのお出ましだ。 やはり来てくれた。 人を信じても裏切られ 馬鹿を見ることもある――そんなことを瞬に言っておきながら、俺は、結局、俺の仲間たちを信じているらしい。 実際、星矢たちは俺の期待と信頼を裏切ることなく、やってきてくれた。 しかし、早かったな。 あの陰気な声の主は、仲間を救出にきた星矢たちの邪魔をしなかったのか? 「あの声は」 『ありがとう』も言わず、俺は星矢たちに尋ねた。 必要な修飾詞も動詞も すべてを省いた俺の問い掛けの意図を、紫龍が正確にくみ取ってみせる。 「あの声? ああ、おまえたちをここに閉じ込めた神のことか」 「あの声の奴なら、おまえと瞬がいなくなったことに気付いた直後に、アテナが何かして消したらしくて――いや、地上世界から追い払っただけなのかな? 結構 有力な神らしかったんだけど、力がまだ完全じゃなくて実体もないから 存外簡単に追い払えた――みたいなこと、アテナは言ってた」 「あの神の正体は、俺たちはまだ知らなくていいそうだ」 「……そうか」 では、あの声だけの神は、瞬をここにさらってきて まもなく、アテナの力によって 地上世界から追い払われていたということか。 そういえば、声がいつのまにか聞こえなくなっていたな。 まあ、奴が あのまま地上世界に居座って 何を言おうと、俺はそれどころじゃなかったんだが。 ともあれ、星矢の言う通り、俺たちの脱出と帰還は、誰にも妨げられることなく、すみやかに実行された。 瞬は かなり無理をしているようだったが、それでも自分の足で歩いて、薄闇の世界の神殿を出た。 星矢たちは、おそらく あの声だけの神に痛めつけられたのだと誤解して、そんな瞬の様子を心配そうに見詰めていたが、瞬は 奴等に神殿で何があったのか何も言わなかった。 薄闇の異次元に建っているのだろうと思っていた神殿は、ドイツの山奥にある打ち捨てられた古城だった。 外から見ると、ロマネスク様式の建物で、とても古代ギリシャの神殿には見えない。 俺は、あの声だけの神に、何か 目くらましのような術でもかけられて、錯覚させられていたのかもしれなかった。 あるいは、本当に、アテナがあの声の主を地上から追い払うまで 城の中が異次元だったのか――。 不吉な印象の強い城だった。 何かよくないことが起こりそうな。 星矢と紫龍に気付かれぬように さりげなく瞬の身体を支えて、その陰鬱な城を見上げながら、俺は そう思った。 まだ力が完全でなかったということは、あの声だけの神は、いずれは完全な力を得て、今回のように酔狂ではなく本気で、地上世界の滅亡でも企てるつもりなのかもしれない。 だが――奴が どれほどの力をもって俺たちの前に立ちふさがろうと、俺たちは必ずその野望を砕くだろう。 これまで命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちと一緒なら、必ず そうなると信じられる。 迷い、悩み、過ちを犯すことがあっても、強大な敵の力に屈服しそうになっても、俺が『好き』一択で、瞬が『信じる』一択であるように、アテナの聖闘士たちは『勝利』一択だから。 花びらの枚数は定まっていなくても 答えは ただ一つの、 あのマーガレットの花のように。 Fin.
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