ultramarine blue

-海の向こうからきた青-







そこには、女神アテナがいた。
海神ポセイドンも、太陽神アポロンも、もちろん大神ゼウスも。
愛と美の女神もいたし、月の女神も、花の女神もいた。
聖母マリア、幼子イエス、預言者ヨハネもいた。
お告げの大天使ガブリエルも、堕天使ルシファーと戦う大天使ミカエルもいる。
そこは、洪水のように神や聖人があふれかえっている場所。
その中に ひときわ美しく可憐な天使がいて、俺は、その天使の前で瞬きすることもできず、言葉もなく、ただ阿呆のように突っ立っていた――。

どれほどの時間、そうしていたか。
俺は やがて、その可憐な天使もまた、瞳を見開いて 俺を見詰めていることに気付いたんだ。
その天使の唇が微かに動く。
では、この天使は生きているんだ。
その事実に、俺は衝撃を受けた。
アテナもポセイドンもイエスもマリアも動かない。
彼等は、板絵の中の住人として、あるいは大理石や青銅の彫像として、ここにいる。
だが、この澄んだ瞳の天使は生身の――もしかしたら、人間なんだろうか?
その天使は、俺の顔を覗き込み、
「すごい」
と言った。
何がすごいのかがわからずに眉根を寄せた俺に、
「あなたを描くには お金がかかりそう」
と、続く言葉が届けられる。

フィレンツェの天使は、金を使うのか。
驚いた話だ。
さすがは、欧州一の銀行家メディチ家の支配する町だけある。
感心して、俺は深呼吸をした。
その場に洪水のようにあふれている神々や聖人たちはどれも描きかけ、もしくは作りかけだった。
彫像のゼウスにいたっては、腰から下がまだ 切り出した時のままの岩の塊りである。
フィレンツェの職人の工房が こんなにごちゃごちゃしたものだとは、俺は思ってもいなかった。

「こちらの工房に ご用ですか?」
その中で唯一 生きている天使が、にっこり笑って 俺に尋ねてくる。
天使は、袖のない水色のチュニックを灰色の帯で留め、タイツを穿いていない綺麗な素足に 靴ではなくサンダルを履いていた。
天上の天使もこれほど清らかではあるまいと思える地上の天使は、ごく普通の(?)14、5歳の少年の恰好をしていた。
純白の翼も、今は取り外しているらしい。
「ここはアンドレア・デル・ヴェロッキオ殿の工房か? そこがフィレンツェで最も大きな工房だと聞いてきたんだが」
「はい、その通りです。絵か彫像の制作を依頼にいらしたの? フィレンツェの方ではないようですが」
「あ? ああ、そうだ。ロシアから来た。腕のいい肖像画家を探している」
「ロシア!」

天使がびっくりしたように、俺の故国の名を叫ぶ。
それはそうだろうな。
ロシアは ここから はるか北。
欧州の文化・経済の中心地であるフィレンツェの市民には、ロシアは 野蛮人の住む世界の果ての未開の国に思えるだろう。
モスクワ大公であるイヴァン3世が、ルーシ北東部をタタールのくびきから解放し、リャザン公国やトヴェリ公国を平らげ、北の大地に とりあえず統一国家らしきものを打ち立てたのが、今から10年ほど前。
彼が皇帝ツァーリの称号を使い始めたのは、つい最近のことだ。
今、イヴァン3世が虎視眈々とノヴゴロド共和国の併合を狙っているなんてことは、この天使にとっては、明けの明星ルシファーが神への反逆を企てたことより 遠い世界での出来事なのかもしれない。

「そんな遠くから いらしてくださったのに――申し訳ありません。先生は今、ロレンツォ様に呼ばれて、メディチ家のお城に出掛けているんです。依頼したいのは肖像画ですか?」
「肖像画じゃない。肖像画家だ」
「は?」
「優れた肖像画家を一人 所望だ。この工房は、フィレンツェの他のどこの工房よりも多くの画家や彫刻家を抱えていると聞いた」
アンドレア・デル・ヴェロッキオは、稀代の良師。
彼自身も優れた芸術家だが、それ以上に優れた教育者・指導者である彼は、自らの工房に常に何十人もの弟子を置き、彼等を育て、独立させている――という話だった。
芸術家としての才より 人材育成の才が、多くの芸術家の卵を彼の側に引き寄せている――と。

「絵や彫像のご注文なら、僕でも承ることができるんですけど、専属の画家を雇いたいというのでしたら、僕には何とも……。先生でなければ――」
天使が申し訳なさそうに俺に告げてくる。
ヴェロッキオを『先生』と呼んでいるところを見ると、この子も画家志願なんだろうか。
だとしたら、気の毒な話だ。
この子は、一生かかっても、自分自身より美しい作品を生み出すことはできないだろう。

「ヴェロッキオ師の帰りは遅くなるのか」
「そろそろお帰りになる頃なんですが……」
「じゃあ、ここで待たせてもらってもいいか。出直すのは面倒だ」
面倒なことは面倒だが、そう言った俺の本音は、『少しでも長い時間、ここで 清らかな天使の姿を見ていたい』だった。
その天使が、軽く頷いて、広い作業着の奥にある扉を 俺に指し示す。
「では、奥に商談用の部屋がありますので、そちらに ご案内します。ここでは落ち着かないでしょう」
奥の部屋で この天使と二人きりになれるのなら それでもよかったんだが、天使は、俺を商談用の部屋に案内したら、自分は仕事場に戻りそうだったから、俺は天使の親切を丁重に断った。
「いや。工房の見学も、ここに来た目的の一つだ。ここにある作品は、俺が見ても構わないものか?」
「はい。いくらでも、お好きなだけ見学なさってください。どれも制作途中ですが、ここは作業場であると同時に、展示場、見本市場みたいなものなんです。いつもなら、大勢の職人が ここで作業しているんですけど、今日は作業の指示を出す先生がいないので、みんな外に出掛けてしまっていて……」

作業場 兼 展示場か。
なるほど。
だから、ここには こんなふうに絵や彫像や建築物の模型やらが 雑然と置かれているわけだ。
実に便利かつ合理的な仕組みだが――俺の目と意識は それらの展示品を無視して、この作業場で唯一の完成品に釘づけだった。
イエスもゼウスも無視して、清楚可憐な天使に問いかける。
「さっき、俺を描くには金がかかると言っていたが、あれは どういう意味だ」
「やだ。僕、そんなこと言いました?」
「言った。どういう意味だ」
天使が 自分の失言(?)に慌てたように、頬を上気させる。
やはり、この子は人間なんだろうか。
天使が こんなに可愛い反応を示すなんて話、俺は聞いたことがない。

「ロシアでは違うのかな? このフィレンツェでは――ううん、ヴェネツィアでもローマでもミラノでも同じなんですけど、絵の制作の契約時、その画料は普通は必要経費と画家の手間賃で決めるんです。でも、金色と青色の顔料が使われる時は、別に料金が加算されるの。あなたは金と青でできているから……」
「金はわかるが、青も高いのか」
「高いのは、特別の青――ラピスラズリの石から作る青だけです。あの青色の原料になるラピスラズリは稀少な上、アフガニスタンでしか採れない。だから、ウルトラマリンブルー ――海の向こうから来た青色と呼ばれているんです」
なぜか、天使の顔が曇る。
もしかしたら、この天使は、空や海の絵を描きたいのに、青の顔料の高価さに泣かされて 描きたいものを描けずにいるんだろうか。
だとしたら、切ない話だ。
天使にとって 空は帰るべきところ、懐かしい故郷だろうに。

だが、なるほど。
俺の肖像画が高くつくのは、顔料の問題か。
俺は金のかかる色でできている男というわけだ。
しかし――。
「頼みたいのは俺の肖像画ではないから、画料は安く済むだろう」
「あなたを描くのではないの? あなたの絵なら、誰もが描きたがるでしょうに。こんなに綺麗な男性がいるなんて、アポロンも妬みそう」
さて、それはどうか。
あの傲慢な神は、金色や青色より真紅こそが最高の色だと言い張りそうだ。
まあ、今は そんなことはどうでもいい。
今は神より天使だ、天使。






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