「“アイドルなのにピアノもうまい”」 紫龍が追加した、アイドルの才能目録。 アイドルが奏でる曲は、クラシックの他は そのほとんどが瞬の知らない曲だったので――おそらく、それらは彼の持ち歌だったのだろう――瞬は その歌を口ずさむこともできず、ただ彼の生活に音楽が戻ってきたことを喜ぶことしかできずにいた。 だが、ある日。 瞬の耳に、瞬のよく知っている曲が聞こえてきたのである。 「あ……」 それは、瞬にとっては とても懐かしい曲で――瞬は、思わず掛けていた椅子から立ち上がり、その曲が演奏されている部屋に向かって駆け出していた。 音楽室に響いている旋律は 優しく なめらか。 それが 特段 難しい技巧を要する曲ではないことは、瞬にもわかった。 だが、だからこそ かえって、その曲の優しい調べは、アイドルの演奏のレベルの高さを物語っていたのである。 だが、歌は――。 ピアノに向き合っているアイドルの唇は、その歌詞を声にすべく動いているのに、彼の喉は 風のように 乾いた音しか作ることができずにいた。 巧みな演奏が 余韻を持たせて終止線に至ると、アイドルが つらそうに唇を噛む。 彼が苦しんでいることはわかるのに、今の彼が他人の慰撫を必要としているのかどうかも わからなかったのに――瞬は彼とピアノの側に歩み寄っていった。 懐かしい歌詞の記された楽譜が、視界の端に映る。 「その曲、知ってます。『はるかな友に』」 「瞬……さん」 アイドルが、僅かに意外そうな表情を瞬に向けてきたのは、それが さほど有名な曲ではなく、ささやかな歌集に載ることはあっても、音楽の教科書に採用されるような曲ではなかったからだったかもしれない。 瞬が その曲を知っていたのも、彼が城戸邸に来る前にいた教会の牧師様に教えてもらったからだった。 『讃美歌ではないのですが、心に染み入るように 優しい曲でしょう』 そう言って、牧師様は、彼自身の思い出を辿り懐かしむような眼差しを 虚空に投じた――。 静かな夜更けに思い出すのは、おまえ 明るい星の夜に思い出すのも、おまえ 寂しい雪の夜に思い出すのも、おまえ おまえが、今宵も 安らかな眠りに就けるように―― 『はるかな友に』 それは、世界で長く歌い継がれてきた民謡ではなく、僅か半世紀ほど前、日本人が作詞作曲した創作曲だった。 「僕、タイトルで勘違いしていたみたい。遠く離れたところにいる友を懐かしむ歌だと思っていたのに、これ、子守歌だったんですね。遠く離れたところにいる人の 安らかな眠りを祈る歌――」 みじめな ありさまを見られたと思ったのか、気まずそうな顔になったアイドルは、瞬に否とも応とも答えてこなかった。 彼が そんな顔をする訳が、だが、瞬には わからなかったのである。 「とても優しい声。拓斗さんのお母様は、拓斗さんの歌が大好きだったんでしょうね」 「え……」 「この曲、お母様が拓斗さんに教えてくださったんですか?」 「瞬さん、あの……」 たった今まで、ここに優しい声の歌があったかのように問う瞬。 アイドルが気まずそうな顔になる理由が 瞬にわからないように、アイドルもまた、昔を懐かしむような瞬の眼差しの意味がわからなかった。 自分が何を言われたのかが わからないまま、瞬に問われたことに答える。 「ち……父が好きだった歌なんだそうです。父が亡くなってからは、母が幼かった僕に歌ってくれた。僕が子守歌が必要でなくなってからは、僕が母に――」 「なら、きっと拓斗さんの声は、拓斗さんのお父様の声に似てらっしゃるんでしょう。だから、お母様は、子守歌が必要でなくなってからの拓斗さんの歌に慰められていたのかも」 声変わりもしていないような声で――まだ子守歌が必要な子供のような声で、瞬が言う。 「もしかしたら、今頃、拓斗さんの お母様は、拓斗さんのお父様の歌を聞いていらっしゃるのかもしれないですね」 「あ……」 幼い頃にも、歌は好きだった。 歌えば、母は母親らしい笑顔で、とても上手だと幼い息子を褒めてくれた。 それが いつからか、褒める代わりに優しく微笑むだけになり――まるで夢見がちな少女のような眼差しで微笑むようになり――。 拓斗は これまで考えたことがなかったのである。 自分の声が 亡父のそれに似ている可能性というものを。 そうだったのかもしれないと、母を失った今になって思う。 そして、母を失ってしまった今だからこそ、今 母は父の声を――彼女が愛した人の許で、彼女が愛した人の本物の声を――聞いているのかもしれないという思いを、穏やかに その胸に抱くことができた。 静かな夜更けに思い出すのは、あなた 明るい星の夜に思い出すのも、あなた 寂しい雪の夜に思い出すのも、あなた あなたが、今宵も 安らかな眠りに就けますように―― 遠く離れた場所にいる大切な人の安らかな眠りを祈る歌。 どんな気持ちで、彼女は、彼女の息子の歌う歌を聞いていたのか――。 「た……拓斗さん…… !? 」 アイドルが急に ぼろぼろと大粒の涙を零して泣き出したのに、瞬は驚き慌ててしまったのである。 瞬は、自分が泣くのには慣れていたが、人に泣かれることには あまり慣れていなかった。 「拓斗さん……?」 「すみません、すみません」 謝罪を繰り返しながら、それでもアイドルが涙を拭おうとしないのは、それをしてしまうと、自分が泣いている事実を認めることになってしまうからなのだということに気付くまで、瞬には 少々――否、かなりの時間が必要だった。 瞬は、人が涙を流すことを、謝罪を要するような不始末不行跡に類することだとは思っていなかったから。 気負うことなく自然体で生きていれば、悲しいことがあった時、嬉しいことがあった時、美しいものに出会った時、それは自然に瞳から あふれ出てくるものだったのだ。瞬にとっては。 「謝ることはないんですよ」 涙を拭えないアイドルの代わりに、瞬は、ピアノの椅子に座っているアイドルを その胸に抱き寄せて、彼の涙を隠してやったのである。 肩を震わせて泣いている人がいたら、その人を慰めてやるのは、人として当然のこと。 瞬は、その当然のことを、ごく自然にしただけだった。 それが、自分以外の人間には“当然のこと”ではなく“特別なこと”なのだとは思っていなかった。 ゆえに、音楽室のドアの外で、その“当然のこと”に怒髪天を衝いた氷河が 怒りにまかせて音楽室に怒鳴り込もうとしていたことにも、 「氷河、この馬鹿! 我慢しろって!」 そんな氷河を 星矢と紫龍が二人掛かりで取り押さえていたことにも、瞬は気付いていなかった。 氷河が我慢した甲斐はあった――否、星矢と紫龍が渾身の力で氷河を押さえ抜いた甲斐はあっただろう。 やがて 瞬の胸から顔を上げ ピアノに向き直ったアイドルは、今度こそ 本当に 彼の声で歌を歌えるようになっていたのだから。 もちろん ボイストレーニングは受けていたのだろうが、それは所詮 アイドルレベル。 アイドルの歌い方は、オペラ歌手のそれとは違っていた。 声質はいいが、声量が それほどあるわけでもない。 だが、彼は、音の捉え方が的確で、その歌声は 歌を聞く者の耳に不思議に心地よく響くものだった。 顔の造作がよすぎたために、アイドルになるしかなかったアイドル。 だが、彼が、星矢でも名を知っているほど 多くの人間に愛され好まれるアイドルになり得たのは、その出来のいい顔のせいではなかったことを、星矢は彼の歌を聞いて初めて知ることになったのである。 「“アイドルなのに歌がうまい”かー。確かに うまいや」 「いや、これは うまいというよりも――何か妙に根源的で素朴で、聞く者に いつまでも聞いていたいと思わせる歌声だ」 聞く者に いつまでも聞いていたいと思わせる歌声に感動した様子も見せず、悪足掻きを続ける氷河の口と手と足を押さえつけながら、星矢と紫龍は アイドルの歌う歌に しみじみと感じ入ったのだった。 |