「沙織さん。誰にだって、後悔はある。僕にも、氷河にも、星矢にも、紫龍にも、僕の兄さんにも。人間なら、それは当然のことです。沙織さんだって――沙織さんは、神でありながら人間として育てられた。人間として、城戸翁や多くの人に愛されて、人間の優しさや愛情に接して生きてきた。沙織さんが人間のように後悔することは、とても自然なことだと思います。沙織さんが 神でありながら、後悔というものに支配されるのは、沙織さんが優しい人間だからです。後悔のない人生を生きている人は、優しくなれない。沙織さんは、後悔のある人生を生きているから、僕たちの気持ちもわかってくれて、人間の気持ちもわかってくれる。だから、過去の自分を やり直したいなんて、そんなことは考えないでください。それは 僕たちが これまで生きてきた後悔だらけの時間までを否定することで、沙織さんの今の優しさを否定することだから」 「瞬……」 瞬に そう言われ、瞬と共にいる瞬の仲間たちの瞳を見詰め、沙織は 瞬たちがどこに行き、誰に会ってきたのかを察したらしい。 彼女は聡明な神であり、聡明な人間である。 アテナの聖闘士たちの気持ちを即座に理解し、そして すぐに彼女の結論に至った。 5歳の幼女の姿をした女神アテナが 彼女の聖闘士たちに微笑を向ける。 そして、彼女は、瞬に、 「私は、あなたが いちばん自分の人生を後悔していて、誰よりも自分の人生をやり直したいと願っているものだとばかり思っていたわ」 と言った。 「ど……どうしてです。確かに僕は いつも泣いてばかりだったけど――」 「だって、こんなのと くっついちゃって」 「なに……?」 アテナの姿はまだ5歳の幼女のままだが、彼女の心は既に元の彼女のそれへと 切り替えが完了していたらしい。 知恵の女神に“こんなの”呼ばわりされて 眉を引きつらせた氷河を、彼女は以前の大人のアテナらしく可憐華麗に無視してのけた。 「ねえ、瞬。あなたはまだ若いんだし、こんなに可愛くて綺麗なんだし、考え直して、もう少し まともな人物をパートナーに選んだ方がいいわよ。過去じゃなく、未来のことを考えて」 「こっ……この糞ガキーっ !! 」 姿はまだ5歳の幼女。 だが、その中身は 知恵と戦いの女神アテナ。 そのアテナに対して、氷河は、言ってはならない罵倒を ついに口にしてしまった。 姿はまだ5歳の幼女。 幼女が相手なら、氷河は、彼女を捕まえ、躾と称して その尻を叩くくらいのことをしかねない。 「ひょ……氷河! 沙織さんは小さな女の子じゃない! 今のは、大人のジョークだよ。子供相手に そんな向きにならないで」 氷河の激昂に慌てた瞬は、完全に矛盾した言葉で 氷河の気持ちを静めようとした。 が、瞬は、そもそも そんなことくらいで慌てる必要はなかったのである。 姿は子供でも、心は大人。 そして、その小宇宙は神のもの。 沙織は、髪の毛1本 動かすことなく氷河の動きを封じ、残りの三人に向かって優しく告げた。 「ありがとう、みんな。クロノスのところに行って、元の姿に戻してもらってくるわ」 「そうしてください。あの……くれぐれも 余計な一言は言わないように注意して」 瞬の助言を容れたのか、彼女は本当は 言わずにおくべきことは言わずにいられる大人だったのか、あるいは クロノスの機嫌がよかったのか――。 ともあれ、その日、クロノスの許に向かった5歳の幼女は、無事に10代の少女の姿に戻って、彼女の聖闘士たちの許に帰ってきたのだった。 もっとも、アテナが変わったのは 最初から外見だけだったので、5歳の幼女だった時の沙織と 10代の少女の姿をした沙織とで、その中身は大して変わることはなかったのだが。 「大人の分別で、親切心から言うのだけど、私は やっぱり マザコンとくっつくのは どうかと思うわよ。きっと後悔することになるわ」 特に その点に関して、大人の姿に戻っても、沙織の考えは変わらなかった。 沙織よりも はるかに子供の氷河が、そんな彼女の“余計な一言”に むっとした顔になる。 それぞれに意地っ張りで頑固な二人の間で、彼等の執り成しに苦労するのは、もはや瞬の宿命といっていいものだったかもしれない。 しかも、その宿命に終わりの時は来ない。 「いいんです。後悔しても。今、僕は氷河が好きだから」 瞬が そう言い、言われた氷河が感激して 場が収まりかけても、沙織はすぐにまた余計な一言を言って、その場に波風を起こしてくれるのだ。 「瞬の悪趣味に感謝しなさいね。後悔するのも悪いことではないけど、それで今の自分がどれほど幸運で幸福な人間なのかということを見失うようなことがあってはならないわ」 沙織が自戒の意を込めて そう言っているのがわかるから、 「……ああ。わかっている」 と、氷河は、不機嫌な顔のままではあっても(一応)彼女に頷いてみせる。 そんな氷河に、沙織は、 「ま、私なら、マザコンは避けるけど」 と、みたび 余計な一言を言い放ち、 「なにっ」 氷河は、再々度 むっとした顔になる。 幼女アテナ事件以来、二人は ずっとそんな調子だった。 「氷河、そんな、いちいち怒らないで。あれは――沙織さんがどれだけ僕たちのことを思ってくれているのかを、僕たちに知られてしまったから――あれは、きっと沙織さんの照れ隠しだよ」 「違う。絶対に沙織さんは悪意で言っているんだ」 「そんなことないってば」 そう言って、いきり立つ氷河を なだめながら、実は瞬も、沙織の真意が奈辺にあるのか、本当のところはわかっていなかった。 結局のところ、人と人は(人と神も)完全に理解し合うことはできないのだ。 そして、後悔のない完璧な人生を生きることもできない。 であればこそ、人は人を理解しようとする努力を一生 続けなければならず、よりよい人生を生きようとする気持ちを見失ってはならないのだ。 そうして、最後に 人がどこに行き着くのか。 それは、人が実際に 自分の命を生きてみなければ わからないことである。 Fin.
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