いくら根本的解決を望んでいるといっても、まさか瞬にピンクの小宇宙対策を講じてくれと求めるわけにはいかない。
そもそも瞬は、自分が そんなものを生んでいることに気付いてもいないだろう。
そう思うから、星矢は、瞬に問われたことに答えを返しにくかった――事実を知らせることに ためらいを覚えずにはいられなかったのである。
答えに窮した星矢のために、紫龍が、話題を脇に逸らしてくれた。
「落葉林散策はどうだった? ロマンティックな気分には浸れたのか?」
「え? あ、うん……」

アンドロメダ島には落葉樹は1本もなかった。
そもそも秋という季節がなかった。
そう言って、瞬が何の変哲もない城戸邸の庭の樹木鑑賞に出ていったのは、今から僅か10分前である。
紫龍は、婉曲的に 瞬の早すぎる帰還の訳を尋ねた。
瞬が、そんな紫龍に、形ばかりの笑みを返してくる。
「庭の西側にね、葉っぱが2枚だけ残っている木があって、互いに互いを 木枯らしから庇い合ってるみたいで、風情があったんだけど、見ているうちに1枚になっちゃいそうで切ないから、逃げてきちゃった」

そう告げる瞬のすぐ後ろには、『未練がましく枝に しがみついているくらいなら、どうせ遠からず散ることになる枯葉など さっさと散ってしまえばいいのに』と考えているのが明白に見てとれる顔をして、氷河が立っていた。
ロマンティックな秋の風情を感じる感性を持たない氷河の都合を考えてやる必要はないだろうが、そんな氷河とは対照的に 繊細極まりない感性を持っている瞬にピンクの小宇宙問題の解決を迫ることは、やはり しないでおいた方がいいだろう。
そう、紫龍は思ったのである。
紫龍は そう思った。
紫龍だけが。
星矢は そうではなかったのである。

「瞬。おまえ、最近、俺が元気ねーと思わないか」
星矢は寝不足で いらいらしていた。
そして、その“いらいら”が煮詰まっていた。
寝不足のせいで判断力が低下し、自制心が弱まってもいた。
それでも単刀直入に ピンクの小宇宙の即時停止を求めなかったのは、星矢なりの精一杯の気遣いだったのである。
星矢の気遣いに気付いているのか いないのか、仲間の不調に気付いていなかった自分に困惑したような目で、瞬が 星矢の顔を覗き込んでくる。

「そ……そうなの? いつもと同じように元気そうに見えるけど」
「おまえは 氷河とくっついてから、氷河以外の人間に 以前ほど注意を向けなくなったんだよ。最近、俺は 滅茶苦茶 元気ねーの! 原因は寝不足!」
寝不足というのは、やはり 人間の心身に よい影響をもたらさないものらしい。
苛立っているつもりはないのに、自然に荒くなっていく自分の語気に、その時 実は星矢自身が驚いていたのである。
星矢の声音に含まれている、隠しようもない苛立ちと怒り。
そのせいで、瞬の戸惑いは更に大きくなったようだった。

「寝不足? あ、最近、昔のアニメを深夜に一挙再放映してることが多いもんね。懐かしさに かられて、つい見ちゃうのかもしれないけど、夜更かしはほどほどにしておいた方がいいよ」
瞬はもちろん、真面目に仲間の体調を案じているのである。
それはわかっているのだが、あまりに的外れな瞬の言葉に、星矢の声は ますます荒ぶることになった。
「俺を寝不足にしてんのは、昔の子供向けアニメじゃなくて、もっとアダルトなやつだよ!」
「え……」

なまめかしいピンクの小宇宙で仲間を悩ませている瞬が、星矢の赤裸々な(?)告白を聞いて、ほのかに頬を上気させる。
今時 思春期の少女でも もっと冷めた反応を示すだろうと思わずにはいられない、そのリアクション。
星矢は――実は紫龍も――瞬の精神構造に、ある意味 感嘆していた。
さすがは、地上で最も清らかな魂の持ち主である。
アテナの聖闘士の睡眠を妨げるほど強大なピンクの小宇宙を 毎夜 生んでおきながら、この恥じらい振り。
常人の中には両立し得ない2つの感性が、瞬の中では 当りまえのように両立している。
それは瞬でない人間には、一種の特異体質――否、特異気質としか思えないものだった。

しかし、清純無垢な処女のように頬を紅潮させた瞬に、
「や……やだ、星矢ってば。星矢は そういうことに興味を持つ年頃なのかもしれないけど、あんまり変な番組を見てて、そのことが沙織さんに知れたりしたら、沙織さんに怒られちゃうかもしれないよ」
と言われるに及んで、星矢は その認識を改めることになったのである。
瞬は 清らかなのではなく(清らかでないわけでもないが)、感性や気質が特殊なのでもなく(特殊でないわけでもないだろうが)、ただ単に何もわかっていないだけなのだと。
星矢は、だから、自分が何をしているのか、自分が仲間にどれだけ迷惑をかけているのか、まるで自覚できていないらしい瞬に、思い切り腹を立てたのである。
そして、言葉で はっきり言わなければわからない相手には、言葉で はっきり言うしかないのだと考え、その考えを実行に移した。

「そうじゃなくて! 夜 おまえと氷河が例のことに励むたび、おまえのピンクの小宇宙が俺の部屋にまで流れ込んできて、俺は寝不足なんだよ。せめて1日おきにできねーのか。盛りのついた猫みたいに、毎晩毎晩 飽きもせず、おんなじこと繰り返しやがって! おかげで俺は ここんとこずっと 落ち着いて寝れなくて、一日中 熱っぽいし、頭はぼーっとしてるし、食欲は湧かねーし、階段では足を踏み外して すっ転びそうになるし!」
「星矢っ!」

氷河が出遅れたのは、その時 彼が 瞬の姿だけを見、瞬の声だけを聞いていたからだった。
つまり、星矢が どういう表情を浮かべ、何を話しているのかということに、その時 氷河は全く注意を払っていなかったのである。
瞬の様子がおかしいことに気付いて初めて、彼は瞬の周囲にまで知覚の範囲を広げたのだが、その時にはもう、星矢は彼が言いたいことを ほぼ言い終えたあとだったのだ。

「え……」
瞬は、自身の発するピンクの小宇宙に 本当に全く気付いていなかったらしい。
赤くなればいいのか 青くなればいいのかが わからずにいる故障中の信号機のように、注意信号を点滅させて、瞬は しばらくの間、その場に棒立ちになっていた。
こうなると、星矢も もはや後には引けない。
追い詰めたくはないのだが、場の流れ的に、星矢は瞬を追い詰めないわけにはいかなかったのだ。

「それは、あの……あの……」
「あのあのじゃねえ! おまえは 俺を睡眠不足で殺す気か!」
「僕、そんなつもり……」
「そんなつもりがなくても、おまえがしてることは そうなの!」
「あ……」
瞬のピンクの小宇宙発生と漏洩は“未必の故意”でもなければ“認識ある過失”でもない。
言うなれば、“認識なき過失”、問うことができるのは、せいぜい過失致傷の罪のみである。
が、故意でなくても罪は罪。
そして、瞬は、自覚していなかったからこそ 自分の罪は一層重いと考えるタイプの人間だった。

「ご……ごめんなさいっ!」
知らぬうちに自身が仲間に対して犯していた罪の重さに いたたまれなくなったのだろう。
瞬は、謝罪の言葉を残し、何かに追い立てられるように その場から走り去っていってしまった。
「瞬……!」
今度は迅速に、氷河が そのあとを追い、そのため 星矢は瞬のあとを追うことはできなかった。
「あ……あー……あーあ……」
瞬に悪気や害意がなかったことは わかっていたのに――。
予定外に瞬に つらく当たってしまったことに、星矢は、二人の仲間の姿が消えたラウンジで、ひどく後味の悪い気分を味わうことになったのである。
瞬に悪気がないように、星矢にも悪気はなかった。
それでも 星矢は――星矢も、瞬同様――罪悪感に似た思いに囚われてしまったのである。


だが、後味の悪い気分を味わってまで、星矢が瞬を責めた甲斐はあった――と言えるだろう。
その夜、星矢は ほぼ一ヶ月振りに、瞬のピンクに悩まされることなく 熟睡することができたのだから。
仲間の身を案じて、瞬は、ピンクの小宇宙を生む行為を自重してくれたのだろう――と、星矢は思ったのである。
日本国憲法第25条に曰く、
『すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する』
国連の世界人権宣言に曰く、
『人はすべて、生命、自由 及び身体の安全に対する権利を有する』
日本国が認め、国際連合が認めた権利は めでたく守られたのだ――と。






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