瞬は生きている人間だった。
俺の頼りない記憶の糸を辿ってみれば、確かに 瞬は、自分が幽霊だとは一度も言っていなかった。
『おまえは幽霊なのか』と問うた俺に、『氷河も?』と問い返してきただけで。
俺は、『氷河も?』と訊かれたから、瞬は幽霊なんだと思い込んだが、瞬は あの時、自分が幽霊だという事実を前提に『氷河も?』と尋ねたんじゃなく、自分が幽霊だと仮定したら『氷河も』幽霊なのかと問うただけだったんだ。
嘘をつくことのできる正直者の俺は、『そんなところだ』と答え、俺と瞬は 互いに相手を幽霊と信じるようになったというわけだ。

アソス島の城の隠し部屋にポセイドンが隠した宝というのは、瞬自身のことだった。
そこにアンドロメダ座の聖衣があったのは、ポセイドンも預かり知らぬことで、ポセイドンがアソス島に瞬を隠そうと思ったのは、『なんとなく、そこでなければならないような気がしたから』だったらしい。
もしかしたら、ポセイドンはアンドロメダ座の聖衣の意思に、自覚なく働かされていたのかもしれない。
アンドロメダ座の聖衣は、それほど瞬に――自らを まとう人に――会いたかったのかもしれない。
アンドロメダ座の聖衣に確かめることはできないから、すべては俺の想像にすぎないんだが。

ともかく、ポセイドンは、ある日、バルト海に面したドイツのハインシュタイン大公国に ハーデスの依り代たる人間がいることに気付き、その者の許に使者を遣わした。
そして、故国のため、世界の平和と存続のためと説得して、瞬をハインシュタイン大公国から連れ出し、この島に隠した。
姉にハインシュタイン大公位を譲るために 自分は故国を去らなければならないのだと考えていた瞬には、ポセイドンの指示は渡りに船のことだったのかもしれない。
生きている瞬が生き続けるために必要な食料や衣料、その他 生活に必要なものは、瞬の様子を確かめがてら、ポセイドンの手の者が定期的に島に届けていたのだそうだった。


そういうことを、俺は 瞬と共に帰還した聖域で 初めて アテナに知らされた。
それならそうと、なぜ最初に俺に言っておいてくれなかったんだ、この女神様は!
俺が、アテナの命令であれば それがどれほど無理無体な命令であっても喜んで働く他の聖闘士たちと違って、露骨に ふてくさった態度を彼女に見せたのが気に入らなくて わざと知らせなかった――とか、そんなところなんだろうが。
それにしたって、それは、事前に知らされているといないとでは、任務の成否が違ってくるかもしれないほど重要なことなのに、ったく。
いや、そんなことは、今となっては どうでもいいか。
すべては、良い方向に作用したんだから。

「では、俺は幽霊に恋したのではなかったのか」
「僕も――幽霊を好きになったんじゃなかったんですね」
聖域はアテナ神殿、玉座の間で、今はアンドロメダ座の聖闘士の資格を授けられた瞬が、そう言って俺を見詰めてくる。
『(幽霊 改め)俺を好きになった』
幾度聞いても いい気分になれる言葉だ。
瞬が俺を好きでいる――という言葉は。

「じゃあ、あなたは本当に、氷河を幽霊と信じて、氷河の前に姿を見せたの? 私は氷河の前に3度、合計5人の黄金聖闘士たちをアソス島に送り込んでいるのよ。その中の誰も あなたを見付けることができないまま、空しく聖域に戻ってきたというのに」
そうだったのか?
俺は そんなことは何も聞いてないぞ。
本当に、この女神様は大事なことを何も教えてくれない女神様だな。
事前に、これは黄金聖闘士にも成し遂げられなかった任務だと言ってくれていれば、俺も少しは張り切って幽霊探しの仕事に取り組んでいたかもしれないのに。
が、どうやら俺は、張り切っていなかったから、この任務に成功したのだったらしい。
今はすべての事情を知らされた瞬が 申し訳なさそうにアテナに告げた釈明を聞いた限りでは。

「すみません……。氷河の前に来た人たちは、みんな生きていて、ぴりぴりしてて、恐くて――。でも氷河はそうじゃなくて、それに……生きてる人がこんなに綺麗なはずはないって思ったから……」
俺の前に幽霊探しに出掛けていったアテナ命の黄金聖闘士たちは、アテナに下された重要な任務というので、さぞかし強い使命感に燃え、あの城に乗り込んでいったんだろう。
それでなくても きつい面構えの変人黄金聖闘士たち。
緊張感や使命感どころか殺気さえ まとっているような黄金聖闘士たちの様子に怯え、瞬はあの隠し部屋に震えながら隠れていたわけだ。
そして、俺は、黄金聖闘士たちとは逆に、やる気のなさが幸いしたわけだな。
それと、この美貌か。
言われてみれば、俺も瞬と同じことを考えて、瞬を幽霊だと信じたんだ。
“生きている人間が こんなに綺麗なはずがない”
だが、いるんだな。
生きているのに、こんなに綺麗な人間も。

「お互いに幽霊と信じて恋に落ちるなんて、あなた方、ほんとにユニークね」
自分のいい加減さが招いた結果を『ユニーク』の一言で片づけて、アテナは、
「瞬はハーデスには渡しません。瞬は聖域で、このアテナが庇護します」
と、偉そうに宣言した。
それは有難い。
有難いことは有難いが、だからといって 俺が ここで素直に『ありがとうございます』なんて言うと思ったら大間違いだぞ、アテナ。
俺は、聖域を統べる女神アテナに言いたいことが腐るほどあるんだ。

「最初にハーデスの依り代探しだと言ってくれていれば、俺は そんなユニークな真似をせずに済んだような気がするんだが」
どうだ。
俺の この遠慮深く控えめな口のききよう。
アテナの聖闘士としての立場をわきまえた大人な対応に、我ながら感動するぞ。
が、俺の健気なオトナ振りに、アテナは感動した様子も見せなかった。
感動はおろか、罪悪感も覚えていないような顔を、俺に向けてくる。
「あなたは そう言うけど、事は そう単純でもなかったのよ。ハーデスの依り代を見付けたポセイドンは、もちろん 地上をハーデスの意のままにされるのは嫌で、ハーデスの野心は阻止したかったのでしょうけど、私と全面的に手を組むのも不本意だったらしくて、私に 本当のことを詳細に教えてはくれなかったんですもの。ポセイドンは昔 私とアテナイの町を争って 私に敗れたことを いまだに根に持っているのよ。神としての面子もあったでしょうし、彼の本当の望みは、私とハーデスの共倒れだったでしょうね」

「面子で話をややこしくしないでくれ。幽霊を好きになってしまったんだと思い込んで、俺がどれだけ苦悩したか。瞬と結ばれるためには、俺も死んで幽霊になるしかないのかとまで思い詰めたんだぞ!」
どんなに好きでも、生者と死者では住む世界が違う。
寂しそうな瞬に心からの笑顔を浮かべてもらうためには、俺が瞬の住む世界に行くしかないのかとまで考えた俺の苦しみを、神の面子だの ユニークだの、そんなもので片付けないでほしい。
俺の怒声を聞いた瞬が、ぽっと頬を染める。
アナテを睨みつけながら、横目で瞬のその様子を見て、俺は つい顔が緩んでしまったんだ。
そこに、アテナの身も蓋もない一言。
「あなた、その幽霊に けしからぬことをしようとして、生きている人間だということがばれちゃったんでしょ。何が苦悩よ」
「ぐ……」

いや、確かに それはそうだが、それとこれとは話が別だろう。
別のはずだ。
一瞬 反駁の言葉に詰まった俺は、だが すぐに態勢を整え直し、再度アテナへの攻撃を開始しようとした。
そんな俺を、今度は瞬が邪魔をする。
「あの……僕も幽霊を好きになっちゃったんだと思って、悩んでたんです。氷河が生きている人間でよかった。僕、とても嬉しい」
瞬が、ごく控えめに 遠慮がちに そう告げたのは、そこがアテナの御前だったからというのではなく、そこに俺がいたからのようだった。
俺を見詰める瞬の視線が、可愛らしくも こそばゆい。

くそっ。
愛は闘争心を萎えさせる。
俺の目許と口許が またしても自然に緩み、その機を逃さず、アテナは しゃあしゃあと言ってのけた。
「ほんと、二人共、生きていてよかったわね!」
よくも そんなことを笑顔で言えるもんだと、俺は思った。
思いはしたんだが。
「はい!」
素直に、そして 心から嬉しそうに、瞬がアテナの言葉に頷くから、俺は それ以上 アテナにいちゃもんをつけることができなくなってしまったんだ。

本当は、アソス島から帰還した昨日のうちにアテナに事の経緯の報告をしなければならなかったのに、それを後まわしにして、俺は昨夜 瞬が生きていることを念入りに確かめ、俺たちが生きている喜びを 瞬と二人で味わい尽くし、貪り尽くした。
それでアテナへの報告を半日近く遅らせたという弱みも、俺にはあったからな。
「氷河、あなたもよかったわね。すべては私の的確な指示のおかげよ」
手柄顔で そんなことを言ってのけるアテナは癪でならなかったが、そこには、俺に その命のすべてを見せてくれた瞬がいて、俺は 瞬の前では滅多なことは絶対に言うわけにはいかなかった。
だから――俺は、瞬を不安にさせないために、
「私は本当に有能で心優しい女神だわ」
と、しつこく言い募るアテナに、
「はい。まったくアテナのおっしゃる通りでございます」
と良い子の返事をするしかなかったんだ。

アテナの聖闘士ってのは、本当に因果な商売だ。
生きていることは、試練と苦難ばかりが転がっている迷宮の中を進んでいくようなもの。
恋でもしていないことには、やっていられない。






Fin.






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