この冷たい海の底に、自分を誰よりも愛してくれた人が眠っている――自分が誰よりも愛した人が眠っている。
瞬も この地上にある姿は仮のもので、本当の瞬はきっと母の側にいるのだ――。
凍った海の上を走る冷たい風を受けながら、そんなことを考えていたことは憶えていた。
自分が どうやって厚い氷を割り 冷たい海の中に飛び込んだのかは、全く憶えていなかったが。
気がついた時、氷河は彼の家の寝台の上に横たわっていて、その傍らで瞬が泣いていた。

「どうして……どうして、こんなこと……」
「……」
瞬の言う“こんなこと”を、はっきり憶えていない――思い出せない。
氷河が かろうじて憶えているのは、冷たい水の中で懸命に、自分が 母と瞬を探し求めていたことだけだった。
二人の側に行きたい。
そこにこそ、自分の真の幸福があるのだと信じて。

「マーマのところに行けるかと思ったんだ」
「マーマのところ……って、海の底? それとも――今 氷河のマーマのいるところに? 氷河、まさか本当に死んでしまおうとしたの?」
「……」
瞬が『違う』という答えを期待していることはわかっていた。
だが、氷河は嘘はつけなかったのである。
自分とは違う世界で生きることを、瞬を恋する男に望んでいる瞬。
自分の本当の世界とは違うところに、瞬を恋する男の幸福があると信じている瞬。
その瞬に、氷河は、もはや己れの心を隠しておけなかったから。
「ああ」
「氷河……氷河は、そんなにマーマがいいの……」
瞬に、そんなふうに誤解されていることが つらくて苦しくて、その痛みに耐え続けることは もうできそうになかったから。

「マーマじゃない。マーマじゃなく――俺が一緒にいたいのは おまえだ。おまえは天国から来たんだろう? 死んでいるんだ。おまえと いつまでも一緒にいようと思ったら、俺が死ぬしかないじゃないか」
「え……?」
それは、瞬にとって それほど思いがけない告白だったのだろうか。
母を失い、たった一人で生きていく決意をしていた男が、突然 その目の前に現れた可憐な花に恋をする可能性を、瞬は ただの一度も考えてくれてはいなかったのか――。
涙で潤んだ瞳を大きく見開いた瞬を見て、氷河は、切なく苦しく そう思ったのである。

だが――だが、そうではなかったらしい。
瞬は、思ってもいなかった氷河の告白に驚いたのではなく――もちろん、そんな思いもあったろうが――瞬の瞳を大きく見開かせた驚きの原因は、別にあったようだった。
「ど……どうして、氷河、いつから そんな誤解してたの? 僕……僕、死んでないよ。僕は生きてるよ。ごはんも食べるでしょ!」
「い……生きている? おまえが?」
「うん」
「しかし、おまえはマーマの伝言を持って、天国から ここに来たと――」
「それは そうなんだけど……」

言葉も所作も すべてが快かった母と違って、瞬の言動は 時折 ひどく氷河の気に障る。
それは どうやら、氷河と瞬の感性の波長が少し ずれているからのようだった。
『おまえと いつまでも一緒にいようと思ったら――』
氷河の その言葉への反応が、今頃 瞬の顔に現れてくる。
目許と頬を ほんのりと上気させ 幾度も瞬きを繰り返してからやっと、瞬は、自分が天国から この地上にやってきた事情の説明を始めてくれた。

「氷河のマーマは とっても綺麗で優しかったから、氷河をたくさん愛した綺麗な人だったから、冥界の花園――エリシオンというところにいるの。僕は冥府の王ハーデスに 生きたまま さらわれて、そこで氷河のマーマに会ったんだ。氷河のマーマは、僕が生きてることを知ると、ハーデスに見付からないように 僕が元の世界に戻る手助けをしてくれた。エリシオンの花園の外に ジュデッカっていう建物があって、そこに飾る花を運ぶ櫃の中に僕を隠して、それで……。エリシオンは、神と神に選ばれた人しか入れない花園だけど、その花園の外に出られさえすれば、生きている人間は地上に帰ることができるんだよ。僕は 氷河のマーマに助けられて、うまく元の世界に帰ることができたんだ」
「生きたまま、冥府の王に さらわれた?」
いったい何のために?
氷河は そう尋ねようとしたのだが、瞬は そんなことはどうでもいいことだと考えているらしく、氷河の母の話を続けた。

「氷河のマーマは、僕を花の櫃に隠す時、一緒に行けたらどんなにいいかって言ってた。そして、必ず無事に逃げて、もし逃げおおせることができたら、私の氷河が幸せにしているかどうかを確かめてちょうだい――って、そう僕に言ったんだ。そして もし叶うことなら、私の伝言を 氷河に伝えて……って」
「マーマからの伝言……」
伝えるべきか否かを迷っていると、瞬が言っていた母の伝言。
それを――瞬は伝える気になってくれたのだろうか。
もはや氷河の心の中に、瞬の言葉を疑う気持ちは全くなくなっていた。
瞬は、母を知っている。
瞬は生きている。
母は死んでなお、息子が幸せでいるかどうかを気遣っている。
瞬が語る物語の中には、疑わなければならないようなことは何一つなかった。

「これが、マーマからの伝言だよ」
そう言って瞬は、氷河の唇に氷河の母のキスを伝えてきた。
「それから、『生きて、愛する人と幸せになって』って」
美しく優しかった懐かしい人と瞬。
誰よりも大切な二人の人からのキスを同時に受けて、氷河は 一瞬 気が遠くなりそうになった。
それは、白い蝶が一つの花の上に舞い下りたように軽やかな、ただ触れるだけのキスだったというのに。

「天国にいる人の伝言を地上世界の人に伝えるのは、本当はルール違反なの。僕が氷河のところに行って、氷河を知って、氷河を好きになったなら、氷河に“生きて 愛する人と幸せになって”ほしいと思ったら、マーマのキスじゃなく僕のキスとして、マーマの言葉じゃなく僕の言葉として、この伝言を氷河に伝えてって、氷河のマーマは僕に言った。それでルール違反じゃなくなるからって」
「これは、マーマのキスじゃなく おまえのキスで、マーマの言葉じゃなく おまえの言葉なのか」
それは、氷河にとっては とても重要なことだった。
だから氷河は、念を押すように瞬に尋ねたのだが、瞬は氷河に 氷河が望む通りの答えを すぐに はっきりと返してはくれなかった。
ただ 恥ずかしそうに困ったように幾度も瞬きを繰り返すだけで。

やはり自分たちは少し波長が ずれているらしい。
そう、氷河は思ったのである。
母と自分がそうだったようには、二人の波長は完全に調和していない。
だが、だからどうだというのか。
それぞれ 異なる場所で生を受け、それぞれ異なる場所で命を重ねてきた、生きている人間同士なら、それは当たり前のことである。
二人は違う人間――それぞれに独立した心を持つ、生きている人間同士なのだ。
ただ、二人は、互いに対して同じ願いを抱いている。

「俺に――生きて、愛する人と幸せになってほしいのか」
「うん……」
瞬が、今度は素直に、すぐに頷く。
ずれている二人の波長は、時折 綺麗に重なることもあるようだった。
生きている二人の人間が愛し合うということは、おそらく そういうことなのだ。
「それが、マーマとおまえの望みなら、俺は何としても叶えなければならん」

二人はもちろん、生きて 愛する人と幸せになりました。






Fin.






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