ロモノーソフ氏が帰国の途に就いたという知らせを、アテナの聖闘士たちが沙織から受け取ったのは、それから1週間後。
ロモノーソフ氏主催のパーティで知ることになった2つの大学の研究への資金援助を検討することにしたという報告と共に、その知らせは アテナの聖闘士たちの許に もたらされた。
もしかしたら もう二度と会うことがないかもしれない“肉親”に別れの言葉も告げず、彼は彼の世界に戻っていったらしい。
氷河は既に 以前と同じ傍迷惑な男に戻っていたが、彼のクローンの存在は 氷河の心にも些少ではない変化をもたらしたらしく、氷河は憂い顔で北の空を見詰めていることが多くなっていた。

そんな氷河の許に、レフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフ氏から 家紋の押された封蝋の大仰な手紙が届いたのは、彼の帰国から更に半月後。
その手紙には、ロシア語で、ロモノーソフ氏の驚くべき告白と決意が記されていた。


『私は、私が両親の実子ではなく、見知らぬ他人のクローンであることを知らされた時、君に対して どういう感情を抱くべきなのかを迷った。
何よりも、君が幸福でいてくれることを望むべきなのか、不幸でいてくれることを望むべきなのかを迷った。
その答えに辿り着けないまま渡日し、君に会い――幸福な君の姿を目の当たりにして、私は 即座に君の不幸を望むようになったのだ。
瞬に愛されている君が羨ましかった。
何があっても味方でいてくれる仲間がいる君が妬ましかった。
君が、死んでやってもいいと私に言った時、私が そうなることを全く望まなかったと言えば、それは明確に嘘になる。
私は、私のオリジナルたる存在が この地上から消滅することを、確かに望んだ。
だが、君に死なれてしまえば、私は君に対して、罪と負い目を負う。
それでは私は どうあっても、自分が君のクローンであることの卑屈を乗り越えることができないだろう。
君に会う以前、会っている時、ロシアに帰国してからもずっと、私は その方法を考えていた。
自分が君のクローンであることから生まれる卑屈の感情を乗り越える方法を。
考えて、考えて――私は ついに その解決策を見い出した。


「解決策?」
ロシア語で書かれた文面を 日本語に翻訳して 氷河に読み上げてもらっていた氷河の仲間たちは、いったいロモノーソフ氏は どんな解決策を見い出したのかと、首をかしげながら 互いの顔を見やることになったのである。
何者かのクローンではない彼等には、ロモノーソフ氏が氷河に対して感じてしまう卑屈の感情がどういうものであるのかを 実感として感じることができず、ゆえに、その解決策も思いつけなかったのだ。
せいぜい 理論上、理屈の上での解決策しか。
いったいロモノーソフ氏は どんな解決策を見い出したというのか。
氷河の仲間たちは、氷河に、手紙の続きを早く読むよう促した。
氷河が、その要望に応じる。


『君は、私に、死んでやろう――と言った。
君に死なれてしまったら、私は君への負い目を負うことになり、卑屈の念が強まるだけだと思った。
それは、つまり、君に死なれる(・・・・)からだ。
すべてのことが、君の手で為されるから。
だが、そうではなく、私自身が この手で君の命を奪えばどうだろう?
私が私の手で君を殺せば、私は君の命と運命を支配する神になり、卑屈や負い目を感じることはなくなる。
私が――私自身が、君の運命を握る神になればいいのだ。


「は?」
いったいロモノーソフ氏は何を言っているのか。
もとい、何を書いてきたのか。
彼の考え出した解決策を聞いて ぎょっとした顔になっている仲間たちに、氷河がロモノーソフ氏からの手紙の結末部分を読み上げる。


『そういうわけで、私は これから君の命をつけ狙うので、覚悟しておくように。
以上だ。
レフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフ  』


「……」
「……」
「……」
氷河がレフ・アントノヴィッチ・ロモノーソフ氏からの手紙を読み終えてから、たっぷり5分間、城戸邸のラウンジは、重いような軽いような、暗いような明るいような、いわく言い難い沈黙に覆われていた。
5分後、何とか気を取り直したアテナの聖闘士たちが、それぞれの思うところを披露する。

「なんか……割りと まともに見えてたけど、あいつ、やっぱ、氷河と同じ遺伝子でできてるんだなー。氷河と同じ、馬鹿の遺伝子。氷河はアテナの聖闘士だぜ。育ちのいい普通の人間ごときに殺せるはずねーのに」
というのが、星矢のコメント。
だが、育ちのいい普通の人間とはいえ、敵は氷河と同じ遺伝子を持つ者。
油断はならない。
そんなふうに、彼は一抹の不安を抱いているようだった。

「そんなことないよ。この手紙は、ロモノーソフさんの氷河に対する謝罪と優しさだと思うよ。あの人が本当に氷河を殺すことを考えていたりするはずがない……」
というのが、瞬のコメント。
『考えていたりするはずがない』に続くのは、『と、思いたい』という言葉。
人の心の優しさ、善良さを信じる瞬には、ロモノーソフ氏を疑うような言葉は口にできなかったのだろう。

「優しさでも狂気でも、氷河らしい馬鹿振りだ。感動した」
紫龍のコメントだけが、彼にしては珍しく、いかなる含みもない、ごく素直なものだった。

そうして、氷河は。
挑戦状ともとれるロモノーソフ氏からの手紙を読み終えた氷河の様子は、ほとんど緊張感のない、のんきなものだった。
彼は、まるで この状況を歓迎しているかのように
「喜んで、つけ狙われてやるさ。瞬、俺を守ってくれ」
と、甘えたことを瞬に言ってきた。
氷河が嬉しそうに目を細めたのは、ロモノーソフ氏からの手紙の最後に添えられた追伸文を読んだから。


『母とは、虚心に話し合い、彼女こそが私の ただ一人の母だということを再確認した。


その問題さえ解決すれば、氷河は、自身のクローンの存在意義や プライドのありようなど、どうでもいいことだったのだ。






Fin.






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