「私が氷河の攻撃を受けて倒れることになったなんていう馬鹿げた誤解を解くために、まず 私がアテナ像の下に倒れていた経緯を説明するわね」
アテナが彼女の聖闘士たちに そう宣言したのは、アテナ神殿 玉座の間。
アテナは彼女の玉座に腰をおろし、玉座に続く道の両側を固めるように黄金聖闘士たちが並んで立っている。
玉座のアテナの正面に、牢から引き出された白鳥座の聖闘士。
その後ろに、彼の仲間たち。
黄金聖闘士たちは、もし氷河が怪しい振舞いに及んだなら すぐに彼を阻止できるようにと、全身を緊張させていた。
彼等の女神が なぜ アテナ像の下に倒れていることになったのか、その経緯の説明を聞くうちに 黄金聖闘士たちの緊張は解けていき、最後に彼等は強大な脱力感に支配されることになっていったのだが。

「あの日、私は、妙な動画データを観てしまったの。ニチアサ――つまり、日曜日の朝に放映された日本の子供向けアニメーション作品だったらしいのだけど、それがもう 本当に とんでもなく荒唐無稽な代物だったのよ。時間を操ることができるらしい悪者が出てきて、その悪者が 正義の味方に、『自分の時間を止めて、原子の状態が変化しないようにすれば、自分は傷付かない』って言い張るのよ。小学生レベルの常識で考えても、そんなことあるわけないでしょう? 彼は、自分の外の世界の時間、自分の外の世界の運動エネルギーの存在を全く考慮していない。きっと彼の通信簿の物理の評価は常に最低評価だったと断言できるわね」
「それはまた実に荒唐無稽な暴論だ」
「ただの馬鹿だろう」

まさか ここで、女神アテナが日本のニチアサ・アニメを鑑賞することの非を唱えるわけにはいかない。
黄金聖闘士たちは、時間を操ることができるらしい悪者の でたらめ理論について、それぞれに思うところを述べた。
それは“理論”と呼べば、理論が怒って怒鳴り込んできそうな不条理、非合理――むしろ、非常識な主張だったが。
「でも、ほら、それがどんなに でたらめな主張でも、実証せずに馬鹿にするのは失礼でしょう? だから私は彼の主張の誤りを実証しようとしたわけ。食料冷凍貯蔵庫から 凍った肉の塊を持ってきて、アテナ像の上から、原子の凍った かちんこちんの肉を投げ落として、壊れないかどうか確かめようとしたのよ。ところが、冷凍貯蔵庫が寒くって、凍えちゃって、身体が思うように動いてくれなくて――私ったら、アテナ像の肩の上で足を滑らせて、凍った肉の塊と一緒に地上に落っこちちゃったの。凍えてたし、寝不足の日が続いてたし、ちょうどいい機会だから、このまま寝不足を解消しようと考えて、そこで そのまま寝ちゃったわけ」
「――」

なぜ そこで“ちょうどいい機会だから、このまま寝不足を解消しようと考えて、そこで そのまま寝ちゃった”りするのだと、言えるものなら言ってしまったのである、黄金聖闘士たちは。
しかし、黄金聖闘士たちは、アテナがそうすると決めたことに異議を唱えることはできなかった。
それ以前に、既に為されてしまったことに文句をつけても何にもならない。
アテナがそうすると決め、そうしたのだ。
黄金聖闘士たちは『左様でございましたか』と、アテナの報告を受け入れることしかできなかった。
立場上、アテナの決定と行動を非難することのできない黄金聖闘士たちにできることは せいぜい、彼女の実験方法の欠点を指摘することくらいのものだったのである。

「アテナ。聖域の食料冷凍貯蔵庫の設定温度は、せいぜいマイナス20度から30度程度のはずです。その程度の温度で、原子が動きを止めるわけがないでしょう」
「そんなことないわ。マイナス18度ほどで、肉は腐らなくなる。それって、肉の時間が止まっているようなものでしょう」
「肉の腐敗が進まなくなるのは、マイナス18度で肉の中の細菌が活動できなくなるからであって、肉の原子が動きを止めているわけでは――」
「それで、あの肉はどうなったの?」
詰まらぬ御託は聞く気もないと言った様子で、アテナが実験結果の報告を求めてくる。

「アテナの周囲に砕けた肉の破片や血痕が散らばっていたのは、そういうわけだったのか……」
紫龍が そう呟いたのは、アテナの質問に答えるためというより、彼の中にあった一つの謎が解け、彼自身が得心に至ったからだったろう。
紫龍の呟きを聞いたアテナが 我が意を得たと言わんばかりに満足げに大きく頷く。
「あ、やっぱり壊れたのね。そうよねえ。ある物体の時間を止めたって、外部から力が加えられれば、傷付くものは傷付く。壊れるものは壊れるわよねえ。ほんと、実験するまでもないことだわ」
『“実験するまでもないこと”と思うなら、そんな実験などしないでいてほしかった』と、今更アテナに訴えたところで、何がどうなるというのか。
黄金聖闘士たちは、許されることなら その場に へたりこんでしまいたいと思うほど、アテナに力を奪われてしまっていた。

「では、あのダイイング・メッセージは何だったんです。『氷河』と記されていた、あれは――」
同輩同様、自分の足で その場に立っていることが苦痛に思えるほど アテナに力を吸い取られてしまっていた水瓶座アクエリアスのカミュが アテナにそう尋ねることができたのは、彼が黄金聖闘士の中で特に強靭な精神力を備えている男だったから――ではなかっただろう。
ただ、彼の中には 他の黄金聖闘士たちにはない“白鳥座の聖闘士の師としての責任感”というものがあったのである。
アテナの説明を聞く限り、彼女の実験に白鳥座の聖闘士は無関係である。
アテナの説明を聞く限り、彼女は彼女の実験を、誰の手も借りずに やりおおせたようだった。
にもかかわらず、アテナが その死の間際――もとい、就寝の間際――氷河の名を記したのはなぜなのか。
その点に関して、カミュは納得のいく説明がほしかったのである。
カミュに問われたアテナは、突然 意味ありげな視線を カミュの弟子の上に投じた。

「ああ、あれは――凍った肉の塊を地面に叩きつけようとして 自分も一緒にアテナ像の肩から落っこちちゃった時、その落下途中に、私、見ちゃったのよ。瞬の部屋の窓を切なげに見上げて、今にもセレナーデを歌い出しそうにしている氷河の姿を」
「は?」
ここは、『何という卓越した動体視力。さすがはアテナ!』と、アテナを称賛すべきところだろうか。
そうだったとしても、今のカミュには、彼が為すべきことを為すだけの力が既に残っていなかった。
「これまで気付かずにいた自分の迂闊に腹が立って、よく隠しおおせたものだと感心して――」
「で……では、氷河の名を書き残したのは――」
残されていた最後の力を振り絞って、カミュがアテナに尋ねる。
アテナは、真面目な顔で答えてきた。

「せっかくの大スクープ、少しでも早く 皆に伝えなければと考えて、私は『氷河瞬』と書き残そうとしたの」
「氷河瞬――『氷河にこんな目に合わされた』では……」
「『氷河にこんな目に合わされた』? その文章は どこから思いついたものなの? そうじゃないわ。氷河の名はちゃんと書いたのだけど、瞬と書き終える前に、寝ちゃっただけ」
「はあ……。“瞬と書き終える前に、寝ちゃっただけ”、ですか……」
黄金聖闘士たちの精神力と体力は、既に限界に達していた。
力のすべてをアテナに奪われ、もはや いかなる力も残っていなかった彼等が、その場に倒れ伏すことがなかったのは、もしかしたら彼等が 自分の時間を止めるという超不条理技を会得したからだったのかもしれない。
その点、アテナに振りまわされ慣れている青銅聖闘士たちの精神力は頑強である。
アテナの事情説明に呆然自失の黄金聖闘士たちを尻目に、青銅聖闘士たちは彼等だけで勝手に盛り上がり始めてた。

「何だよ、そういうことだったのかよ!」
「どうして 俺たちに言ってくれなかったんだ。水臭いではないか。そうと知っていれば、俺たちは、いくらでも おまえの恋を成就させるために協力していたのに」
「じゃ……じゃあ、反逆者の汚名を着せられても、氷河が迷惑をかけたくない大切な人っていうのは――」
「おまえ以外にいるわけがないだろう」
「氷河……」

アテナに持てる力を奪われ、自らの時間を止めてしまっていた黄金聖闘士たちは、瞬の感動の涙を知覚することができていたのかどうか。
「僕、氷河を信じてたよ。信じてた……!」
「瞬……」
アテナの御前で 堂々とラブシーンを演じ始めた白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士を制する黄金聖闘士が一人もいなかったところを見ると、おそらく その時、黄金聖闘士たちは既に生ける屍となり果てていたに違いなかった。
自分の時間を止めるということは、つまり そういうことなのである。
生ける屍状態から復活するのに、黄金聖闘士たちは3日以上の時間を要したのだった。



氷河と瞬が めでたく聖域公認のカップルになったことと アテナの睡眠不足解消を祝して、アテナが問題のニチアサ・アニメーション作品の上映会を開催したのは、それから1週間後。
アテナ神殿のファサードに野外大スクリーンを設置して、それは行われた。
上映作品は、『聖闘士星矢α 第80話 時の王! 絶対零度の凍気!』
あまりに不条理、あまりに荒唐無稽、あまりに非常識、無茶にも程がある、その設定、その展開。
絶句し、呼吸困難になりながら該当作品を鑑賞していた黄金聖闘士たちは、僅か25分間のその作品の上映が終わるなり、 ばたばたと その場に倒れていった。

アテナの聖闘士の頂点に立つ最強の黄金聖闘士たち――いかなる死地からも必ず生還してきた聖域最強の黄金聖闘士たちは、はたして 強大無比な力を持つ日本のニチアサ・アニメの衝撃から復活することができたのか。
それは聖域の極秘事項であるため、誰も知らない謎となっているのだが、その上映会以降、生きている黄金聖闘士の姿を見た者は、この地上世界に ただの一人もいない。






Fin.






【menu】