そんなふうに、瞬と瞬の身体に なだめられて 氷河が不機嫌を忘れるのは、画家の目から解放されれば 瞬の体の不調が消え去ることと同じだった。 その時には 確かに、氷河は不機嫌を忘れる――瞬は元気になる。 だが、画家の視線のせいで瞬の頬から血の気が失せ始めると、またぞろ氷河の機嫌は悪化する――瞬もまた、意識を保っていることが困難になる。 下絵作業が終わり、画家が彩色に入ると、作業を開始してから 具合いが悪くなるまでのモデルの時間は更に一層 短くなっていった。 縦70センチ強、横50センチ強。 小品ではないが、大作でもない、肖像画としては標準サイズの絵。 瞬の肖像画を描いている画家は、いつまでも作品を完成させることをしないレオナルドではない。 まして、おおよその納品日は 契約によって定められている。 画家がカンバスに向かい始めてから 約一ヶ月後。 瞬を描いた肖像画は、ほぼ完成していた。 画家に見詰められ 具合いが悪くなり、その作業をやめると回復。 そんな瞬に苛立つ氷河を懸命に なだめながら過ごした一ヶ月。 瞬にしてみれば、それは苦難と試練の一ヶ月だった。 肖像画は ほぼ完成している。 だが、画家は、肖像画を なかなか完成させなかった。 “ほぼ完成”というところまできて、画家の手は止まってしまったのである。 画家は、瞬とカンバスを見詰めながら、絵筆を手に持つこともせず、何事かを考え込むことが多くなっていた。 その間も、画家は瞬を見詰めたまま。 そんな状態が既に3日。 画家が絵筆を手に持たなくなって4日目の午後、瞬は画家の前で ついに意識を失った。 椅子に腰掛けていた瞬の上体が ぐらりと大きく揺れる。 「瞬!」 倒れる直前に瞬の身体は氷河の腕に掴まれ、支えられていた。 瞬の名を呼ぶ氷河の声で、画家は我にかえったらしい。 「す……すみません、僕――」 氷河の腕の中に収まっている瞬を見やり、画家が おろおろする。 画家は、正しく、おろおろしていた。 どうすればいいのかが わからず、わからないので何もしない。 氷河の腕の中にいる瞬を見て、その場で瞳を落ち着きなく動かしているだけ。 本当に、何もできずにいる。 こんな男のどこに、瞬に意識を失わせるだけの力があるのだと思うほどに、氷河の苛立ちは大きく激しくなった。 「絵は、もう完成しているんじゃないのか!」 画家を、氷河が大声で怒鳴りつける。 肖像画が まだ完成していないことは、氷河にもわかっていたのだが。 カンバスの中の瞬の瞳には輝きがない。 画家は、肖像画の瞬の瞳に色を入れることができないでいるのだ。 「……本当に、すみません。でも、瞬さんの目――瞬さんの持っている力が強すぎる。どうしても、画布に写し取れた気がしなくて……」 瞳に 正しい色を入れることができないと、絵は完成しない。 この数日、画家は 瞬の瞳を どう描けばいいのか、それだけを迷っていた。 それは、氷河にもわかっていた。 わかっているから責めることもならず――氷河は、おろおろしているばかりの画家を無言で睨みつけたのである。 画家のために、氷河は そうした――怒鳴りつけたいのを我慢して そうしたのに、それがよくなかったのかもしれない。 「わからない。峻厳なのか、慈愛なのか、恋なのか、友情なのか、人類愛なんだろうか……だが、それとも違う気がする……」 氷河の睥睨は 画家に多大なストレスを与えることになったらしく、彼は、そのストレスの重圧から逃れるためか、まるで氷河に弁解するように ぶつぶつと独り言を呟き出した。 そんな画家に舌打ちをして、氷河が大声で画家を怒鳴りつける。 「全部だ、全部。世界も、人類そのものも、仲間も、我儘な恋人も、馬鹿な画家も、瞬はすべてを愛し、受け入れ、許す。瞬が顧みないのは自分自身だけだ。俺だけを見ていればいいのに、瞬は絶対にそれをしない。瞬にはそれができないんだ!」 おろおろしているだけの画家に苛立っているのか、恋人だけを見詰めていれば幸せでいられるのに そうしない瞬に苛立っているのか、あるいは、瞬の目を恋人にだけ惹きつけておけない自分という男に苛立っているのか――氷河自身にも それはわかっていなかった。 だが、それは、画家を責めるための言葉ではなく、画家の疑念に答えを与えるための怒声でもなく、常日頃から抱いている瞬への不満、あるいは 自分自身への不満の吐き出しだった――そうなってしまっていた。 氷河の その怒声を聞いた画家が、突然 その瞳を輝かせ始める。 「全部……全部……? それが瞬さんの欠点か!」 つい先ほどまでとは 打って変って、画家の声は 妙に力強いものに変化していた。 それは独り言というより歓声だった。 「なに? なぜ それが――」 なぜ それが瞬の欠点になるのか。 氷河は これまで、それを瞬の欠点だと思ったことはなかった。 そんな瞬を もどかしく感じたことはあったが、欠点だと思ったことはない。 だが、画家は、氷河とは違う考えを抱いているらしい。 「一人の人だけを愛することができない……それが欠点でなくて何なんだ……!」 突然 すべての迷いが消えたように 生き生きしてきた画家に、氷河は あっけにとられてしまったのである。 「瞬さん。瞬さん、目を開けてください。絵は、今日中に仕上げます。もう一度だけ、あなたの瞳を僕に見せてください!」 唖然としている氷河を無視して、画家は、氷河の腕の中にいる瞬に懇願し始めた。 画家のその様子を見て、氷河は真面目に腹が立ってきてしまったのである。 「貴様、まだ懲りてないのか!」 「大丈夫だよ、氷河……。ウィレム、描けそうなの……?」 画家の懇願が聞こえたのか、氷河の怒声のせいなのか――いずれにしても、耳元で 画家と氷河に騒ぎ立てられて、瞬は おちおち意識を失ってもいられなかったのだろう。 やっと迷宮の出口を見付けることができたらしい画家のために、瞬は氷河の腕から逃れ出て、元の場所に戻った。 画家は瞬の瞳を見詰め、氷河は、瞬に そんな無理をさせる画家を睨みつける。 画家のためにも、氷河のためにも、瞬は今は倒れるわけにはいかなかった。 その思いが、瞬に小宇宙を生ませたのかもしれない。 もちろん、アテナの聖闘士である瞬は、常に その心身に小宇宙をたたえているのだが、平生以上に――まるで強大な力を持った敵に対峙した時のように――瞬は、(おそらく無意識のうちに)わかる者には わかるほど 強く はっきりと その小宇宙を燃やした。 だから、わかったのである。 氷河にも、瞬自身にも、アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙が、生まれる側から 画家に奪い取られていっていることが。 カンバスの上で絵筆を走らせ始めた画家も、小宇宙らしきものを燃やしていた。 その小宇宙らしきものが、絵を描くように瞬の小宇宙の色を、気配を、別の色に染め変え、それが そのまま画家の小宇宙になっていく。 画家は、瞬の魂ではなく、瞬の小宇宙を奪っていた。 否、小宇宙の性質を変え、彼自身のものとして、彼自身の中に取り込んでいた。 「何ですか、これ……」 もちろん、小宇宙は目に見えるものではない。 しかし、自分の周囲で何かが起きていることは、画家にも感じ取れているらしい。 強くなく、大きくなく、性質が異質な画家の小宇宙。 それが、瞬から どんどん小宇宙を、生気を、力を奪っていく。 画家が瞬を弱らせていることは明白だった。 「貴様、邪神の手先かっ!」 画家の小宇宙は異質だが、弱い。 瞬の小宇宙を変質させる画家の小宇宙の力以上の小宇宙で、その力を捻じ伏せることはできる。 そう考えて、氷河は――氷河もまた、その小宇宙を燃やし始めた。 「これは……氷河さんまで……」 画家が、氷河の小宇宙に驚きの声を洩らす。 つまり、それは、画家が氷河の小宇宙を感じ取れているということ。 画家が、アテナの聖闘士に害を為す敵だということだった。 「貴様、よくも、瞬を……!」 怒りに燃えた氷河が、ためらう時間も惜しいとばかりに、オーロラサンダーアタックを打つ態勢に入る。 「瞬は貴様を信じていたのに、よくも瞬の心を裏切ったな! 食らえ、キグナスの凍気、オーロラサンダーアターッ」 「はい、ストップ」 怒り心頭に発し、そこが室内であることも考えていない氷河によって放たれかけた白鳥座の聖闘士の拳に、直前でストップがかかる。 氷河の拳を止めたのは、地上の平和と安寧を守る戦いの女神アテナ。 彼女が ふいに その場に現れたせいで、氷河は『ク』を叫び損ねた。 |