そして、その週末。面接日当日。 亡き父母が残してくれた、小さな庭のある こじんまりとした二階建ての家で、瞬は、朝から客人を迎える準備に余念がなかった。 いちばんいい お茶のセットを棚の奥から出し、紅茶も上等のものの封を開けるつもりでいるらしい。 十中八九、恋と友情の区別もつかない瞬が 押しの強い女に迫り倒されて、本日の面接の運びとなったに違いないと思っていただけに、一輝は、瞬の気合いの入りように、意外の念を抱いたのである。 これでは、『気に入らん』と言って追い出しにくいではないか――と。 「瞬。今日の その客、場合によっては おまえにふさわしくない相手と判断して、早々に お帰り願うことになるかもしれん。そう 念入りに もてなす必要は――」 「僕にふさわしくないだなんて……。その逆なら、あり得ないことじゃありませんけど。おいしいケーキを買って持っていくって 言ってくださったんです。お茶菓子の用意とかには気を遣わないでって。だから、せめて お茶は 上等のを出したいんです」 例によって、兄の言うことには逆らわず(逆らった印象を感じさせず)、自分の意思は きっちり通す。 瞬は、どこから調達してきたのかレース状になっている砂糖を切り分けながら、兄に そう言ってきた。 「ほう。高校生にしては、礼儀は心得ているようだな。気配りもできる子のようだ」 「はい。兄さんとは知らぬ仲じゃないって言ってましたし、兄さんの お眼鏡に適わないということはないと思います」 「俺と知らぬ仲ではない? 俺の知っている奴なのか? 今日来るのは、どんな奴なんだ」 「とっても綺麗で、優しくて、強くて、ダンスが得意なんです」 「――綺麗で、優しくて、強くて、ダンスが得意?」 一輝が眉をしかめることになったのは、彼が そういう人間に全く心当たりがなかったからだった。 一輝は、現在 瞬が通っている高校を、瞬と入れ違いに卒業した。 現在は剣道のスポーツ特待生として、某大学に通っている。 その一輝を知っているということは、昨年度時点で 既に高校に在学していたということで、つまり、今は2年生か3年生。 今日の客人は瞬より年上ということになる。 それで反対するわけにはいかないし、人を信じやすい瞬には、年上のしっかりした彼女がついている方がいいのかもと思わないでもないが、それにしても心当たりが本当にない。 “知らぬ仲ではない”という表現は、二人のうちの片方が一方的に相手を見知っている場合にも用いられる表現だろうかと、一輝が国語について悩みだした時、玄関のチャイムの音がキッチンに届けられた。 「あ、もう約束の時間になってたんですね!」 レース・シュガーを切っていた瞬が、ハサミをテーブルの上に置いて、慌てて玄関に駆けていく。 一輝は、音を立てないように注意して、キッチンから客間に移動した。 「いらっしゃい!」 玄関のドアが開けられ、瞬が客人を家の中に招き入れる気配。 おそらく客人に気取られることなく無事に客間のソファまでの移動を果たした一輝は、そうして そこで、自分が妙に緊張し、心臓の鼓動も いつもより少々早めになっていることに気付いたのである。 これから彼が会う相手は、弟のカノジョ候補にすぎないというのに。 「こちらへどうぞ。兄さん、いらっしゃいましたよ」 「うむ」 面接官が緊張していることを、採用希望者に悟られるわけにはいかない。 一輝は、殊更ゆっくりした動作で、自分を落ち着かせるために頷いた。 一度 ごくりと唾を呑み込んでから、あまり興味はないふうを装うために、意識して視線を曲線的に客間のドアの方に移動させる。 一輝の視線が客間のドアに辿り着くのと、瞬のカノジョ候補が 最初の一歩を客間の中に踏み入れた時が ほぼ同時。 「はーい、一輝。お久し振り〜!」 あまり広くはない客間に木霊を作って響く、やけに馴れ馴れしい女の声。 瞬の兄と“知らぬ仲ではない”その人物の正体を知った途端、一輝は、視線を客間のドアの一点に据えたまま、その心身を硬直させてしまった。 「あんたに、こんな可愛い弟がいるなんて、あたし、ちっとも知らなかったわ。ほんと、知ってびっくりよ。全然 似てないじゃないの。弟の方が兄貴の百倍も可愛くて、弟の方が兄貴の千倍も素直! あんた、弟の育て方は完璧だったのに、自分の育て方を間違えちゃったのね。ご愁傷様」 「……」 そこにいたのは、長い金髪の女だった。 身に着けているものは、正気を疑いたくなるほど短いスカートなのか、それとも それは丈が長めのチュニックにすぎないのか。 スパッツが濃い色のものなら まだ救いもあるが、それが肌の色と同じものであるために、とんでもない姿に見える。 彼女が人に見てもらいたいのは、服ではなく、その脚線美 及び プロポーション。 すべての目的が そこにある、正気の沙汰とは思えない その恰好を、彼女は もちろん正気でセレクトしてきた――少なくとも、着替えの途中で 慌てて家を出てきたのではない――。 そういったことを 瞬時に考え 判断できる程度に、一輝は彼女を 確かに知っていた。 「お二人が お知り合いなら、改めて紹介するのも おかしな話ですけど、こちらがジュネさんです」 「……」 できれば、最愛の弟に こんな女を改めて紹介などされたくはなかった。 したり顔のジュネを見て、一輝は まず最初に そう思ってしまったのである。 もちろん、一輝は彼女をよく知っていた。 一輝より1学年下。現在は3年生。 一輝が高校在学中には、チアリーダー部のキャプテンとして、散々 一輝を 手こずらせてくれた難物、障壁、障害物、邪魔者、厄介者、隘路、眼中の釘、目の上の たんこぶ ならぬ 目の前のたんこぶ。 彼女は、一輝にとって そういう存在だった。 「しゅ……瞬。おまえが正式な お付き合いをしたい相手というのは、このふざけた女のことかーっ !? 」 一輝は、絶望のあまり、“天も裂けよ、地も割れよ”と言わんばかりの大絶叫で客間全体を震わせてしまったのである。 「ふざけた女……って、ジュネさんがですか?」 兄の取り乱した姿というものを これまで見たことがなかった瞬は、口角泡を飛ばして 雄叫びをあげる兄の様子に驚き、その瞳を大きく見開いた。 「他に誰がいるんだ、他に誰が! この女ほど ふざけた女を、俺は知らんぞ! この女は、アメフトだの 野球だの バスケだの、メリケンから流れ込んできたバタくさい競技だけで満足しておけばいいものを、何をとち狂ったか、我が国古来の伝統ある武道であるところの剣道の大会に、チアリーダー部の女共を引きつれて応援に行くと言い張り、剣道部を恐怖と混乱のるつぼと化してくれた、超傍迷惑女だ! この女の我儘を阻止するのに、俺がどんなに苦労したか! それこそ、聞くも涙、語るも涙の大騒動だったんだぞ!」 「ああ、そのこと」 憤怒と悲嘆の入り混じった複雑怪奇な表情を作っている兄に、瞬が普段と変わらず やわらかい笑みを向けてくる。 微笑のまま、瞬は、兄ともジュネにともなく こっくり頷き返してきた。 「そうなんです。僕、今度、ESS部の部長さんの推薦で、英語弁論大会の東京大会に出場することになったんですけど、その大会のことを知ったジュネさんが応援に行くって言ってくださって、それは困るって言うESS部の部長と言い争いになって――僕、お二人の執り成しに入って、それでジュネさんと知り合ったんです」 ジュネは、相も変わらず 無茶を言って、周囲に迷惑と面倒を振りまいているらしい。 一輝は、憤怒と悲嘆の上に ESS部部長への同情の念を重ね、ふざけた女の ふざけ振りを難詰した。 「英語の弁論大会で、貴様が恥ずかしい踊りを踊ったら、それだけで我が校は失格になるだろう。瞬! こいつは、人前で足を振り上げて踊りを踊れるなら、他のことはどうでもいい女、TPOというものを全く わきまえていない超傍迷惑女だ。こんなのと 本気で付き合いたいと思っているのか、おまえは!」 「兄さん、そんな言い方は……。ジュネさんは、優しいだけでなく、強い意思を持っていて、思い遣りに満ちている素晴らしい人ですよ。シュネさんは、一生懸命 努力している人を応援して 力づけてあげることが生き甲斐なんだそうです。それって、本当に素敵なことだと思うんです」 「だから、それが傍迷惑だと言っているんだ、俺は!」 なぜ、それが瞬にはわからないのか。 わからないのが瞬なのだということは わかっていても、一輝は怒鳴らずにはいられなかった。 そんな兄弟のやりとりの間に、ジュネまでが勢いよく乱入してくる。 「なによ、一輝。あんた、あたしが瞬とナカのいいオトモダチになることに、何か 問題があるとでも言うつもりかい!」 「ないというつもりか、貴様はーっ !! 」 「問題なんか 一つもないだろ。あたしは、美人だし、スタイル抜群、頭もいいし、統率力もあって、面倒見もいい。チアリーディングの全日本高校選手権大会で、ウチのチアリーダー部を優勝に導いた実績の持ち主。現時点で、7つの大学、6つの芸能プロダクションからスカウトの声がかかっている、未来の大スターなのよ!」 「そんなことは、実際に大スターになってから自慢しろ! 今の貴様は、周囲に迷惑を振りまくことしかできん、ふざけた馬鹿女にすぎん!」 「馬鹿はどっちよ、馬鹿は! こうなったら、ほんとのこと教えてあげるけど、去年の全国選抜本大会の剣道男子個人決勝で あんたが優勝し、高校日本一になれたのは、このあたしのおかげなのよ!」 「何を言う! あの大会は、俺の必死の努力の甲斐あって、貴様と貴様のチアリーダー部は応援にくれなかったはずだ!」 「そうよ。でも、どうしてもウチの生徒を応援したかった あたしは、チアリーダー部とは関係なく、個人で会場に出掛けていって、あんたの決勝の対戦相手に、この あたしの魅惑の太腿を ちらちら見せてやったのよ。そしたら、あの助平高校生、対戦中だっていうのに、しっかり あたしの太腿を見て、油断して、それで、あんたに面を1本取られたのよ」 「な……何を世迷い言を……。我が国古来の伝統ある武道であるところの剣道の全国大会決勝にまで勝ち上がってきたほどの男が、貴様の太腿ごときに――」 「ええ。さすがに、我が国古来の伝統ある武道であるところの剣道の全国大会決勝にまで勝ち上がってきたほどの男よね。試合中も周囲に神経を行き渡らせ、あれだけの観客がいる中で、このあたしのスカートの短さと太腿の素晴らしさに気付くなんて、普通の男にできることじゃないわ。でも、あいつは気付いた。証拠もあるわ。あんたの高校日本一のタイトルは、私の太腿のおかげで手に入ったタイトルなのよ」 「そ……そんな馬鹿な……」 「嘘だと思うなら、あとで見せてあげるわよ。あんたの決勝の対戦相手から あたし宛に届いた、交際申し込みのメールを!」 「そんな……そんな馬鹿な……そんなことが……」 「に……兄さんっ!」 「あら、一輝。あんた、てんかんの持病でも持っていたの?」 顔を真っ赤にして泡を吹き、その場に ばたーんと倒れてしまった一輝を、修行が足りないと言って責めることは、誰にもできないだろう。 結局 その日の面接は、面接官のリタイアによって急遽中止。 ショックで床に伏してしまった兄に、 「あんなのと付き合ったりしたら、おまえは振り回されるだけ振り回されて 疲れ切り、最後には、おまえ自身が潰れてしまうことになる。ジュネが悪意のない奴だということは わかっているが、その悪意のなさこそが、人から力を奪い、疲れさせ、破滅に追い込んでしまう悪魔の力だ。それは、おまえのためにも、ジュネのためにもよくない。おまえは、もう少し 大人しくて常識をわきまえた人間と付き合う方がいいんだ。ただの友だちなら、俺も何も言わんが、ジュネと 正式な お付き合いをするのだけはやめておけ。いや、兄のために やめてくれ」 と泣きつかれ、瞬はジュネとの正式な お付き合いを断念せざるを得なくなってしまったのだった。 |