それで めでたしめでたしとなったら、地上世界にアテナの聖闘士はいらない。 氷河と瞬の心が通じ合っても、地上を見舞っている氷河期の危機は消え去らない。 願うべきではないことをハーデスに願ってしまったことへの罪悪感もまた、瞬の中に わだかまったままのようだった。 「でも、それは夢だろ。ただの夢。お偉い先生方だって、これは地球温暖化のせいだって言ってる。この件にハーデスは無関係。おまえの考えすぎだって。ハーデスは、アテナと俺たちが倒したんだ。もし ハーデス以外の邪神が暗躍を始めたっていうのなら、アテナが気付くはずだし」 瞬の状態が“頬に少しずつ血の気が戻り始めた”以上の回復を見せないのは、第一に、この地球の低温化が アテナの聖闘士の軽率な願いを受け入れた邪神によるものなのではないかという、瞬自身の懸念のせい。 そして、邪神の関与の真偽にかかわらず、アンドロメダ座の聖闘士が そんな願いを願ってしまった事実。その事実への自責の念、罪の意識。 それらが半々といったところだったろう。 前者は、その懸念が懸念にすぎないことがわかれば解消される。 しかし、後者は、自身を許すにしても、何らかの形で贖うにしても、瞬が自分で自分の気持ちを整理し納得することでしか解決できない問題である。 そう考えて――瞬の仲間たちはまず、瞬以外の人間にも解決できる前者の問題を片付けるため、瞬をアテナの許に連れていった。 「あなたにしては、軽率な願いを願ったものだこと」 事の経緯を聞いたアテナは、開口一番に そう言った。 アテナに そう言われてしまっては、瞬も いたたまれない。 瞬は、アテナの前で身体をすくめ、項垂れた。 が、瞬の仲間たちは、それで かえって安心したのである。 アテナは邪神の関与に対する懸念を解消するだけでなく、瞬の中の罪悪感をも消し去ろうとしているのだということを察して。 女神の前で身体を縮こまらせた瞬を、アテナは しばらく無言で見詰めていた。 やがて、短い吐息を一つ洩らして、 「でも、あなたの見た夢は ただの夢でしょうね。邪神の気配は感じられないわ」 と告げる。 アテナにそう言われても、すぐには安心しきれずにいるらしい瞬に、アテナは重ねて言った。 「大丈夫。まもなく、世界の気候は あるべき状態に戻ります」 その声には自信が満ちていて、聞く者に、アナテは この地球の低温化の原因を知っているのではないかと、感じさせる力強さを たたえていた。 その原因が邪神でないのなら、何なのか。 当然、アテナは その原因について説明してくれるものと、彼女の聖闘士たちは思ったのである。 残念ながら、アテナは それを彼女の聖闘士たちに語ってはくれなかったが。 だが、だからこそ――アテナが その原因に言及しないからこそ――アテナの聖闘士たちは思わないわけにはいかなかったのである。 『では、これは やはり、彼女の愛する人間たちが引き起こした事態なのだろうか』と。 邪神も 瞬の夢も 関係ない。 お偉い先生方が言うように、これは、自分の益しか考えられない我儘な人間たちの生の営みが招いた当然の結果なのだと。 人間の一人としても、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士としても、アテナに『そうなのか?』と確かめることは心苦しく、アテナの聖闘士たちは アテナの前で口を閉ざすことしかできなかった。 「ほ……本当に? 本当に、この地上に春が来ますか?」 瞬が 念を押すようにアテナに尋ねたのは、彼が どうしても地球低温化の原因を知りたいと思っていたからではなかっただろう。 かといって、瞬が 結末だけを求めていたからでもない――『終わり よければ、すべて よし』と考えているからでもない。 たとえアテナに、この地球規模の低温化は 邪神のせいでも、アンドロメダ座の聖闘士の夢のせいでもないと言ってもらえても――瞬は、この件に関して、罪悪感だけでなく責任感のようなものも抱いていたのだ。 沙織が、ゆっくり深く頷く。 「ええ。私が請け合うわ。それから、氷河。瞬がこんなに不安でいるのは、寒さや邪神や不気味な夢のせいではなく、あなたのせいよ。夏が来ても シベリアには行かないと、瞬に約束してあげなさい」 「それは もちろん――夏が来ても、俺は瞬の側にいると約束するが……」 「よろしい。そして、瞬。あなたも反省しなさいね。今回は ただの夢だったからよかったけれど、次も ただの夢とは限らない。あなたの軽挙が、地上世界と すべての人間を滅ぼしてしまうことも 絶対にないとはいえないわ。あなたには――いいえ、あなたに限らず、人間は誰でも、実はたった一人で この世界を滅ぼしてしまえるだけの力を持っているのよ。自分以外の人間の心を思い遣ることを忘れた途端、人は その力を手に入れる。そのせいで 世界と人類が滅びたとしても、それは人間の自業自得。私は同情もしなければ、救いの手を差しのべることもしないわ」 「は……はい……!」 情け容赦なく峻烈な沙織の言葉に――否、アテナの言葉に――瞬が、これ以上ないほど心身を緊張させて頷く。 夏が来てもずっと側にいるという氷河の約束と、沙織の呵責なく激しい叱咤。 そのどちらが より瞬の心を安らかにしたのかと問われれば、それは どう考えても後者――としか思えなかったのである、瞬の仲間たちには。 アテナの厳しい言葉は、瞬に のんきに罪悪感に浸っていることを許さないものだったから。 突然 地鳴りのように大きく低い音が アテナの聖闘士たちの耳に届けられたのは、まさに その時。 それは、城戸邸の屋根の上の大量の雪とツララが融け、一斉に地面に落ちた音だった。 その日から、日本と北半球は 春に向かう活動を再開し、世界は例年通りの気候に沿って動き始めたのである。 |