「氷河……?」
氷河の身体が――正しくは、偽のアルビオレの身体と 氷河の心が――ぎくりと強張る。
「氷河でしょう?」
問いかけるように 瞬が その名を口にするところを見ると、瞬の目の前にいる男の姿形は、瞬の師のそれであるらしい。
氷河が瞬の師に化け損なっているわけではないらしい。
では、瞬は どうやって、偽アルビオレの正体を看破したのか。
その訳はわからなかったが、ともかく 氷河には瞬の言を否定することはできなかった。
氷河が無言でいる様を見て、瞬が ほうっと短い吐息を洩らす。

「そんなことがあるはずないって思ったんだけど、アルビオレ先生の目が――僕を見ている眼差しが 氷河のそれと まるで同じだったから……。まっすぐで、優しくて、もどかしげで、切なげで――氷河でないなら、氷河と同じ心を持った人だと思ったの」
「いつから……」
いつ、瞬は気付いたのか。
いつから 偽者の正体は ばれていたのか。
その短い呟きが、ここにいる男が その外見通りの人間でないことを認める一言になってしまったらしく、その瞬間に、氷河の変身は解けてしまった。
視線の高さが 数センチ低くなったことで、氷河には それがわかった。

眼の前で あり得ない変貌劇が展開されたというのに、瞬は動じた様子も見せない。
思った通りだったと、瞬は 逆に安心したようだった。
そんな瞬に、氷河は平謝りに謝ることしかできなかったのである。
「す……すまん。騙すつもりはなかったんだ。いろいろ事情があって――俺はおまえが好きでたまらないが、俺の恋は特殊で、気軽に好きだと告白しにくくて……。告白する前に、おまえの気持ちを確かめようと思ったんだ」
「それで、調査のためだなんて言ったの」
「おまえには、俺の思いは迷惑かもしれないし――」
「迷惑だとわかったら、何も言わないつもりだったの?」
「……」

瞬に問われ、氷河は答えに窮した。
白鳥座の聖闘士の恋が 瞬にとって迷惑なものだったなら、自分は瞬に何も告げずにいたのだろうか?
自分のことだというのに、氷河には その答えがわからなかった、
わからないことには、答えられない。
「おまえには、不幸な子供のいない平和な世界の実現という目標と理想があって、恋はその妨げになるかもしれない。おまえの進む道の妨げになるようなことを、俺はしたくない」
「恋は 戦いや仕事と同時進行できるって教えてくれたのは氷河なのに」
「それは一般論だ。おまえは特別な人間だ。まっすぐで、純粋で――理想と夢を叶えるために戦う おまえの姿は はっとするほど美しくて、犯し難くて――」
「僕、マルチタスクなの。攻撃しながら防御もできるし、人を傷付けるのは嫌だけど、戦うこともできる。だから きっと、恋をしながら 正義の味方もできると思うんだ。氷河となら」
「瞬……」
「人は、心を殺して生きていくことはできないから」

それは もしかしたら、アンドロメダ座の聖闘士も 白鳥座の聖闘士に好意を――特別な好意を――抱いてくれているということなのだろうか。
確かめたいのに――それは何を置いても 確かめなければならないことだと思うのに、氷河はそうすることができなかった。
瞬の亡き師の姿を騙っていたことへの引け目と、そして 長い片思いを続けてきた人間の気後れのせいで。
瞬が、そんな氷河を見て、不思議そうに瞬きを繰り返す。
「氷河はもっと自信家なのかと思ってた」
「そんなことがあるわけがないだろう。恋をしている人間が自信満々でいられるのは、恋している相手も 自分に恋をしてくれていると確信できている時だけだ」
「じゃあ、氷河は これからはずっと自信家でいられるね」
「瞬……」

これは現実なのかと、氷河は疑わずにはいられなかった。
“氷河”は“瞬”に恋されていると確信していいと、瞬は言ってくれている。
そう言ってくれている瞬は 本物の瞬なのかとさえ、氷河は疑った。
それほどに――瞬の言葉は、氷河にとって夢のような言葉だったから。
「ほ……本当か? 俺は――俺はマルチタスクじゃない。シングルタスクの典型、一つのことしか視界に入らず、不器用で、クールでもないし――」
恋の果実を その手にしていない男が 自信家でいられないのは、自然なことだと思う。
しかし、自分は ここまで謙虚な男でもなかったはずだと、氷河は 自分で自分を怪しんでしまったのである。
今の自分は、謙虚を通り越して、卑屈でさえあると。

「そうみたい」
らしくない白鳥座の聖闘士の卑屈を、瞬が面白そうに小さく笑う。
瞬は、そして、思いがけない幸福と幸運に戸惑っている氷河の顔を見上げ、その瞳を覗き込んできた。
「でも、氷河の そういうところが、僕は好きみたいなの。マーマのために梅の木を植えようとした優しい氷河が、僕は好きなんだ」
「梅……?」
ウェルトゥムヌスに与えられた変身の力は 実は何の役にも立たなかったが、白鳥座の聖闘士の恋が実ったのは、それでも やはり果樹の女神の夫の おかげらしい。
彼が 梅の実に化けてアテナの聖闘士の前に登場してくれたからだったらしい。
愛する妻の尻に敷かれている優男の顔を思い出し、少し彼に感謝して、氷河は彼の恋の果実を 両手で強く抱きしめた。






Fin.






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