「俺は そんなことはしない。決して、命の恩人を誤認するようなことはしない。人魚姫と別人を見誤ったりなどしないぞ」 仲間たちの前で宣言した言葉を、自室に戻って、氷河は もう一度繰り返した。 今度は 自分自身を戒めるために。 自戒のため そう言った側から、意地の悪い馬鹿王子を悲しげに見詰める瞬の瞳が、氷河の脳裏に思い浮かんでくる。 その瞳が緑色でないことが、氷河には それこそ悪魔の呪いのように思えてならなかったのである。 瞬を好きだった。 幼い頃からずっと――ずっと好きだった。 幼い頃の瞬は 小さくて、可愛くて、優しくて、側にいると氷河の気持ちを落ち着かせたり、落ち着かなくさせたりした。 瞬は、自分のためにも泣いたが、それ以上に仲間のために泣く子供だった。 子供には無体といっていい特訓のために傷を負った仲間のために泣き、なぜ自分が こんな目に合うのかと嘆く仲間のために泣き、大人たちに突っかかっていっては叩きのめされる星矢のために泣き、弟を庇う兄のために泣き、兄に庇われ守られることしかできない弟のために泣き――瞬がいてくれるおかげで、城戸邸に集められた子供たちは誰も泣かずに済んでいた。 彼等が泣くしかないと思った時には もう瞬が泣いていて――だから、彼等は いつも、自分が泣き出す機会を逸してしまっていたのだ。 瞬は、城戸邸に集められた子供たちの涙をすべて、我が身一つに引き受けているかのように、いつも涙で その瞳を潤ませていた。 瞬と引き離され、母の許に辿り着けない自身の無力に泣いた時、氷河は初めて そうだったのだと気付いたのである。 瞬は いつも誰かのために泣いていたのだと。 優しかった母の思い出、その最期の時の様子。 幼い氷河が そんなことを泣かずに瞬に語ることができたのも、瞬の涙のおかげ。 氷河の母の切ない思いを、瞬は綺麗な涙の雫に変え、自身の無力を悔やむ氷河を 優しく慰めてくれた。 瞬と共にいられた時、瞬と離れて生きていくしかなくなってからも、氷河はずっと瞬が好きだったのだ。 そうして互いに聖闘士になって再会した時。 その直前に 瞬が生きて帰ってきていることを知らされていた氷河は、自分たちは、試練に打ち克つことができた二人を互いに祝し、互いに心から喜び合えるものとばかり思っていた。 にもかかわらず、再会の瞬間。 氷河の胸に最初に飛来したのは、瞬が彼の人魚姫に似ているという、その一事だった。 己れの力を見極めることができずに無茶をして 死にかけた愚かな子供の命を救ってくれた、北の海の人魚。 エメラルドのように輝く緑の瞳を持つ、強く美しい人魚姫。 そんなことがあるはずはないのに、瞬は あの時の人魚に似ていると、氷河は思った――思ってしまったのだった。 そんなことはあるはずがないのに。 人魚姫の王子もそうだったのかもしれない。 そうだったのだろうと、氷河は、瞬との再会後 幾度も考えた。 この人は自分を助けてくれた人魚姫ではないと気付いていながら、別人と わかっている人に惹かれていく自分の心を止められず、最後には、この人こそが自分の命の恩人だと、この人こそが自分の人魚姫、自分の運命の人なのだと、信じるようになってしまったのだ。 人魚姫の王子は、そして、人魚姫に更なる苦しみを犠牲を強いた――。 古い絵本を読んでくれた母が、 「かわいそうな人魚姫」 と悲しそうな目をして呟いていたことを思い出す。 人魚姫の王子は、その愚かさのために、健気な人魚姫だけでなく、その物語に触れた すべての人を悲しませた――優しい母をさえ悲しませた。 氷河は、その時、幼な心に、自分は決して人魚姫の王子と同じ轍は踏まないと決意したのである。 そんなことは絶対にしないと。 己れの力を過信した愚かな子供が その命を落としかけたのは北の果て、東シベリアの海の底。 そんな場所に瞬がいたはずがないのである。 人魚姫の瞳は、宝石のような緑。 瞬の瞳は茶色がかった黒。 瞬だったらいいのにという気持ちが、瞬を人魚姫に似ているように思わせるだけなのだ。 「俺は そんなことはしない。決して、命の恩人を誤認するようなことはしない。人魚姫と瞬を見誤ったりなどしないぞ」 氷河は もう一度、その言葉を自身に言いきかせた。 |