「どうした。頬が紅潮している」
淡い色の花々が咲く花園の中に、あまりに そぐわない漆黒の姿。
花園に下り立ったハーデスは、鋭い観察眼の持ち主らしく、瞬の様子が平生と違うことを すぐに見抜いたようだった。
「嬉しいことがあったから」
「ほう?」
ハーデスは瞬の言う“嬉しいこと”を、自分が来たことだと考えたのだろう。
ハーデスが目許に浮かべた薄い微笑を認めて、氷河は、『うぬぼれるな』と心の中で毒づいてしまったのである。
てっきり陰気な髭面親父だろうと思っていた冥府の王が、予想外に若く美しい男だということも、氷河は大いに気に入らなかった。

そんなふうに、心中に複雑な思いを淀ませながら、城館の柱の陰から“敵”の姿を観察していた氷河は、まもなく、花園の中に立つハーデスが実体ではないことに気付いた。
冥府の王は その存在自体が影のように漆黒だったが、瞬には影があるのに、ハーデスには それがなかったのだ。
もしかしたらハーデスは 何からの事情で冥界を出ることができずにいるのかもしれないと、氷河は思ったのである。
ハーデスには、実体を ここに運べない やむにやまれぬ事情――何らかの障害を抱えているのではないかと。
もし自分がハーデスなら、自分の目で直接 瞬の姿を見、自分の手で じかに瞬に触れたい。
ハーデスも、そうしたいに決まっていた。
そうしたいのに、そうしない。
つまり、そうできない事情が、ハーデスにはあるのだ。

実体ではないハーデスが、影のような手で、瞬の頬に触れる。
瞬は、その手に、温かさも冷たさも感じていないに違いなかった。
「もう しばらく待っていろ。醜い人間や 神に反逆する者たちを罰して地上を平らげ、邪悪と醜悪を一掃したら、余がそなたを地上世界の王にしてやる」
「僕、そんなものには なりたくない。邪悪と醜悪を一掃って、地上に住んでいる人たちを傷付けることなの? 僕は、いい人にするってことだと思っていたのに」
恐れる様子もなく、瞬が神に問う。
それが神の命令であるなら、『死ね』という命令にも従うと言っていたのに、瞬には、冥府の王を恐れている様子が全くなかった。
もしかしたら瞬は、ハーデスが 悪い神なら、いい神にしなければならないと考えているのではないかと、氷河は、瞬の言葉や態度にひやひやしてしまったのである。
ハーデスが、そんな 生易しい神であるはずがないのに。
案の定、ハーデスの声は、僅かに険しいものに変化した。

「そなたが、余に そんなことを訊くとは……。清らかな そなたが、どこから そんな考えを思いついたのだ?」
ハーデスは、“清らかなこと”を“従順であること”だとでも考えているのだろうか。
そうなのであれば ハーデスは大きな考え違いをしていると、優越感に浸りながら、氷河は思ったのである。
ハーデスより 自分の方が、瞬を理解している――と。

「まあ、よい。綺麗な花を枯らしてしまう害虫は退治してしまわないと、花がかわいそうだろう」
「害虫――でも、虫も、生きるために仕方なく 花を枯らしているのかもしれないでしょう?」
「そうだな。これは つまり、神である余が、花と害虫のどちらが好きで、どちらに味方するかということなのだ。余は、害虫よりも 美しい花の方が好きだ」
「両方 生かしておくことはできないの?」
「できない。互いに互いの命を食い合って 一方が生き残るのが、生きとし生けるものの宿命だから」
ハーデスの言葉に、瞬は悲しそうに眉を曇らせた。
しかし、ハーデスに反駁しないところを見ると、瞬は、それが地上世界の変えることのできない摂理、地上世界の現実であることを知っているようだった――微かにでも憶えているのだろう。
瞬の表情を暗くした当の本人が、そんな瞬を慰める。

「そのように、悲しそうな顔をすることはない。ここにいる限り、そなたは そのような悲惨を知らずにいられる。余計なことは考えるな。余は、そなたに汚れてほしくない」
「知ることは汚れることなの?」
「大抵の人間はそうだ」
氷河は、冥府の王の前に飛び出ていって、『瞬は“大抵の人間”じゃない!』と怒鳴りつけたい衝動に駆られた。
氷河が かろうじて その衝動を抑えることができたのは、ハーデスの言葉を否定したいという思いより、自分は ハーデスの言う“大抵の人間”で、瞬とは違う考え方、生き方、戦い方をする存在だという事実への やるせなさの方が強かったから。
今 ハーデスの前に飛び出ていって、瞬は“大抵の人間”ではないと主張し、ハーデスをやり込めることができたとしても、“大抵の人間”である白鳥座の聖闘士が 瞬と同じものになれるわけではない――瞬と同じ世界の住人になれるわけではないのだ。

瞬は、汚れた人間は清らかになればいいと言い、氷河は、汚れてしまった人間も生きていたいのだと思う。
二人の考えは どこまでも平行線を辿り、どこまで行っても交わることはない。
決して結ばれることのない鳥と魚のように、二人は住む世界が違うのだ。
住む世界が違うのに、なぜ二人は出会ってしまったのか。
出会わずにいれば、こんな つらい思いを味わわずに済んだのに。

花の中にいる瞬を見詰め、氷河は 音がするほど強く 奥歯を噛みしめ――次の瞬間、氷河は、元のニューサの野の泉の岸に立っている自分を認めることになったのである。






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