「夢じゃなかったのか……」 『これは夢だよ』と言って 朝が来る前に逃げてしまえば、氷河の胸の中にある黄金の矢は溶け、彼は偽りの恋から解放される。 そのはずだったのに。 結局、瞬は、翌日 朝の光の中で、氷河の その呟きを聞くことになってしまったのである。 朝の光の中、氷河の寝台は滅茶苦茶だった。 どれが敷き布で、どれが掛け布だったのかも わからない。 二人が身に着けていた衣服は とんでもないところに飛んでいってしまっていて、目覚めて氷河の視線に気付いた瞬は、掛け布だか 敷き布だったのか わからないもので 自分の身体を隠さなければならなかった。 「ゆ……夢だよ。夢。夕べのことは夢だから。氷河の胸の矢は もう溶けたはずだから、氷河は すぐに元気になるよ。僕のことは、もう好きでなくなっているはずだし……」 「矢? 矢が溶けるとは どういうことだ」 昨夜の自分の振舞いを思い出すと、それだけで 氷河の前から逃げ出したくなるのに、それくらい恥ずかしいのに、そんなことの説明をしろと 氷河は言うのか。 瞬は 瞳に涙をにじませ、可能な限り 身体を小さく縮こまらせ、蚊の鳴くような声で、エロスに教えられた矢の無効化の説明を始めたのである。 「エロスの黄金の矢は、恋した人と一度 結ばれると無効になるんだって。だから、僕……氷河を死なせちゃいけないと思ったから……」 「俺の命を救うために、嫌いな俺に身を任せたというのか」 「だって、氷河を死なせるわけにはいかないと思ったから……」 「嫌いな男に身を任せるのは、死ぬより つらいことだったろうに――」 「そ……そんなに つらくなんかなかったよ。僕、ほんとは氷河のこと、嫌いなわけじゃなかったし」 「そんなに つらくなかった……? 本当か?」 「鉛の矢って、そんなに力が強くないんじゃないかな。僕、全然 つらくなんかなかったよ」 むしろ すごく気持ちよかったと、瞬は本当のことを言ってしまいたかったのである。 “一度だけ”の予定が“一晩だけ”になってしまったが、“一晩だけ”が“二晩だけ”になってくれてもいいし(その方が嬉しいし)、“二晩だけ”が“三晩だけ”、“三晩だけ”が“いつまでも”になったら もっといいと、瞬は思うようになってしまっていたから。 「そんなに つらくなかった……というのは、たとえば、もう1回くらいなら、俺と その……してもいいくらい?」 「え? あ、うん……。あ……あと1回くらいだけなら」 「そうか!」 確か氷河は死に瀕していたはず――と疑うことは、瞬にはできなかった。 氷河が あまりに嬉しそうな笑顔を向けてくるから。 瞬は、それだけで胸がいっぱいになり、瞬自身も嬉しくなって――要するに、氷河の“もう1回”は、瞬にとっても嬉しすぎるほど嬉しい言葉だったのだ。 結局 瞬は、氷河の“もう1回”に引きとめられ、約半月後、弟を氷河に さらわれたと誤解したエティオピア国王がヒュペルボレイオスに宣戦布告してくるまで、氷河の許に留まることになったのである。 瞬との“もう1回”で生きる活力を取り戻した氷河は、約束通り、ヒュペルボレイオスとエティオピアの国境に 愛と美の女神のための神殿を建てた。 その神殿の一室を 二人だけの秘密の部屋にして、氷河と瞬は そこで愛と美の女神を喜ばせる儀式を 毎晩執り行ったのである。 愛と美の女神の神殿から毎晩洩れてくる なまめかしい声は神の啓示だという噂が、ヒュペルボレイオス国内に流布するようになったのは、それから まもなく。 そのせいで、ヒュペルボレイオスの婚姻率は急上昇、出生率もまた増加に転じた。 ヒュペルボレイオス王国の人口問題の解決は確実、ヒュペルボレイオスの大臣たちも 心を安んじることになったのである。 愛に耽溺する氷河と、愛が蔓延するヒュペルボレイオス王国の現状に、愛と美の女神が大いに満足したことは言うまでもない。 だが、氷河と瞬の恋の成就と 愛と美の女神の上機嫌を 誰よりも喜び、安堵したのは、恋の神エロスだったろう。 母に氷河を懲らしめることを命じられた時、恋の神の存在意義を疑い やさぐれていたエロスは、その仕事に かなりいい加減な気持ちで取りかかった。 そのせいで、氷河に射るつもりだった黄金の矢を 誤ってオリーブの木の幹に当て、目隠しで射た鉛の矢は、人間ではなくエティオピアで瞬と遊んでいたゴールディの胸を(正確には横腹を)射てしまっていたのだ。 ゴールディが オリーブの実やオリーブオイルを使ったドレッシングを食するたびに調子が悪くなっていたのは、そのせいだったのである。 かなり時間が経ってから 自分の失敗に気付いたエロスは、それが いつ母にばれるかと、生きた心地のしない毎日を過ごしていた。 だが、今や、すべては丸く収まった。 エロスは、恋の神の矢の力を借りなくても 勝手に恋に落ちてくれる人間のおかげで、窮地を脱することができたのである。 人間が勝手に恋に落ちてくれる生き物で本当によかった。 恋の神の仕事は そんな人間たちの恋の悲喜こもごもを見守っていること。 これほど有意義で楽で楽しい仕事は他にはあるまい――。 氷河と瞬の恋のおかげで、エロスは、恋の神である自分自身の存在意義を確認確信することができた(ような気がした)のである。 恋の神の存在意義はさておくとして、氷河と瞬の恋の顛末の真実は、死ぬまで(神は死なないが)秘密にしておこうと、エロスは胸中 ひそかに決意したのだった。 Fin.
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