地上は本来の暖かさを取り戻し、村の あちこちで瞬の好きな花々も咲き出した。
小川の水は温み、木々は今年の新芽を芽吹き、村の畑も緑色に染まり、土の色は ほとんど見えなくなっている。
氷室を守る村の住人たちでさえ待ち望む春が ついにやってきたというのに、瞬の表情は暗く沈んでいた。
瞬の身体は弱り、それ以上に心が弱り――寒さに震えていた老人たちは元気に外を歩き回るようになったのに、今度は彼等に代わって瞬が病の床に就いてしまったのである。
氷河を失った瞬の憔悴は はなはだしく、その様子は、星矢が、
「瞬の奴、このまま 死んじまうんじゃないだろうな……」
と、本気で案じるほど深刻なものだった。

「氷河が天上界に帰り、ハーデスは瞬を死なせる大義名分を失ったはず。死ぬことはないと思うが……このままでは、瞬は生ける屍も同然だ」
「それって、ほんとに死ぬことより ましなことなのかよ?」
瞬が横になっている寝台の枕元には、氷河が地上界を去ったあと、村で最初に咲いた白い雪割草の花が2輪 飾られていた。
アテナイかコリントスあたりの王室から与えられた高価なガラスの器に飾られた その花は、既に しおれかけているのだが、瞬が その花を別のものに替えるのを嫌がるので、星矢たちも瞬の兄も 枯れかけた花に手出しすることができずにいた。

瞬は寝台に横になり 目を閉じている。
眠っているのか、瞼を開ける力もないのか、そんなことすら、星矢には わからなかった。
彼にわかるのは、瞬の身を案じ 見舞いにくるたび、瞬の生気が失われていくことだけ。
瞬が 日に日に死に向かって その歩みを進めているということだけだった。
どれほど元気な人間も、毎日 死に向かって時を過ごしていることに違いはないのだが。

「どうして人間には 死なんてものがあるんだろうな……」
それが我が身のことであれば、笑って迎え入れることくらいは できるような気がする。
しかし、自分以外の人間に降りかかるものとなると、途端に それは悲しく耐え難いものになるのだ。
そんな“死”というものが、星矢は不思議でならなかった。

瞬の青白い瞼を見詰めながら、星矢が そう呟いた時、彼は実は その疑念に対する答えを得られることを期待してはいなかった。
しかし、その答えは降ってきたのである。
それも、共に瞬の見舞いにきていた紫龍ではない人物の声で。

「俺が思うに、それは、人間の命が永遠だと 恋ができなくなるからだな」
星矢は最初、その明るく溌剌とした声が誰のものなのか わからなかったのである。
初めて聞く声だとさえ思った。
声のした扉の方を振り返り、その声の主の姿を認めても、星矢は 自分の目に映っている人物の姿を それと信じることができなかった。
「おまえ……氷河……」
信じることができなくても、幻でも、偽者でも、この際 構わない。
これは、死に向かって生き急いでいる瞬の足を止めることのできる唯一のものだと直感し、星矢は瞬の部屋の中に大きな声を響かせた。

「瞬! 瞬、目を開けろ! 氷河だ、氷河が帰ってきた!」
「氷河……?」
ぼんやりと 夢の中で目覚めたように頼りなかった瞬の瞳が、ある一点に視点を結んだ瞬間、明るく力強い輝きを宿し始める。
そんな力も残っていないようだったのに、星矢や紫龍が手を貸すまでもなく、瞬は自力で寝台の上に身体を起こしてみせた。
「氷河……!」

「神としての力と永遠の命を、返上してきた。俺はただの人間だ」
なぜ彼が地上世界に戻ってきたのか、その訳を、氷河が さらりと口にする。
それは、しかし、瞬には さらりと聞き流せるようなことではなかったのである。
神としての力と永遠の命。
それは、人間として生まれ生きてきた瞬には『ほしい』と望んだこともないほど遠いところにある、尊い何かだった。
「氷河……永遠の命だよ。永遠の命を、僕のために捨てたっていうの」
「俺は、永遠の命より、おまえと共にいる一瞬の方が大事だ」
「氷河、でも……」
「おまえの側にいたいんだ」
氷河が、彼の望みを繰り返す。
瞬の瞳には涙が盛り上がってきた。

「神が永遠の命を放棄するなど、前代未聞のことだと、オリュンポスの神々は驚き呆れていた。アテナだけは、わかるような気がすると言ってくれたが……。まあ、俺は もともとオリュンポスの はみだし者だったし、存外に すんなりと俺の願いは聞き届けられた」
それは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか――。
自ら望んだわけではないのに与えられた境遇。
強いられた宿命。
氷河は、それを自分の意思で放棄し、自分の意思で新しい運命を選びとったと言っている。
『嬉しい』と言いたいのに、そう言ってしまうことが ためらわれ、瞬は言葉を発することができなかったのである。
だが、他に 言うべき言葉を見付け出せない――。

氷河は、そんな瞬ではなく星矢に、彼の疑念への答えと謝罪を告げてきた。
「いつか瞬は死ぬのだと わかっていたから、俺は 瞬と少しでも一緒にいたかったし、瞬と共にいる時間が大切だった。それで天上界に帰ることができず、地上界の人々に迷惑をかけた。悪かったな」
「いや……俺は何にも迷惑なんか かけられてないけど――でも、永遠の命だぜ? 永遠の命」
人間には得難いものだからこそ、それは 途轍もない価値を持つものであるような気がする。
限りある命と 永遠の命。
いったい どちらが価値あるものなのか、どちらが より良いものなのか。
星矢は少々 混乱していた。
氷河は、彼が選び取った答えに 絶対の自信を持っているようだったが。

「俺も瞬も死なない身だったら、おそらく俺も瞬も 二人が共にいる時を喜べない。今 この時を大切なものと思うこともできないだろう。永遠の命があれば、100万年後も共にいることが可能なんだ。永遠の命を持つ者は、時というものに価値を認めることができない」
「刹那的な考え方だな」
オリュンポスの神々同様、氷河の選択に驚き 呆れているらしい紫龍が、いっそ 感嘆の溜め息混じりに告げる。
それでも、紫龍は、氷河の選択を間違ったものとは思っていないようだった。
「喜びのない永遠より、ずっといい。俺は 瞬に出会ってしまった。瞬のいない永遠より、瞬と共にある有限の方がずっといい」

「氷河……」
『嬉しい』と言うことはできないのに、瞬の瞳の中の涙は 喜びの涙だった。
それが瞳の中に収まっていることに耐えきれず、瞬の瞳から あふれ出てくる。
「永遠の命は失ったし、氷雪の神としての力も弱まったが、大神は、自分のしたことに少しは責任を感じていたのか、僅かにだが俺に力を残してくれた。俺にも、この村のために務めることはできると思うんだ。瞬、俺と一緒に生きてくれるか」
「氷河……!」
氷河の差しのべた手に、瞬が 自分の手を重ねる。
瞬のその手は、氷河に絡みつき、しがみつき、二人は そのまま固く抱き合った。

「そっかー……。生きるって、そういうことなのかー……」
生きるために 永遠の命を放棄した氷河と、死の淵から生き返ってきたような瞬の、人目を はばからない抱擁を見せられて、星矢が呟く。
「わかったようなことを言うな」
「うん。実は俺も よくわかってないんだけどさ。でも、とにかく これで一件落着だな」

巡り来る春に花々が生き返るように 瞬は生き返り、永遠に融けない氷が融けて命の循環を始めるように、氷河は生きることを始めた。
もちろん、その命には いつか終わりの時がやってくるのだが、それこそが“生きる”ということ。
これ以上の大団円はないだろうと、星矢は安堵の息を洩らし、笑顔を作ろうとしたのである。
だが彼は、あいにく そうすることができなかった。
「何だ、その男は!」
前触れもなく突然 瞬の部屋の中に響いてきた 瞬の兄の、異様に凄みのある 低く太い声のせいで。
それが誰であろうと 弟の恋に いい顔をしないだろう瞬の兄が、瞬の部屋の入口で、彼の最愛の弟を抱きしめている見知らぬ男を 憤怒の表情で睨みつけていた。

「うっわ。一輝のこと、すっかり忘れてた……!」
一件落着どころか。
一難去って、また一難。
人間になった氷河の恋は、どう考えても 順風満帆とはいえないものになりそうだった。
氷河の恋は、試練の連続。
生きることは、試練の連続。
むしろ次々に襲い来る試練を乗り越え 打ち克つことこそが、“生きる”という行為そのものなのかもしれない。
初めて出会った瞬の兄に、森の奥から這い出てきたクマかタヌキを見るような目を向けている氷河を眺めながら、星矢は そう思ったのだった。






Fin.






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