これにて一件落着、めでたし めでたし、絵に描いたような大団円。 恋の勝負に負けて婚約者を失ったにもかかわらず、颯爽と肩で風を切って 元婚約者の許から去っていく三人の後ろ姿を眺めながら、氷河は そう思ったのである。 それもこれも、すべては瞬が賢く、美しく、心優しく、料理の腕に秀でてくれていたおかげ。 氷河は、心の底からの感謝を 瞬に捧げることになったのである。 「ありがとう、瞬。おかげで命拾いした」 「氷河、もう軽々しく結婚の約束なんかしないでね」 「ああ。もう二度と軽率なことはせん」 改めて瞬に言われるまでもない。 氷河は肝に銘じたのである。 二度と こんな軽率なことはしない――と。 その軽挙が自分の首を絞めるだけならいいが、瞬を巻き込み、瞬にまで迷惑をかけるようなことになったら大変である。 氷河は もちろん、二度と軽率なことはしないつもりだった。 その気持ちに嘘はなく、氷河の その決意は極めて強固なものだったのである。 それは間違いない。 だから、氷河に、 「だが、まあ、そんなガキの頃の たわ言を本気にして、いつまでも信じている方が おかしいんだが」 という言葉を吐かせたのは、氷河の軽率さというより、絶体絶命のピンチを危機一髪のところで脱することができた安堵の気持ちだったろう。 「ほんと、そうだね」 氷河の軽口に、瞬が笑いながら頷く。 瞬は確かに笑っていた。 笑っているのに、その瞳から ふいに涙の雫が ひとつぶ零れ落ち――氷河は、最初、それが涙の雫だということを認識することができなかったのである。 「瞬……?」 ここは泣くような場面だろうか。 これにて一件落着、めでたし めでたし、絵に描いたような大団円。 それもこれも、すべては瞬が賢く、美しく、心優しく、料理の腕に秀でてくれていたおかげ。 瞬が嘆くようなことは、今 この時、この場には何ひとつない。 それが氷河の認識だった。 だがそうではなかったのである。 そうではなかったことに、氷河は、その瞳を涙でいっぱいにしている瞬の訴えによって知ることになった。 「氷河、憶えてないの……?」 「な……何をだ?」 「氷河のマーマが亡くなった時、僕、氷河が あんまり つらそうにしてるから、どうにかしてあげたくて、一生懸命 慰めたんだ」 「忘れるはずがないだろう」 そんな大事なことを、氷河が忘れるはずがなかった。 母を失い、悲嘆と絶望に打ちのめされていた氷河を、幼い瞬は、自身も泣きながら 懸命に慰め 励ましてくれた。 その健気さに心打たれ、氷河は瞬を好きになったのだ。 そんな大事なことを、氷河が忘れるはずがない。 氷河は もちろん憶えていた。 あの時の瞬の涙。 無理に作った笑顔。 母を失った哀れな子供の手に重ねられた優しく白く小さな手、その温かさ――。 たとえ100万年の時を経たとしても、氷河が それらのことを忘れるわけはなかった。 「僕は一生懸命、氷河を慰めた。でも、僕が何をしても 氷河は元気になってくれなくて……。どうしたら元気になってくれるのって、僕、氷河に訊いたんだよ。そしたら、氷河は――」 「そしたら、俺は?」 「僕が氷河と結婚したら、そう約束してくれたら、元気になるって、氷河、僕に言ったんだ……」 「へ」 “忘れる”という能力は、人間が その人生を生きていくために必要不可欠な能力である。 その能力によって、人は 過去のつらい出来事に いつまでも囚われていることなく、新しい希望を抱いて、人生の次の一歩を 再び踏み出すことができるようになるのだ。 「いつか結婚しようねって、指切りしたのに……。僕、ずっと忘れずにいたのに……氷河との約束を信じてたのに……」 だが、世の中には、忘れていいことと 決して忘れてはならないことがある。 瞬の瞳から ぽろぽろと零れ落ちる涙を見て、氷河は真っ青になった。 母を失いはしたが、代わりに瞬の約束を手に入れた。 瞬は指切りをして、『ずっと氷河の側にいて、氷河を励ましてあげる』と言ってくれた。 それが嬉しくて、氷河は皆に『瞬と結婚の約束をした』と触れてまわったのだ。 だからこそ、瞬とは結婚できないのだと言われたことが 大きな衝撃だった。 だからこそ、すさんだ気持ちになって、目についた女の子たちをいじめることをした。 だからこそ、どうでもいい気持ちで、その子たちに結婚の約束をした。 だからこそ――だからこそ、氷河は、瞬との約束を――決して叶えられることのない瞬との約束を――忘れてしまったのだ。 母を失い、この上 瞬までを失うようなことになったなら、自分はもう生きてはいられない。 そう思った――そう悟ったから。 「しゅ……瞬……」 「氷河のマーマはタルトを作るのが上手で、マーマのタルトは とっても美味しくて、だから、僕、氷河のマーマみたいに美味しいタルトを作れるように、一生懸命 練習したのに、なのに氷河は、僕以外に三人も……」 瞬の涙は止まらない。 それは そうだろう。 当然のことである。 十数年間、誠実で優しい婚約者だと信じていた男が、実はとんでもない浮気者の痴れ者で、無責任な卑怯者の ろくでなしだったのだから。 「瞬……」 何と言えばいいのか。 どうすれば瞬の涙を止めることができるのか。 氷河にはわからなかったのである。 今 瞬の涙を止めることができるなら――そのためになら 死んでもいいとさえ思ったのだが、まさか その考えを実行に移すわけにもいかず――氷河は途方に暮れてしまったのである。 「ご……ごめんなさい。氷河を責めるつもりはないの。そんな子供の頃の約束を本気にして、いつまでも信じていた僕の方がおかしいの」 ついさっき 氷河が口にした言葉を そのまま繰り返し、瞬が ふらふらと掛けていた椅子から立ち上がる。 「ごめんなさい。僕、氷河との約束は すぐに忘れて、明日には元気になって、ちゃんと幼馴染みの友だちになるから」 健気にも 瞬はそう言うと、覚束ない足取りで よろよろと歩き出し、やがて逃げるように どこかに駆けていってしまったのだった。 呆然自失の氷河と、二人の幼馴染みを その場に残して。 「そうか……。瞬はずっと おまえとの約束を信じていたんだな。まあ、貴重な教訓が得られてよかったではないか。『プロポーズは慎重に』」 「瞬の奴、ずっと おまえのことが好きだったんだなー。あ、あと、『プロポーズの相手は一人にしておくこと』ってのも大事だな」 紫龍と星矢が何か言っていたが、それは氷河にとって意味のないノイズでしかなかった。 生きていれば、人は、『もう二度と立ち直れない』と思えるほどの試練や苦難に出会うことが、一度ならず あるだろう。 だが、そんな時、やけになって軽率な行動に走ってはならない。 『プロポーズは慎重に』 『プロポーズの相手は一人にしておくこと』 それは貴重かつ有益な教訓である。 人生には、まだまだ続きがあるのだ。 Fin.
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