「ひと月前――ううん、もうふた月くらい経ったのかな。僕と氷河は、強い力を持った ある神と戦っていたんだ。地上の平和を守るために、僕は何としても その邪神を倒さなければならなかった。今 この神を倒さなければ 地上が危機に見舞われると、それも わかっていた。なのに、僕は その時、邪神を倒すことより 氷河の命を守ることの方を優先してしまったんだ」
言ってみれば、ただ それだけのこと。
それだけのことが、瞬には 途轍もなく大きな罪、途轍もなく重大な、仲間への、アテナへの、人類への、世界への裏切りだった。

氷河と瞬は 互いの姿が見えないだけじゃなく、その声を聞くこともできないわけだから、私は、瞬の言葉を氷河に伝えて、
「あなたも同じことをしたの?」
と尋ねた。
氷河が、頷く代わりに 唇を噛みしめる。
「そうだ。邪神を倒すために使うべき力を、俺は瞬の身を守るために使った。おかしな話だ。俺は、それまで、ことあるごとに、地上の平和より瞬の方が大事、瞬が地上の平和を守りたいと言うから、俺もそうするだけだと公言していたんだ。地上の平和と瞬の命を選ばなければならない時には、おそらく瞬の命の方を優先させるだろうと。俺は その通りのことをしただけなんだ。その通りのことをしただけなのに――だが、それでも 俺は地上の平和を守るアテナの聖闘士で、それはアテナの聖闘士がしていいことではなかった」
あら。キグナスがそんな公約を振りかざしていたなんて知らなかったわ。
公約通りのことをして後悔するなんて、変わってるわね。
大口を叩いていた小悪党が、いざ悪事を働らける場面に直面したら びびっちゃう――みたいなことは よくありそうなことだけど、キグナスの場合は、そんなパターンとも違うみたいなのに。

「じゃあ、あなた方が互いの姿を見ることができなくなったのは、アテナの罰なの? 恋人同士に 互いの姿が見えなくなるようにしちゃうなんて、随分 惨酷な罰に思えるけど……命を奪わないだけ、優しいのかしら」
「そうじゃないよ。アテナは許してくれた。僕は アテナの聖闘士にあるまじきことをしてしまったけど、仲間たちが僕の分も懸命に戦って 邪神を倒してくれたおかげで、地上の平和は守られた。だから、気にすることはないって、アテナは言ってくれた。そのために、聖闘士は 一人ではないんだからって。でも……でも、僕には氷河の姿が見えなくなった……」
そうね。アテナは、きついくせに、甘いから。
アテナは、自分の可愛い聖闘士に そんな罰を与えるような神じゃない。
それじゃあ 示しがつかなくて 秩序が保てないでしょうと責めたくなるようなことを、彼女は平気でやってくれる。

「つまり、こういうこと? あなた方は、地上の平和を守らなければならないアテナの聖闘士なのに、地上の平和を守ることより、恋人の命を救うことを選んだ。そして、恋人の姿を見ることができなくなった。でも、それはアテナによって与えられた罰ではなく――じゃあ、なぜ? あなた方自身の罪悪感が、互いの姿を見えなくなるようにしてしまったのかしら」
罪悪感って、かなり厄介な代物よね。
特に善良な人間や 責任感の強い人間の罪悪感は。
反省は理性が生む行為だけど、罪悪感は違う。
罪悪感は、感情や超自我スーパーエゴが生むもの。
意思の力では消し去ることができないから、扱いが難しいのよ。

「そうなのかもしれない……」
力なく――項垂れるように頷いて、呟くように そう言ってから、瞬は微かに首を横に振った。
「違う……。罪悪感というより、僕が氷河の存在を知覚できなくなったのは、僕の弱さ、勇気のなさのせいなんだと思う」
「勇気のなさ?」
「氷河の姿が見えたら、僕はまた同じ過ちを犯す。僕は それが恐いんだ」
「それは過ちなの? わりと普通のことのような気がするけど」

アテナの聖闘士はどうなのかは知らないけど、普通の人間って、そういうものでしょう。
他人より、自分が大事で可愛い。
自分と自分の愛する人が大事で、他人はどうでもいい。
自分より 他人の幸福や利益を第一の目的として行動する愛他主義を唱える人間もいるけど、愛他主義者の根底にあるものは、人間としての義務感や、教え込まれた道徳や責任感。
罪悪感に苛まれるのが嫌で、他人のために自分の益を犠牲にする人間もいるわ。
そうしなければならないと思うから そうするのであって、どうしても そうしたいという欲求に突き動かされて、他人のために自分を犠牲にする人間はいない。
私は、人間というものを そういう存在だと理解しているのだけれど。

私が尋ねたことに、瞬は答えを返してよこさなかった。
瞬は、アテナの聖闘士は 普通の人間と同じじゃいけないって思っているのかしら。
もっとストイックで道徳的でなければならないって?
まあ、それくらいの覚悟がなきゃ、アテナの聖闘士なんてやってられないっていうのは事実なんでしょうけど。
瞬は そういう人間なんだということで納得することにして――じゃあ、氷河は どうして瞬の姿が見えなくなったの?
まさか、瞬に付き合って――と いうんじゃないでしょう。
私は、今度は氷河の方に向き直った。

「あなたは、もともと地上の平和より瞬優先を公言していたんでしょう? なら、問題はないわよね? あなたは、公約を守っただけなんだから、罪悪感も覚えないはず。なのに なぜ、あなたまで瞬の姿を見ることができなくなってしまったの。あなたは瞬とは違う。瞬と 地上の平和のどちらかを選ばなきゃならなくなったら、また公約通り 堂々と瞬を選べばいいだけのことでしょう」
私に問われたことに答える氷河の口調は、ひどく苦々しげ。
思い通りにならない自分の感情に、氷河は苛立っているようだった。
「そのつもりだったが……。現実は、そう単純なものじゃなかった。瞬や仲間たちと共に、アテナの聖闘士として戦っているうちに、俺にまで 聖闘士としての義務感や責任感のようなものが備わってしまったのかもしれない。俺のせいで この地上世界が滅ぶことに罪悪感を抱かずにいるのは無理だ。そして、瞬の姿が見えていたら、俺はまた、アテナの聖闘士がしてはならないことをしてしまうだろう」
「それじゃいけないの」
「いけない……んだろうな。いつも 仲間たちに宣言していた通り、瞬を助けることができたのに――俺は 自分でも驚くほど、自分の選択を後悔した……」

それはまあ――瞬一人の命を救うために、地上にいる数十億の人間の命が消えることになったとしら、そんなことを自分がしかけたのだと意識してしまったら、無事に生き永らえた瞬が側にいたとしても、確実に寝覚めは悪いでしょうね。
自分にはどうでもいい数十億の人間。
でも、そんな人間たちだって、それぞれに懸命に生きていて、恋したり、愛したり、自分と同じことをしているわけだもの。

「見えない方がいいんだよ」
瞬が、ぽつりと小さく呟く。
「聖闘士でなく普通の人なら、自分の好きな人だけが見えていればいいって思うことも 公言することもできるし、許されるだろうけど、でも、アテナの聖闘士は それじゃ駄目なんだ……」
アテナの聖闘士は、それじゃ駄目?
自分の恋人より、地上に生きる数十億の人間のことを考えるべき?
それはそうかもしれないけど、だからって、こんなふうに あえて自分を苦しめ不幸にする必要があるかしら。
それこそ、アテナが 自分の聖闘士たちに対して 罪悪感や負い目を抱くことになりかねない。

「アテナの聖闘士は それじゃ駄目って……。瞬。あなたは自分から望んで聖闘士になったの?」
「うん。僕は、僕個人の幸福より、地上に生きる多くの人の命と幸福を守りたかった。そのはずだったのに……」
「氷河は? 氷河は なぜ聖闘士になったの?」
「俺は……最初は母の――自分のためだったな。俺が聖闘士になったのは自分のため、聖闘士でい続けたのは、瞬が聖闘士だったから。瞬と一緒にいるために、俺は聖闘士であり続けた」
氷河は そう言って、ふいに笑った。
自分を嘲る笑い。
「俺は 自分のことしか考えていないエゴイストだったんだ。それが どこで何を どう間違えたんだか、こんなことになってしまった」
氷河は、クールを気取って、クールになりきれないタイプなんだっけ。
それだけじゃなく、悪ぶって悪ぶれない偽悪者でもあったというわけね。
そして、自分で自分に罰を与えたということか。

「見えてはいないけど、氷河の心があるのは感じる。氷河が側にいて、僕を思ってくれているのはわかる。いいんだ、僕は それだけで……」
泣きながら、そんなこと言わないでよ。
ちっとも、いい・・ように見えないわ。

でも――。
二人が世界の秩序を乱す存在になり果てた事情は とりあえずわかったけど、でも、これは困った事態だわね。
要するに、この二人はいい子すぎ、良心に恵まれすぎているせいで こんなことになってしまったわけでしょう。
これじゃあ、神様も 二人を懲らしめにくいというものよ。






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